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	<title>その、不思議な、夜の、</title>
	<author>罧原堤</author>
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	<spin-off>pass</spin-off>
	<critical_comment>pass</critical_comment>
	<chapter_count>41</chapter_count>
	<letter_count>321065</letter_count>
	<description><![CDATA[ゴマふあざらしに捧げる。]]></description>
	<updated>2010-08-06T20:25:40+09:00</updated>
	<published>2008-02-06T04:27:39+09:00</published>
	<cover_image>http://texpo.jp/texpo_book/cover_image/697</cover_image>
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<content>

	<chapter id="2896" seq_num="1" title="蠅車掌" letter_count="3449" updated="2008-02-06T18:02:38+09:00" published="2008-02-06T18:02:20+09:00">
		<section><![CDATA[　よろこびにはちきれんばかりに、チアリーダーが嬉しそうにポンポンをふるようにイチョウ並木全体がゆれ動いている。その葉陰にハエが一匹ひそんでいても誰が気づくだろう。ハエには風によってイチョウの葉が揺らされているのではなく、イチョウの葉が動くことによって風がわきおこっているように思えていた。
　ゆがんだ人間社会！　ハエになってせいせいする！　空を飛ぶこともできる！
　手をすりあわせ、沈む夕日を毎秒ごとめまぐるしく複眼をキョロキョロまわしては眺め、おそらく人間だった昨日なら、物憂げにタバコの煙をふかしながらであっただろう、ブルージーに、
「ハエだからだ……」手足を木の枝からはなしては目にもとまらぬ速さでまたくっ付けては、離しては、ピョンピョン跳びはねたりして、
「しがないハエにすぎないが……、それでも誰にも負けない愛が心に宿っていると信じたい。思えばタバコを吸うとチーズの味がしだした頃からハエになりだしていたようだ。それにしても複眼とは何と便利なものだろうか、裏の裏まで丸見えだ、うすいブラウスの下にピンクの花柄ブラジャー。あのかわいい娘の。全てがバラ色にうつる」
　イチョウ並木が続いている制限速度40ｋｍの道路。よこに15階建てのマンションがある。夕暮れの中を帰宅する中学生たちの姿が見える。わきあいあいと。肩よせあって雑談しながら。雨の中を。イチョウの木にイチョウの葉がついていれば、すなわちそれがイチョウ並木なのだ！
　４車輌目の連結部分に8つのチェーンがあって、そこから８つの車輌が何輌もつづいている。いちばん先頭の車輌はそれぞれ新幹線のように滑らかに頭部が先細りしており、竜顔になっていて、８つの車輌はもはやレールの上には乗っておらず、空中を浮遊しており、口から火炎放射する。線路沿いの民家やマンションに火炎放射を浴びせかけ、破壊と殺戮を繰りかえし、狂ったようにくねりながら快速で闇へと突っ走る。鋭い牙のかたすみに悪魔の微笑をほほにうかべて。通勤で混雑するラッシュ時には平然と駅にとまり、乗客をのみ込んだり吐きだしたり。客の中には猟銃を手にしている人もいて、まずいっぱつ発砲して窓ガラスをくだけ割らせると、ガラス片をゴム長靴でふみにじりながら、マンションのベランダで洗濯物を干している主婦などに標準をあわせて引き金を引く。スコープ越しに見えるマンションに住む奴らのしだいにひきつる顔々。
　このハエは昔、この電車の第6頭部の車掌として働いていた。いそがしい日々だった。
「何かごようのやからは乗ってはおらんか？」と、連結箇所まで腰をふりながらねり歩いていっては、運転シートに戻り、でっぷり太ったケツを何度も何度も座席におしつけ、座りごこちを良くしてから、火炎放射をしがない木造アパートにくらわせ、一瞬にして全焼させる。アパートの二階の窓から燃えさかる奴らが2、3、飛びおちると、しだいに黒こげていきながらのたうち回ってるそいつらを指差して副車掌と一緒に笑いあい、一笑いしたあと、さっきのfire showが乗客たちの目にどう映ったか彼らの反応を満足げな顔をして見やりにいく。当然彼らからの賞賛の視線と言葉を期待しているのだが、ある雪の日、
「なんかようのある奴はさっさと名乗りでろや」と、いつものように、サインを求められないかとちょっとドキドキしながら、老人のフロックコートに唾を吐きかけたりしていると、通り過ぎた座席からニュっと手が伸びてきて、制服を引っぱられた。
「なんだ？　オレの服から早くそのうす汚い手をどけろや。副車掌に痴漢させにこさすぞ」
　まだ幼さの残る少女が口をひらこうとする、
「あ、あなたは、私の母を、母を殺した、あなたは一昨日、私たちのマンションに……　かえして！　お母さんをかえして！」
　うすら笑いをうかべて、パチパチとパンチ鋏をカチ鳴らしながら、
「線路沿いに住んでるからそういうことになるんだよ。ちょっとでも脳みそがあるならわかるだろう。バカバカしい。そんなの殺してくれっていってるようなもんじゃないかよ」
　少女は激しくかぶりをふる。おさげ髪が窓ガラスにぶち当たる。
「ちがう！　マンションになんて住んでなかった私たち！　ずっと、ずっと、安アパートに住んでた、お父さんの会社が倒産して、莫大な借金せおわされて、お父さんが、お父さんが自殺してから、ずっと……　私、子供のころから一部屋しかないアパートに住んでた、お母さんは台所で寝てた、一部屋しかないその部屋を私につかわせてくれるために。でも私がマンションに住みたいって駄々こねたから……　こんなアパートに住んでちゃ恥ずかしくて友達も家に呼べないって……」
　少女は目に涙をためて、
「私がそんな無理言ったからだからお母さん死んじゃったの？　だって線路沿いのマンションしか私たちには住めなかったんだもの。誰も住みたがらないところしか私たちにはいばしょがなかったんだもの……」
　彼女の背後にあるガラス窓に雪がちらついていた。
　ハエはイチョウ並木の葉陰にかくれながらその日のことに思いをはせていた。あの少女を何とか助けてやらないと、と。それにいつまでもここにはいられない。残り少ないイチョウの葉ももうじきすべて舞い落ちてしまうだろう。寒風に吹きとばされて。今までなぜ気づかなかったのだろう。今までなぜ他人の心の痛みがわからなかったのだろう。なぜ自分本位に生きていて恥じいることがなかったのだろうか。
『　今日　平日だな
　　学校だ
　　行かないと、
　　あ、僕、２７才だ、
　　今、学校に行っても昔の同級生は誰もいない
　　そもそも授業をうけれるのか？　
　　もう　遅いんだ　。今さら決心したって、しめだされてる。いまさら決心してもしめだされてる。　』
　空き地でおじさんが焚き火をしていた。ハエはいっそのこと潔くと、燃えさかる炎の中に身を投じかけたが、やめた。だが、燃やしつづけろ。燃やしつづけろその薪を燃やしつづけろその薪を。
　ハエは飛んでいった。
　そして、来る日も来る日もハエは少女を探しもとめた。
　ショーウィンドウに青いベルがいくつもくっ付いていて、トナカイのイルミネーション、青、赤、オレンジ、緑の光が点滅していて、何ヶ月分の給料を出しても手が届きそうにないキレイなドレスが飾られてある。ものほしそうに、しばらくドレスを見つめていた少女はコンビニで買ったちっぽけなクリスマスケーキとシャンペンを手に駅へとまたトボトボと歩きはじめる。幸せそうなカップルたちの間を通り抜けて、通り抜けて。私を愛してくる人は誰もいないの？　そんな思いがこみあげてきてしかたなかった。
　階段をのぼりきると、駅のプラットフォームにぐるぐる粉雪が舞っていた。少女は急いで電車の中へと駆け込んだ。一人のみすぼらしい少女がそこにはいた。赤い毛糸のセーター。赤い髪して、チュッパチャプスの棒を口から出して、少女は窓辺にこしかけていた。ハエは彼女の手提げカバンの中に隙間から入りこむと、そのまま静かに揺られていた。少女の家まで。ザックザックと雪が踏みしめられる音をききながら。カバンの中は暖かかった。それに何かの香料のいいにおいがしていた。
　どうやら無事、部屋の中に入ったようだな、と、ハエはブーンと飛びでて、テーブルの上に乗り、少女の目を覗き込んだ。畳張りのうす暗い、質素な部屋。写真立てに少女が幼かった頃の色あせた写真が入れられてある。父親に抱きかかえられて。かたわらに母親がたたずみやさしげに娘にほほえんでいて。彼女はオレを許してくれるだろうか？　柱時計の秒針だけがカチャッ、カチャッとひびいていた。ハエは手をすりあわせたい衝動をじっと我慢していた。なんだか失礼なことのように思えて。
　少女はハエを目にすると、すぐにクリスマスケーキをとりだして、ハエの前にさしだし、
「おなかすいてるでしょう。こんなに寒くてたいへんねあなた。今、ストーブつけたとこだからもう少しで暖かくなるからね」
　ハエがおじょうさん、ボクのほしいのはそんなケーキなどではないよ、そのシャンパンだよ、とでも言いたげに、シャンパンのビンにとまると、
「あら、こっちのほうがいいのね」
　少女はそう言って、シャンペンのコルクを抜きはじめた。
　ハッピークリスマス。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2898" seq_num="3" title="チワワみたいに小さくて" letter_count="3358" updated="2008-02-06T18:06:55+09:00" published="2008-02-06T18:06:34+09:00">
		<section><![CDATA[　脳がねばっとして、何も手につかない。床には数日前に嘔吐したウィスキーとその日に食っていた食べ物が、吐き散らかされたままで、悪臭を放ち、部屋から抜け出るとき踏むと足に粘りついた。ただ拭きとればいいだけのことすら、する気にならなかった。どうでもよくなっていた。何をやったら自分の人生に光が差し込んでくる行為なのかがわからなかった。少しずつ自分の進むべき道がわからなくなってしまっていっていた。半開きのドアから隣室の天井が見える。僕がこの家に引っ越してきたのは、そうだな、もう6年にはなる、その時の天井と今みえている天井は同じ、そうだった、昔はあの天井の下で僕は寝起きしていた、6年前、あの頃の僕は人とまったく話せなかった。本屋とかで、『カバーしますか？』と聞かれても、緊張して口が開かずにただ俯いたり、首を振ったり、そんなんだった。ブックオフに行って買いたい本があっても、『会員カードはお持ちでしょうか？』と訊ねられるのが苦痛で何時間もレジに行くのをためらったりしてた。でも今はそんなことは余裕だ。笑顔で対応できる。真夜中に気が狂って絶望して大声で喚きながら外に飛び出たりしてた。でも今は理性で抑えられる。でも、鬱屈した気分に襲われることは変わりない。そう、僕はもう狂えない。叫べない。ただ苦しみを苦しみとして受けとめているだけ。希望もなしに。ほらここはこんなにもうす汚れているんだ。
　僕はふらふらと街路を歩き始めていた。何か救いはないのかと、迷い苦しみながら。疲れていた。何が大切なことなのかわからなかった。頭痛がしていた。息をするのもやっとだった。だけど、だからこそ、どこかへ行きたくてしかたがなかった。あの道を曲がれば救いがあるかもしれない、あの道をずっと歩き続けていれば不思議な出会いがあるかも知れない。自身にそう言い聞かせて歩き続けていた。が、こんな状態でも脳はけっこう冷静なものだ。(そんな救いなどはないに決まっている)と、わかっていた。川が流れていた。僕は、コンクリートのタイルを踏みしめ、転げ落ちてしまわないように少し注意しながら、河岸を歩いて、降っていたが、橋の真下にくるとそこに座り込んだ。しばらくそこに座りつづけ川面を眺めているといくぶん気分も落ち着いてきた。川面がキラキラと輝いていた。橋の下は何かの金属のバネのようなものが垂れ下がっていて、空き缶や古新聞など捨てられたままで、それらを見ていると、ここが自分の居場所のような気がしてならなかった。体がフッと軽くなったようだった。ここが僕の居場所なのか、もう僕の部屋は、あそこは、違う。自分の部屋にいても倦怠感や退屈感に見舞われるから、あそこはもう僕の居場所じゃないんだろう。どこかの広場や人ごみに揉まれているより僕はやっぱりこういうところに一人でいるのが似合ってるんだろう。ガキの頃からそんな奴だった、そんな変な奴だった。背後の壁に何か落書きが書いてあったが読み取れなかった。しばらく放心していたと思う。５、６分ぐらい。それから僕はむしょうに走りたくなった。全力疾走して、自分の部屋まで戻って、必要なものをここまで持ってきたくなった。だがその衝動は大きなものではない。ただの思いつきのようなもので、ただ、だんだん肌寒くなってくる、寒さに、上着を取りに戻ろうか、（……それとも）、と、ズボンのポケットをまさぐり財布を持ってきているのに気づくと、そのへんで酒でも買おうか、どうするか、思案しだした。酒を飲んで自分を燃え上がらせればいい。体から熱が発するはずだ。だがまだ我慢できる。鴨が泳いでいる。鴨だって我慢しているんだ。限界まで我慢してからでいい。メダカが泳ぐ入り江みたいなとこまで降りていき、「俺がダメなやつだから」と何度も呟いていた。
　風がビュウビュウ吹きこんできて、もうきつい、しゃがみこんでしまい、どうしていいかわからないまま、
（とにかく、酒でも買いに行くか、そろそろ）と、思い、腰を上げかけたときだった。真横に狂犬がいた。大きな口をあけて、もはやそれは犬ではなかった。霊魂、いやマンガ、アニメ、そんな感じだ。目が顔の割合に反してでかく、顔から飛び出てつりあがっていて、頬はこけていてムンクの『叫び』のようだった。目は白く輝き、顔面は青白い光を発していた。最初、噛みついてくるかと恐怖した。だけども、その犬は僕に擦り寄ってきて、おとなしくしている。そして先ほどとはまったく違い、目が異様なほどたれていて泥まみれで、哀れさをもよおしたぐらいだった。そしてしばらくそのままでいた。僕は悲しさにとらわれていた。それで何かばかげたことばかり頭に浮かんでは消えていった。（僕がもしムンクみたいに目立つ絵が描ける画家だったらどうしてただろう。たぶん絵を描いていただろう。ただ描き続けていただろう。絵ならどこでも描ける、そのへんの待合室などでも、それでその絵を見てくれる人はいつだっているだろう。すぐに賞賛してくれるだろう）だから思う、（僕がうまい、すごい絵描きだったらどんなに幸せだっただろうか、すぐにみんなが僕の価値に気づいて、才能に気づいて、賞賛してくれるんだから、でもそれは機知でもいいのかも知れない、でも少しの人間関係に躓いて逆に嫉妬の対象になったりするかも知れないから、やっぱり画家の才能がいいな、それか容姿が優れてるとか、でもそれはそれで嫉妬の対象になったりするかもしれないから、モテたってしかたないし、やっぱ画家の才能があったらよかったのに……）
　それにしても痩せこけた犬だ。僕は立ち上がると、何か犬に食わせてやろうと、食べ物屋を探し始めた。犬はくっ付いてきた。明かりのある方向へと、街へと、向かっていると、小さなケーキ屋があった。道々、その店を観察していると、まだ店員が働いていて、客も何人かいて、椅子に座りこんでいるのが窓越しに窺えた。
　店内に入ろうとドアを開けたとき、犬も一緒になって入り込もうとしたので僕は足で通せんぼし、店内に入った。犬を連れ込めば店の人が迷惑するだろうと、思ったから。ショーケースにいろんなケーキが並べられてあった。僕は黙り込んでいろいろ見ていた。苺の周りがショートクリームでいっぱいのやつや、光沢があるチョコレートケーキ、薄切りのメロンがたくさん添えられたケーキ、僕は、（犬はチーズが好きだよな）と、思い、かわいい若い娘の店員の方を向いて、
｢チーズケーキを４個｣と言うと、椅子に腰掛けていた女子高生が、
｢ヒロくん泣いてるよ｣と言ってきた。
｢ヒロくん？｣
｢あの犬だよ。あの犬、泣くんだよ、目からポロポロ涙をこぼして、ほら泣いてるでしょ｣と、女子高生は窓ごしにその犬を指差した。ヒロくんの瞳から大粒の涙が流れて、地面に落ちていた。
　僕はいそいでケーキを受け取ると、外に飛び出て、チーズケーキをヒロくんの前に差し出した。
「ヒロくん」と呼ばれると犬はニコっとどこか悲しげな笑みを浮かべながらペロッとケーキをたいらげてくれた。ああ、僕が店を出てきたとき、まだ残ってくれていたから良かったようなものを。もし、いなくなってたら一生後悔しただろう。足で邪険に扱ったりして。もう、そんなことはしない。一緒に店の中に入ればよかったんだ。それで店員に注意されれば、汚いものを見る目で見られたら、入ってくるな呼ばわりされたら、一緒に追い出されれば良かったんだ。ちょっとしたごたごたに過ぎない。たったそれだけのことだったんだ。「俺の犬だ、俺が守る」って言えばいいだけのことだったんだ。後ろ指さされて、もたつこうとと、くよくよしないでさ、まごついて戸惑ってもいい、だけど、死に物狂いで守ってやるべきだった。立ち上がれないほど落ち込むなんてことにはならなかったはずだ、そうなったとしても。些細なことだ。僕は、他人の視線を気にし過ぎて大事なものを失うとこだった。ものごとは少しずつしか進まない。少しずつ努力していく。改善していく。それが徒労に終わろうとも。とにかく前向きに。元気を出して。いこう。赦し赦しあう関係でいく。
　僕らは歩き出した。心地よい風が吹き出す中を。黄昏てってく感じだった。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34247" seq_num="5" title="君は僕のミス・ヒロイン" letter_count="3808" updated="2010-08-06T19:08:41+09:00" published="2010-08-06T19:08:23+09:00">
		<section><![CDATA[　君は今でも郵便物を振り分けていますか？
　時間に追われて。みなと一緒に。新しく入ってきた人ともいろいろ話してるんでしょうね。もう、僕たちは無関係に生きているんですね。互いの世界で別々に。
　あなたとはバイトでほぼ同じ時期に入り、それから３年近く一緒の職場で働きましたけど、僕はそんなに長く、でも、今思い返せば短く、はかなく、せつなく、でもキラキラと輝いている思い出ですが、３年も同じ女性と毎日のように会うという経験をしたことがありませんでしたので……
　むろんその職場に以前から勤めていた女性たちとも僕は３年間ともに働きましたし、ほぼすべての女性にそれぞれ二、三日の恋情をよせたものです。
　うら若き女性が多かったんで僕はいごこちよく３年もいたんでしょうね。
　それでも、君とはやはり同期ともよべる間柄で、僕の勤務時間もはじめの２ヶ月、君と同じ早朝の２、３時間でしたので、同じ朝のメンバーとしての連帯感を感じていました。
　ふたりで並んで机に座ってメンコの裏にハンコを押していたのとか、よく覚えています。まだ入って１ヶ月もたっていない頃でしたね。あなたはおぼえていますでしょうか？
　それから半年ほどして入ってきたカッコイイ、ハキハキとしたまれにみる好青年にあなたは嬉々として目を真ん丸くして仕事を教えていましたね。僕はあなたのことを勝手に自分の妹のように感じだしていましたので、その光景の中にからかうように割り込んで行きました。あなたは、邪魔者めこっちくるな！みたいなちょっと嫌そうな顔をして、僕に、
「何か間違ったこと教えてますかっ？！」
　ってけんけんして言いました。僕はどぎまぎしてしまって、
「いや、僕もそのやりかたよく知らないから一緒に教えてもらおうかな、なんちゃって……」
　あなたはもう僕なんか相手にせずにまた夢中になって好青年に仕事のやりかたを教えはじめました。
　あなたのそんな異性に対する楽しそうな振る舞いを僕ははじめて見たこともあってあなたの意外な一面にびっくりしました。
　でも、嫉妬心はなかったのです。あなたに好きな人ができたことが純粋に嬉しく、ほほえましかったのです。今、ちょっとネカフェからニコニコ動画にログインしましたが、パスワードがあなたとともにいた空間にかかわりのあるものを使っていまして、なんだか、あなたをまた身近に感じてしまいました。今、ネカフェではビートルズのオール・ユー・ニード・イズ・ラブが流れています。ビートルズは僕が１５歳のころから聴きまくっているグループです。でもあなたはもちろんそんなの知らないよね。３年近くも一緒にいて楽しく雑談したことなんて無いんですからね。いえ、楽しくなくても雑談自体したことがないんですからね。あなたと好青年は少し話していたようでしたが。おそらく好青年から気さくに気の利いたことを喋りかけて、あなたも打ち解けてぺらぺら喋っていたんでしょうよ！　勤務中に！ セックスもしていたんじゃないですか！　隠れて！　知らんけど。僕は仕事上のこと以外は何も言えなかったけど。もしかして、クールな先輩でしたか？　違うよね！　ただの根暗だよね！　でも実際はどうも好青年にはすでに彼女がいそうでしたので、あなたのことを心配してもいました。バレンタインデーの日におばさんたちから義理チョコを何個か貰って、チョコを持っておばさんがまたやってきたので、「ありがとうございます」と普通に受けとろうと手をだしたら、「これＭさんから」とおばさんがいいました。僕は信じられなくて、とっさに「Ｈ（好青年）さんへのじゃ……」とつぶやきました。それからあなたも恥ずかしがり屋だなあ、テレて手渡せないなんてかわいい娘だな、などと浮かれもしましたが、本当に好きなら自分で渡せるよね！　渡すのもめんどくさいなんて義理チョコの上をいく捨てるように置いてったもんだったんだと、そう受け止めました。
　バイトを辞める２、３ヶ月前にあなたに告白しようとしたことがあります。あなたの夢を見て、どうしても告白したくなりました。夢の中であなたはとつぜん職場で産気づいて出産してしまいました。周りのおばさんたちが大騒ぎしていて、あれこれ心配してかけよっている中、僕はなんだＭさんって僕の知らないところでセックスしていたんだな。男といちゃついていたんだな、彼氏いないって小耳にはさんでいたのに！　悲しくなってタバコをふかしながら屋上までのぼっていきました。あなたが恋しくなりました。一時的なものかなとも思いましたが恋心はますますつのるばかりであなたのことを想うだけでハアハア、と、息をし、心臓は爆発しそうでこれはもうアプローチしようと、なりふり構わず一緒のところへと、狙っていた人の少ない日曜日の朝、郵便物を振り分ける作業を手伝いにいってあなたに告白しようとしていたのですが、ありえないぐらいに動揺しており、やっと口を開いても仕事に関することしか言えずに、それもいつもはそんな程度のことをいちいちわざわざ言ってなかったんでおかしかったんでしょうね。汗なんかかく作業量でもないのに大汗をかきながらポツリポツリ、脈絡なく、
「雨がふると郵便物少ないね」「メンコおさないと」「チルドコンテナがいまちょっと動いた」
　などと譫言のように言っていると、あなたは首を傾げて、にこにこして、僕の心を見透かしているように、
「どうしたの？」
「いや、この皇太子ご夫妻の切手の皇太子様の顔が証印されてて黒人になってるんで、雅子様が笑ってるけど……」
　次の日も祝日で郵便課にくるのは３、４人だ、絶対に告白する！ 強い意気込みのもと僕は夜にしか飲まない精神科の薬を、「まだ足りない、これじゃ言えない」と薬にたよりきって、何錠も飲んでから、職場に行きました。ふらふらしてあなたを探していましたがいません。なぜか課長代理がパジャマのまま来ていて、
「たまにはＭさんも休ませないとね。いや～、来月の勤務表つくるのも頭がいたいよ～」
　僕は悶々とするばかりで、あなたのもとへと飛んでいきたくはありましたが、あなたはおらず、襲い掛かる睡魔に耐えながら、しかし、郵便も小包もやはり祝日で少なく早々と作業を済ませ、特殊室の中で郵便課全員の連絡先が書いてある書類をうつろな目で見ていました。
「Ｍさんて自宅の電話番号しか書いてない。携帯も持ってないのか。おばさんが言ってたもんな。あの娘もちょっと変わってるって」
　一時期あなたと同じくらいの年齢の女の子たちが朝の区分に加わりましたが、あなただけあまり仲良くしてませんでした。他の女の子たちは仕事を終えても、毎日、休憩室で昼までおばさんたちとがやがや会話していたのに。あなたが楽しそうに会話していたのはあのイケ面だけじゃないか！　こ、この、恋に恋するお年頃が！
　周りの目を気にせずに告白するチャンスの日はとうぶん来ません。人を削られ仕事量は増大し勤務時間が８時間になってからは、疲れきってしまっていて、でもそんな中でも、もしかしたら正社員にいつかなれてあなたを養えるかも、と頑張っていましたが、やってきた総務課の課長が、
「Ｋ君への評価は変わりません」
　と、かすかな望みも思い切り断ち切ってくれました。あなたを幸せにする希望を失い、愛犬も死に僕を故郷に縛る要因も消え失せ、あ、あと頭が禿げてきてるのもあった。髪が抜け、あなたの恋愛対象からどんどんはずれていってみじめな思いをしたくなかった。
　まったくこんな有様のワーキング・プアーが血迷って告白などしなくてよかった。ただのゆうメイトごときが。フラれたほうがスッキリするかもとも思ったけど、あなたがそのことでいづらくなってもいけないし、あなたの皮膚病がひどくて腕や顔じゅう真っ赤になっている時なんかは、あなたはバイトに来るのが嫌だったでしょう。僕もなるべくあなたのストレスにならないように努めましたが、ずっとよくなってるといいね。ずっとよくなってたもんね、最後の一年くらい。バイト辞める時、
「前に出てみんなにお別れの言葉を」と言われて、なんでいちいち言わなならんのと思いながらも、
「いままでいろいろとありがとうっ！　以上っ！」
　と、やけ気味に叫ぶと、みんなの前でそんなこと恥ずかしがらずに言えるようになったのね、って顔でほほ笑んでくれてありがとう。
　今でもたまにあなたの夢を見て目が覚めると、ハアハア喘いでます。あのね、でもまだ完全にハゲてないから安心して下さい。まだあなたの前に一瞬くらい、１時間くらい平気でいれるから。あなたさえよければずっといれます。まだ一年しか経ってないから。僕とあなたが別々になって、でも一年すぎるのは早かったかも。そしてまた一年たてば二年になるね。あなたにとっては一年だろうが二年だろうが僕は用無しかな？　だったらもっとハゲて頭、突きつけて、「さあ見ろ！」てゲットバックしてやる。それまで待ってろよ。いつまでも待ってろよ。僕のＭ・Ｈ（ミス・ヒロイン）！
　郵便物をわけていてくれ、元気に！
　なんて言いながらまだ東京のネカフェであなたのことをねちねち想いつづけてる、こんな執着ヤローだけども、人生の後半戦に向けてラストスパート！
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2897" seq_num="6" title="marker　world" letter_count="16219" updated="2008-10-07T19:06:21+09:00" published="2008-02-06T18:03:22+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　ゆったりとカーテンがたるんで机の端にかかっていた。僕はカーテンを手で払い、窓を開け外を見た。アスファルトの道に白い文字で大きく『止まれ』と書かれてあった。いったい誰が書いたのだろうか。僕は何か得体の知れない大きな存在者を漠然と予感していた。『止まれ』の文字の前には一本の線が引かれてあって、その線の前で止まっていなければならないらしかった。見ると、昼頃には四、五人だった並んでいる人の数もかなり増していて、ざっと見て、15人ほどの老若男女が列を作っていた。先頭に80歳くらいの老婆がいて、背後を振り返り、くたびれた服装をしているおじさんに話しかけた。
「いったいいつまで止まってなきゃいけないんでしょうねぇ……」
　おじさんはタバコをふかすと、ため息をつき、「それは、止まれが進めに変わるまでだろ」
「いったいいつになったら、私たちはこの束縛から解放されるんでしょう……」
　老婆の口から嘆きの声がもれた時、おじさんはまばらな垣根ごしに僕を見つけると、ちらっという感じで僕を見て、
「誰か覗いてるぞ」とみんなに知らせた。すると列の間から、「何だあいつ、無関係そうにじろじろ見やがって。人が苦しんでんのにいい気なもんだ。ちくしょうが」
「私たちを馬鹿にしてるんじゃない？」
「あいつも止まれの命令にしたがうべきだ。だって文字を目にしてるんだからな」
「そうだ、そうだ」等々の声々がおこりはじめた。僕はあわてて、窓ガラスを閉ざし、カーテンで覆った。それから、僕はヘッドホンを耳に当てて音楽を聴き、彼らの罵声を聞かないように努めた。……それから、九時間半時間が経った。
　僕は椅子に座らずに、本を読み始めていた。僕の周りにビール瓶が散らばっている。かたづけたかった。
　僕の目に見えるものは……
　猫が近づいてき、僕の横でとまった。室内は寒い。一人きり。深夜の２時をまわっている。
　タバコを何本も吸った。やめられなかった。ずっと起きていてもいいし、ゲームをし続けても良かったが、将来の不安は感じていた。そのためにますます現実逃避。
　僕は本を放り投げ、窓を開けた。冷たい風が部屋に入り込んできた。暗い闇夜に星が光っていた。彼らはまだいた。その数も増えていた。街燈に照らされる彼らの青白い顔が不気味だった。もはや顔から精気が消えている。支えたり、支えられたりしながら何とか頑張って立ち続けようとしているようだった。彼らの人影はごそごそといつまでも動き続けていた。僕は睡眠薬をウィスキーで流し込んで、ベッドに身体を投げ出した。
　翌朝、僕はカーテン越しに、まぶしく照りつけてくる太陽の日差しを浴びて、爽やかに目覚めた。床に置いていたペットボトルを取り、一口、ジュースを飲むと、洗面所に行き洗顔し、犬を呼びつけた。首輪にリードを付けると、5、60人ほどに膨れている人々の向きとは、反対方向に道を歩いていった。家を出るときに見たが、先頭のほうの人々はもう立っていなかった。ぐったりとして、地面に寝転び、止まり続けていた。後ろのほうに並んでいる人々から浴びせられる視線が痛かった。彼らは冷ややかな眼差しで僕をにらみつけてきた。舌打ちも打たれた。
　50メートルほど歩くと、犬が歩き止りドブ川沿いの草に小便をかけた。その小さなドブ川の中に薄緑色の作業服を着た男が一人、入っていて、トンネルのようになっている狭い暗闇の中へ入っていこうとしていた。地面を見ると、5×5センチ四方の正方形の形をした銀色のアルミのプレートに赤い文字で、

#image(235)

　と、彫り刻まれていた。男は矢印の方向に行こうとしていた。僕は驚き、彼に声をかけた。
「あなた！　なぜ、そんなところに行ってしまわれるんですか！」
　男はかがんだ姿勢のまま、黒く汚れた顔を僕に向けて、
「わからない、……俺にもわからない。……でも俺は境界がどんなところであろうが構わない。今の生活よりはましに決まっているから……」
　翳った表情、沈んだ声で彼はそう言うと、ずんずん奥へ進んでいった。

　　　　２

　底冷えのする夜。僕は目覚めた。ガタガタふるえていた。虚しかった。裸電球がオレンジ色の光を放っている……薄暗い……ぼんやりと……
　開けっ放してある窓から冷たい風がびゅうびゅう入ってくる。もう秋なんだ。脳が重いように調子が悪くなっていく。世界がもう自分を受け入れてくれないような、そんな気がした。
　僕は憂鬱になると、苦しい煩悶の中、よく散歩に出かけた。どこかに行ってしまいたくなって。憂鬱が吹き飛ぶような幻想的な世界がきっとどこかにあると感じて。そこへと。……僕は境界に行ってみることにした。いまの境遇よりもましかもしれなかったから。思い切って、飛び込んでみるべきだと。僕は境界に生きる望みを見出そうとしていた。
　街路樹の木の葉が街灯の明かりに照らされている。緑色に。『止まれ』の文字に従い続ける人々は道路に次々と倒れていったのだろう、重なりあって死んだように動かない。そんな倒れた者を見下ろしながら新たな人々が彼らの真横に立ち尽くし、何やら小声で話しこんでいた。僕は彼らをなるべく見ないようにしていた。彼らを見ていると自分も将来あんなふうに意味もなくただ立ち尽くす人間になってしまうような気がして。──吹き付けてくる風が冷たかった。雨雲が月の光を遮っている暗い夜だった。よろめきながらドブの中に入った僕はひざをかがめて、ジーンズを汚水で汚しながらトンネルの中を奥へと這っていった。いわゆるドブ臭く、暗闇がずっと遠くまで続いている。僕は無我夢中で、ドブ川の流れる薄汚く真っ暗なトンネルの中をくぐっていった。水は冷たく、狭苦しかった。それでもはいつくばってがむしゃらに進み続けていると、7メートルほど先の水面に光がたなびいたりして反映していた。そこまで着くと僕は頭を出し周囲をよく見回してみた。アスファルトで舗装された道路が坂道のほうへのぼっていっている。街灯に照らされているその通りは僕が良く知っている道だった。僕の家のある通りよりもう一個先の通りだった。一瞬、（やっぱり境界なんてなかったんだ……）と、気落ちしたが、ハッとして、気づいた。トンネルを潜り抜ける前はあれだけ真っ暗だった空なのに、この通りは街灯は付いておらず、太陽が輝いている。どういうことだろう？　不思議に思い、僕は曲がり角を曲がって、自分の家のある通りまで走ってみた。うまく走れなかった。手が無くなってしまっていてかわりに羽毛に覆われた翼がついていた。足もグロテスクな三本の指、先端に鋭い爪。Wah-wah！──　頭の中がパニック、に、なりそうだった──だけどすぐに僕は自分の変わり果てた姿を受け入れた。なぜかわわからないけど、すぐに……　こんな姿かたちになってしまった、そんな、今の自分の目の前に、さっき出かけていった僕の家が変わらずあった。部屋の窓が半分ほど開かれ、カーテンが風に舞っている。懐かしい、George・HarrisonのMy　Sweet　Lordが聴こえてくる。室内にはプチ鬱な日々を過ごすもう一人の僕がいて、
「ふう……」
　と、ため息をつき、カーテンに降り注ぐ目映い太陽光線を浴びながら、掛け布団をめくり上げ、重い気分のまま、のそのそと起き上がっているのだろうか。わからない。だけど、腺病質そうな人影が見えている。細長い、管のような奴の影が薄い花柄のカーテンに、風に揺れながら。あいつにとって朝の輝きも、暑苦しいだけだろう。むかしは爽やかに目覚めて、快適だと感じ、寝床を出て一杯のコーヒーで喉を潤した日もあったのにさ。何者かわからぬ者の人影を眺めている僕の傍らにある電信柱には、『鳥獣保護区域』と、貼り付けられてあり、『止まれ』の文字に止まり続けていた人々の姿は消えていた。僕は玄関まで近づいた。確かに、僕の苗字、『渡辺』と彫られた表札がある。インターホンを押してみた。中でガタガタ物音がして、母さんが出てきた。
「ただいま……」
「は？　どなたですか？　うちは渡辺ですけど」母はそう言い、きょとんとした目で僕を見続けていた。
　どうしていいかわからず立ち尽くしていると、猟銃を持った父が険しいまなざしをしてやってきて、「お前が鳥じゃなかったら撃ち殺してやるのに……。フンを、フンを撒き散らしやがって……、我が家の前に……」と、悔しそうにつぶやいた。どうやら、本当に僕のことを知らないらしい、そう感づいて僕は、
「あ、すいません。間違えました……」
　しどろもどろになって、一段高くなったコンクリートを降りるとき転びそうになりながら、見知らぬ町へと、歩いていった。もし僕に羽がなければアスファルトにくちばしを打ちつけていただろう。羽を一はばたきしてなんとかそれを回避してやった。ここは、そう見知らぬ町だった。建物は以前住んでいた世界と同じようだが、この世界には僕を知っている者はいないのだろう。なんだか息苦しかった。どうも空気が薄いようだった。頭がガンガンと鳴り響いた。聴いたことのないうるさいだけの音楽のように。
　これから僕はどうすればいいのだろうか……　このままじゃ生きていけない。でも、元の町に戻ったって、どうしていいのかわからないことには変わりはないだろう。鳥の姿になってしまった僕を受け入れてもらえるとは思えなかった。とぼとぼと、自然公園の方へ翼を広げ羽ばたくそぶりをしながら僕は歩いていった。だが、だが、だが、だが、僕は本当に自由になれたんじゃないだろうか。大空を無心に飛びかうことができる鳥なんだ、僕は。やさしい風と戯れ……　美しい声でさえずる……
「ヴェー」試しにさえずってみた声は濁音だった。……だけど、練習すれば、きっと。今の僕は、青く、限りなく拡がる空を、すべての悩みから開放され、何も考えず、飛び続けられることができるんだ。僕はSな世界か、Mな世界か、どちらかに生きているとしたら、たぶん、間違いなく、Mの世界だ。そんなことを考えながら、僕は頬を伝う涙を流れるままにしていた。
　壊れた頭でも、壊れた頭でも、生きていく強い思い。今、僕に必要なのはそれだけだ。それだけだ。

　　　　３

　どういう都市計画を市長は立てているのだろうか。それともゲルマン民族の大移動のように、なにかわけのわからない、得体の知れないパワーがこの町にはびこっているのか。今日も学校を終え、帰宅途中の、渋谷明は首をかしげるのだった。先週まで八百屋や、魚屋だったところがいまはもう取り潰されオープン日を待つおもちゃ屋に変わってしまっている。（そういえば……）と、渋谷は学校での噂話を思い出す。（斧北通りにでっかいビルが建つんだってな。三越がつぶれてさ、その広大な跡地に１８階建ての、全フロアおもちゃ屋だらけだっていうビルがさ）説明するまでもなく斧北通りとは人口３５万のこの地方都市でもっとも繁華なところだ。その斧北通りが、一面、おもちゃ屋で埋め尽くされ、おもちゃ街へと変貌したのは１９９７年の秋だった。明が異変に気づいたのは、朝、目覚めて、高校生の癖にタバコをふかしながら窓を開けたときだった。いつものように目の前に電線が走っていたが、その日の電線には三角の旗が何枚も取り付けられていたのだ。「おもちゃ」と書かれてある。
「なんだ！　いったいどういうことだ！」
　とるものもとりあえず階段をかけおりると、母親が笑いながら話しかけてきて、
「明ちゃん、どうこのおもちゃ、かわいいでしょ？」
　アヒルのぬいぐるみだった。明はしばらくあっけにとられて、ぐるぐるとした目で母親を見つめていた。
「……おもちゃ、……」
「今日、一緒に斧北通りにいかない？」
「……いや、一人で行く……」
　高校生探偵渋谷明はこのなぞを絶対に解いてやるとの決心のもと、斧北通りまで自転車を走らせた。どうでもいいことだが、向かい風がかなり強かった。それで自転車のペダルを一生懸命踏みつけても、なかなか前に進まない、自然に渋谷にこんな考えが浮かぶ。（おれはいったいなにをしてるんだろうか。みんな家で宿題とか受験勉強とか、彼女がいるやつなんかは公園かどこやらかでとんでもないこともしてるんじゃないか……、キスとか……　それなのにおれは……。探偵っていったってインターネットでしてるだけだし、まだ客も来たことないんだからなぁ）
　それにしても、月並みな言い草だが、透き通るような青空だった。街はおもちゃを買い求める人々であふれかえっている。
「しばらくこないあいだに、街はこんなことになってたのか……」
　しばし呆然として、巨大なビル郡──それらはすべておもちゃ屋なのだ！──を前に、立ち尽くしていた渋谷はとある古ぼけたビルの屋上に鳥のような、そう、風見鶏のようなものがあって、そいつが自分を見つめていることに気づいた。渋谷は探偵手帳を胸ポケットからとりだすと、こわごわ、四車線道路を突っ切り、ビルの階段をのぼっていった。階段には電灯がついておらず、屋上から入ってくる光だけがたよりだった。踊り場や、段の角っこはほこりだらけで、どういうことだか落ち葉などが積もっていた。はあはあ、息を切らせて屋上までたどり着くと、渋谷はそのポーカー・フェイスを真っ青にさせた。人だ。人がいたのだ。しかもその人物は、顔に鳥の覆面をしており、口だけ出していて、その口はヒゲまみれときている。そして、馬鹿げたことに、鳥の羽毛のはえた着ぐるみをきており、何を考えているのか、大笑いしていた。
「よくきたな」
　渋谷は最初の戸惑いから開放されると、その鳥男のそば近くまでいき、
「おじさん、なんで着ぐるみなんか着てるの？　何かの広告塔なの？」
　鳥男は爆笑して、
「あっはっは、違う、違う、それはきみの勘違いだよ。着ぐるみなんか着ていないさ。僕はこういう生物なんだよ」
　たしかによく見ると覆面だと思っていた部分と肌色をした人間の頬の接着面はリアルにつながっていて、こいつはこういう奴なんだ、と、認めざるを得なかった。鼻の頭からするどく尖った嘴が突き出ているのだ。
「お、おじさんは、一体、何者……」そう言い、絶句してしまった渋谷を、脅すような濁った目で睨みつけていた鳥男は、
「なーに。僕はこの屋上から変わり行く世界を見つめているだけさ。この世界はどんどん変わっていく。奇妙なふうにね。僕だって昔は、きみと同じように人間だった。でも、幸か不幸か、こんな姿になってしまった……」
「お、おじさん……」そして……、次の言葉を吐きかけた渋谷を遮るように女性の声が階段から響いてきた。
「渡辺さん！　大変よ！」
　どうやら屋上にやってくるらしい。渋谷は気色ばった。逃げようかとも思った。
「きみはここにいてもいい、悪い女性じゃないんだ。僕の友達だよ」
　女性は姿を見せると、まっすぐ二人のもとへやってきて、珍しそうに渋谷を見つめながら、
「この子、売られるの？」と、渋谷を顎でしゃくりながら、鳥男に言った。
「違う、この子は、まだ何も知らないし、まだ何にも関わっていないようだ」
　渋谷はことの成り行きに怯え、「う、売られる？」と口を挟んだ。
「そうだ。そういうこともあるんだよ。考えてみたまえ。こんなにおもちゃ屋が氾濫してるんだ。どういうことだかわかるかい？　これだけ大量のおもちゃを作るには、それだけの数の奴隷が必要なんだ。この街にいつづければ、さらわれたり、売られたり、そういう目にあいかねない」
「そうよ！　それだから私は……」
「待つんだ、多義子、彼にきみのことを紹介しておいたほうがいいだろう。これから何かと一緒に行動しなければならない運命のようだからな。渋谷明くんだったね。名札から察するに」
　渋谷は顔を赤らめて、しどろもどろになって、自分の胸ポケットの上に刺繍されてある渋谷という文字をみつけて、「あ、ちっ、なんで母さん勝手にこんな刺繍するかな……」と、呟く。
「はっはっは、いいお母さんじゃないか。明くん、この女性はね、母山多義子さんという名前でこの世界の人間じゃないんだ。ある洞窟を抜けてこのおもちゃ街にやってきたらしいんだが、どうも帰り道がわからないらしい、それにさっき言ったようにこの街で身寄りのないものはまっさきに工場へと連れて行かれ過酷な労働を強いられてしまう、だから僕がかくまってやっているんだよ」

　　　　４

（これはすごい発見だぞ。鳥みたいな人間がいるなんて！　インターネット日記で書こう。すごい評判になるんじゃないか。写真撮れればいいんだけどな。この生き物、カメラ付き携帯なんて知ってんのかな。知ってたらカメラ向けたらなにされるかわからないからな。安易なことはできないし、でもこれはすごいぞ、僕の探偵としての仕事が増えるかも知れない。……このことをうまく利用できさえすれば……、早く家にかえって、書き込まないとな、うまく撒けないかなぁ、こいつらを……）
　渋谷は始めてのスクープに心を躍らせ、身が軽くなったような感じだった。軽快で、うきうきしていた。（なんだかこれじゃ、新聞記者みたいだな）「ふふふ」
「なにを笑っているんだ？」鳥男が攻撃的な目をして、渋谷を穴のあくほど凝視し、「なにがそんなにおかしいんだ？　これからやらなければならない大変なことのことを思ってもみろよ、笑えないはずだぞ……」
　怖くて、顔面が硬直してしまった渋谷に多義子が救いの手を差し伸べた。のか？
「こんな坊やをいじめたら可愛そうよ、渡辺さん。それより聞いてよ、さっき大変なことがあるって言ったでしょ、私」
「ああ、なんだい？」
「あのね、鉄道模型ってあるでしょ？　あの模型のレールが壊れてたのよ。一個だけじゃなくって、在庫品も全部そうなんだって！」
　鳥男は真剣な眼差しをして、流れる雲を目で追いながら、
「それは不具合だ。工場で工員が間違った作り方をしてしまったんだ。このことが工場長にバレれば、工員が殺されてしまうぞ。それも一人や二人ではすまないだろう……。おそらく、１ブロックごと抹殺されるはずだ……」
　何か鳥男に抗議するような勢いで、多義子は身を乗り出した。しかし、抗議ではなかった。多義子はさらなる情報をもたらしたのだった。
「それだけじゃないのよ、あるおもちゃにね、そのね、ラベルにね、死ねって書いてあるらしいのよ、それもすべての製品によ、アヒルのぬいぐるみにだって」
「困ったな、死ねとかいてあるのか……、それはもはや標識みたいなものだ……、多くの人々が従いざるを得ないだろう……、こうしちゃおれんぞ。おもちゃ工場に行くしかない。それしか道はないぞ」
　渋谷はハッとして、気づいた。「僕のお母さん、今日、アヒルのぬいぐるみ、買ってきた」渋谷は言葉を呑み込んだ
「お前の母さん、死ぬぞ」鳥男が冷ややかに言い放つ。
「僕、帰らないと！」身をひるがえして、駆け去ろうとする渋谷の肩を、鳥男が物凄い力で押さえつけ、
「ダメだ。お前は私たちと一緒に行動しなければならないと言ったはずだ。お前の母親、一人の命と、何十人もの工員の命を天秤にかけてみろ。子としての感情をなくしてだ。どっちにいかなければならないかわかるはずだろう。お前、もう高校生なんだろ？　幼稚園児じゃないんだからな」
　言うが早いか鳥男はするどい爪で渋谷の服を掴み、大空高く、飛び立った。多義子も鳥男の背にすばやく飛び乗った。行き先は……、行き先は……、切り立つ崖、生物の姿も見当たらない、見晴らす限り原色の、砂塵巻き起こる、だたっぴろい丘……　荒涼としたそよ風が吹く……
　風に乗り、翼をはためかせ、優雅に上空から滑降したりしながら、唇の端をつりあげつつ、（僕も、Sとしての性質に体の芯からなってきたようだな、ふふ。昔はドMだったもんだがなあ）そんなことを鳥男は思っていた。そして、遠い目をして、しばらくの間、無言で羽ばたき続けた。
　丘に降り立つと、グロテスクきわまる鳥の足をふり、渋谷を放り投げ、吐き捨てるように、「ここには誰もいないぞ、へへへえ」嫌みったらしく鳥男は笑いながら、獲物を狙うギロギロと血走った目で渋谷のつま先から頭のてっぺんまで何度も繰り返し、見やる。「誰もお前を助けちゃくれないってことだ、僕」
「早いことやっちまいなよ……」多義子は毎度のことに少しあきれ返りながら腕組みして、言った。
「そうだな」
　次の瞬間、渋谷のみぞおちに鳥男の鋭い嘴が突き刺さった。一瞬にして血に染まる渋谷の服。大量の血が噴水のように噴出し、苦痛の叫び声をあげ、渋谷は痛みと驚きにもんどりかえった。そしてそのままワンモーションで何とか、必死に逃げようとして、砂を手で掴み、這う。そのゆっくりとした渋谷の這いを、勝ち誇った眼差しで、満足そうに見下ろしながら、鳥男はナイフのように鋭い爪で、渋谷の頭を押さえつけた。後頭部から血が滴る。鳥男は屈みこみ、先の細い舌先でその血を舐めあげ、「うまい、うまい血だぞ。ははは、さすがに若い男の血はうまいもんだ！」と、喜びの声を発する。
　その時、状況を見守っていた多義子が言葉をはっした。
「渡辺さん、あなたはいつからそんな人になってしまったの？」
　ギロっと多義子を睨みつけ、鳥男は、「もう人じゃないさ、鳥さ。いや鳥でもないか。だが人でないことは確かだろ？」
「こんなことはもうやめましょうよ。あなたは何のためにこんなことをしてるのよ、昔のあなたもそんな人だったの？　違ったはずよ！　あなたは何か大切なものを忘れてしまったんじゃないの？」
「それいじょう口やかましいことを言うんじゃねえ！　言ったはずだ。俺はもう人じゃない。渡辺じゃない。俺は血に飢えた、血に飢えたそれだけの生き物だ、もう染み付いた自分の性質は変えられっこねえんだよ！」
　多義子はさも可笑しそうにケロケロ笑いつつ、「冗談よ、私がそんな青っ白い女教師みたいなこと本心から言うわけないでしょ。ちょっとあなたをからかって見ただけよ」艶かしく鳥男の脇腹をさすりながら、「ねえ、キスしましょ、血生臭いあなたのその口とキスしたいのよ」
「へへ、へへへ、そうこなくっちゃ」唇と唇が重なろうとし、鳥男の細い目もさらに細くなる。そんなロマンチックな折に、信じられない事が起こったのだった。油断していた鳥男のまたぐらを多義子は思い切り、先の尖った革靴で蹴り上げ、小物入れから取り出した催涙スプレーを鳥男の目、１cmの距離ほどからスプレーしたのだった！　なぜ？
「な、なにをする！」目を手で押さえながら鳥男がじたばたしているすきに、多義子は、か細い声で、「た、たすけて……」なんて言っちゃってる、虫の息の渋谷を女だてらに抱え上げ、「さあ、逃げましょう、私、ほんとはもとの世界への帰り道、知ってるの、あなたは違う世界に行くことになるけど、ごめんね。もう家には帰れないけど……」
　それから……
　４、５分、涙で目を腫らしながら、苦しんでいた鳥男はすっくと立ち上がり、渋谷と多義子のいなくなった寂しい丘の上で、「おのれ……、糞ども……、俺は目は弱いが、だが、この俺様の嗅覚をあなどるなよ、絶対に探し出し、お前らを叩き殺してやる」と、一人ごちていたのだった。

　　　　５

　彼らは逃げた。果てしなく。鳥男の追走から逃れるために岩場に隠れながら、秘密の抜け道まで進んでいった。そうしないと上空から俯瞰できる鳥男に見つかってしまうからで、だからあまり距離は稼げなかった。少年は、２メートルはあろうかという大岩に多義子の体にもつれながらへばりついて、ちらちら空を見上げて、
「あいつ向こうのほうに飛んでったわ、今よ、次の岩まで走りましょう」
「まってよ、転んだりしたら見つかって殺されるよ」
「男の癖にだらしないわね、大丈夫よ、あんたがこけたら私が担いでってあげるから。さっきもそうしたでしょ？」
　彼女の体に触れて、柔らかい乳房を感じ、彼の胸がドキドキと早鐘を打っていた。
　少年は鳥男につつかれた腹が猛烈に痛かったが、「飲みなさい」と言われて、差し出されたウィスキーをがぶ飲みすると、頭がくらくらして、気分が悪くなって、吐き気はしたが、腹の痛みは嘘のようにまぎれてしまった。でも、なんだって彼女はそんな壜を胸元に入れていたんだろう。やっぱり自分で飲むためにだろうか。酒好きなんだろうか。彼女らしいな、でも、そんなところに頼りがいを感じた。そうだ。腹から血を湧き出させながらも、見つかったら最後、今度こそ殺されるとの切迫した状況が、少年から痛みを一時的にひかせてくれているんだろう。それから、しばらく進んでいると古ぼけた建造物が見え出してきた。近くまでいってみるとトイレだ。なぜこんなところにトイレなどがあるのだろうか、不思議だったが、ちゃんと男性トイレと女性トイレに別けられていた。少年はずっと尿を我慢していたので、多義子に、
「ちょっとトイレいってくる」
「ああ、うん。じゃあここで待ってるね」
　彼は、天井板が腐って抜け落ちているそんな便所に入った。とたんに安堵感で少年の心は満たされていった。傷は痛い。でも彼も男だ。我慢してみせた。病院にいくまでの辛抱だ。彼女は、「もうこのへんよ」って言ってたし。安堵感はおしっこをしているとますます募ってきて、少年はなんだか本当に今まであったことが、なかったことのように感じもした。勢いよく小便は出続け、便器の底に置いてあったよい匂いのする青色の球体をさいさん押しのけた。でも便器の底は丸みを帯びていて、球体は何度も元の位置に戻った。そのつど、彼はかすかなラベンダーの香料を嗅いだような気がした。気のせいかもしれなかったが、たしかに。おしっこが出終わる頃に、少し、脳の後頭部に滝が流れるような締め付け感を味わった。我に返って、ふと、小便器の上を見ると、『緊急呼出』のボタンがある……ほんとにこんな辺鄙なところにある薄汚い公衆トイレに誰かやってくるのかな、くるわけないだろう、そう思い、少年はボタンを押した。しばらく待っても誰も来ない。予想していたとはいえ味気ない。彼はズボンのファスナーを上げ、トイレの水を流した。立ち去ろうと、後退した彼の足に何かが当たった。公衆トイレの汚い、汚い、床の上に肌の色が褐色の老人が倒れこんでいた。少年は驚き、
「どうしたんですか？」咄嗟にそれだけを言うのが精一杯で言葉を飲み込んだ。
　老人は彼を見上げると、「どうしたもこうしたもお前に呼び出されてきたんだ。こんな病気なのに、なんのようで俺を呼び出したんだ？」
　そんな、本当に誰か来るとは……　だけど、ただ押してみただけ、とは言えずに黙り込んでいると、
「俺はこんな病気で死にたい。胸が苦しいんだ。そこにある消火器で俺をいぶって殺してくれ」そう言い、老人は激しく咽びだした。彼はどうしていいかわからずに、『緊急呼出』ボタンを再度押した。──遠くから咽びながら誰かがやってくる。公衆トイレ内にその人物は入り込むと杖の音を響かせながら、彼らの前まで姿を現し、息切れをし、倒れこんだ。また、老人だった。
　少年は戸惑いを隠せずに、「あの、あの、この人が苦しんでるんですけど」
　あらたにやってきた老人は皺で隠されていた眼をカッと見開くと、
「俺も苦しいのに助けられるわけねえだろうが……」と言い、死んだように動かなくなった。
　少年はもうやけくそになって『緊急呼出』ボタンを連打した。──瞬く間に、次から次へと老人がやってきては床に倒れふし、足の踏み場もなくなってしまった。老人たちはやがていっせいに呻きだし、公衆トイレ内に反響する彼らの断絶魔のうめき声で僕の神経も少しやられてしまったのだろう、少年はもうこれ以上ここにいるのが嫌になって彼らを踏みつけて外へと飛び出た。
　すぐ、目に飛び込んできたのは、非難するような眼差しで少年を見つめる多義子の顔だった。彼女は腕組みして、踵でトントンと地面をうちながら、白々しそうに僕を見つめ、
「で、どうするの？　自分が呼び出したんでしょ？」
　少年はまた言葉に詰まりそうになりながらも、喉から出かかっていた感情とともに、
「どうするったって、僕はこんな怪我してるし、どうもできないよ」
「じゃあ、ほったらかしにしとくんだね」呆れて、議論をする気にもならないというような口調だった。多義子はそこらへんに落っこちてた小石を蹴飛ばした。
　そして、よそを向いてしまって、
「苦しい病気なのはあの人たちも一緒。そんな人たちを見捨てるなら、あなただって見捨てられても仕方ないわよね」
　少年はどう言っていいかわからなかった。彼は自分の本心は自分でもわかっていた。そんなことはわかりきっていた。彼は老人たちをほっておく。それは自分自身のためだ。彼らにかかわりあっている時間はない。でも、少年は多義子の助けが必要だ。彼女に道案内してもらあないとどうしようもない。だからそうして欲しい。ただ、彼女はそんな意見などはねつけてしまうだろう。彼女が受け入れるだろうことをしなければならないとしたら、こんな状態で、えらい苦労をしなければならなくなる。
　まさに目の前が真っ暗になった。
　多義子は少年の返事をじっと待ち続けていた。剥きだしの利己心を間近で観察されて、罪悪感でぎこちない振る舞いをしている少年の前に黙り込んだまま、突っ立ったまま。

　　　　６

　買ってきた酒の入ったビニール袋を散らかり放題の床に置いて、とりあえずチューハイを１缶、パソコンチェアーに乗せ、空のペットボトルをふっていた。それで電灯のヒモを叩いて。パソコンのモニターにハエがとまっていて手足をすりあわせていたが、チューハイの缶に飛び移り、飲みたそうに缶が開けられるのを待ちかねているようにうろちょろしていた。ぐるぐる回ったりして。タバコに火をつけ、たちあがる煙を、左手をふって拡散したりし始めた。さて、音楽でも聴こうかな、と思いながら。ハエは思った。こいつももうじき、人生の渦の中に巻き込まれるんだろう、と。オレはいろんな奴を見てきた。指先に願いをこめるようにライターで試験管の底をあぶり、覚せい剤を吸引していた女や、うじうじして、キレイなおばさん相手にコンビニで「ライターいいですか……」となかなか言いだせない男や、クリスマスにオレにシャンパンを差し出してくれた女の子などを……
　ふだん女性に対する興味がなくなってると思ってるけど、ちょっとかわいい娘がかわいらしい服を着て、コケティッシュに腰をくねらせながら、僕にアタックしてきたら、目をパチパチとウインクしながらよってきたら、すぐ、「女の子大好きーっ！」ってなってしまうだろうな、などと考えていたら、やけに窓の向こうで足音がするなって、気になって、カーテンを少しめくると、透きとおるように光が窓から差しこんできた。インターフォンを鳴らすと、多義子はドンドンドンと激しくドアを叩きつづけた。なにごとかと急いで立ち上がり玄関までいくと、
「はい、なんのようですか？」
　ドア越しにそう言った。
「私よ。多義子」
　そのドアを開けた。
　多義子に手を引かれて少年がき、血を流している。敷きっぱなしで、寝タバコでところどころ黒コゲてる敷き布団がどんどん赤い血を吸収していっていた。
「私たち１５メートルぐらいある展望台で出会ったの。夜中にね。螺旋階段おりる時にキスして、私が石を投げおとしてたらね、のぼってきたのよこの人が」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ、それよりはやく救急車を呼ばないと」
「いいのよいいのよ、こいつ、老人を見捨てるような奴だから」
「あいかわらずわけのわからないこと言ってるね」
「さっき見捨てたのよ」
「さっき？　ケガしてたんだろ？」
「そんなこと関係ないわ！　老人たちも瀕死だったのよ！」
「だからそんなこと言ってる時じゃないって」
「それにこいつ変なのよ。こんなケガしてるのに痛くなくなったとか言いだすし」
「……それは人間じゃない何かに変わろうとしてるからじゃないか」
「……何、それ？」
「いや昔、そういう話を聞いたことがあるんだよ」
「へーえ。そう。あ、あれ？　水槽に水はいってないじゃん」
「死んだんだよ」
「グッピーだっけ？」
「ネオンテトラ……」
　水槽の底には黒い光沢のある、六角形や七角形の黒ダイヤのような立体的な小さな石が、ちらばっていた。気にとめる風もなく多義子は室内を見回すと、
「あいかわらず、何もしないで、小説ばっか書いてるみたいね」
「ああ、うん。でも来月から工場で働こうと思ってるんだ」
「また県外に行くの？　期間工で？」
「いや、この近くに溶接する工場があるんでそこに行こうかなって」
「あっそう。イジメられないように気をつけてね」

　　　　７

　鳥男が飛んでいた。渋面で。なぜ俺の後ろに鳥が５羽くっついてきているのだろう？　知らない。俺たちがどこに向かって飛んでいくのかなど。もういたくないどこにも。大空だ。大空にだけいたいんだ俺は。戦いたくない、みんなどんどんレベルあげていく中で、もがきつづけ模索しつづけ勝ち抜いていかなけりゃならないなんて。そんな苦しいことからは逃げだしてしまいたい。大空を飛んでいると、多義子たちなんてどうでもよくなってしまう。勝手に生きてりゃいいあんな奴らは。まあ同じこの世で。でも関わり合いなく。僕を愛してくれる女性がいそうにない現実だからこそ、もし僕を愛する女性があらわれたらそのぶん、もっと、もっと、嬉しいはずだ。僕を愛してくれる？　僕を愛してくれる？　僕を愛してくれる？　こんな僕を、こんな僕を選んでくれたなんて。だから僕は生きつづけてゆく。ってそんな思いも消えちまえ、忘れちまえ、飛びつづけて、飛びつづけて忘れちまうのさ、やさしき、はげしき、風に身をゆだねて。俺は鳥じゃない人間でもない、鳥男なんだ！　鳥男にみあう女は鳥女しかいないんだ！　このついて来てるのはただの鳥だ！　俺は出会いたい鳥女に。でも無理だって、そんな女いないかも知れないしいても俺の事を好きになってくれるかわかんねえじゃねえか、だけど、だけど、もし愛し合えるようになったら、なれたら……　昔の俺は純情だった。毎日あの娘の事を思い頭を抱えていた。待ってるだけの出会えそうもない運命を呪った。運命を。神を。重くるしかった。淋しい日。淋しい日。淋しい日。　……でも俺は優雅に飛びつづけなけりゃ。５羽の鳥がついてきてるみたいに俺の姿を見かけたあの娘がついてきてくれるかも知れないから。そんなことなさそうだから、だからもしそうなったら、それは何て素晴らしいことだろう。　素敵じゃないか！　何も恐れることはない。俺は死ぬまで、その時まで、やり抜かなけりゃならない。俺の事を。それだけだ。探すんだ。探しつづけるんだ。楽しい時を過ごして。探しものが多すぎる、どうすればいいのか。ああ。どうすればいいのか……　ねえ、僕を見つけれる？　探してくれる？　追いかけてきてくれる？　おかしくなるほどに。幸せになりたい、幸せになりたい、ただそれだけだ、ただそれだけなんだ。幸せに。幸せになるために。だから、あんな行動してたんだ僕は。このままじゃ幸せになれないって抗ったんだ。別に、周りの人たちに抗ったわけじゃない。そこにいたら、毎日、僕のことをかわいがってもらえるかも知れない、楽しく会話する日があるかも知れない、気に入ってもらえるかも知れない、でもそれは刹那的な、何ていうか……　それは深い深い愛情ではないんだ。僕のためになら死んでもいいよって、そんな気持ちにはなってくれないんだ。そこまでは。僕は、もっと深く愛したい。その人のために死ぬことを厭わないぐらいに愛したかった。そして深く愛し返されたかった。幸せになりたい、幸せになりたい、ただそれだけだったんだ。何だよ、何でだよって、悲しくってしかたなかったけど、考えてみれば、昔の奴隷たちはもっと酷い仕打ちをされて、生きつづけてたんだよなって。戦国時代、その時代に生きてた人はいかに苦しかっただろう。いかに頑張っただろう、凄まじい苦しめにあった者もいただろう。でもそんな時代だったからこそ、誰かの、誰かからの信頼や愛を確信できたら、その時、どれほど嬉しかっただろうか。僕を愛してくれるだろう嗜好の女性や、僕が、僕を、ベストパートナーだと信じて疑わないような女の人が、そんなんは、絶対いるんだから！　そしたら言ってやる、
「愛してるよ、死ぬ日まで、だけど。死んだあとでのことはうけあえないし、来世ではまた僕の好きかってにさせてもらうからね」って。
　俺の生きざまは俺の生きざまだ。誰か俺を止めてみろ！　とめれるものならとめてみろ。無理だぜ、俺は飛びつづける。おまえらにも俺の翼をわけてやりたいよ。ついてこい！　５羽の鳥どもよ。輝く、透きとおる青い空よ！　風圧が逆らってくる。でも突きぬけられるんだ。どんどんどんどんスピードをあげてくぜ！　ついてこい、鳥よ！　ふりきられるなよ！　今の俺は自分でもどうしようもない躍動感に満ち溢れているんだ。俺の羽ばたきを見よ。一羽ばたき、一羽ばたきを見てくれ！　翼のだよ。滑らかであって、いかに力強く勇ましいことか！　こんな自惚れた自画自賛して、自分に酔ってたってしかたねえな。誰も聞いてないのによ。ワッハッハッハッハ。風が聴いてくれてるのさ。俺は情けなくはいたくない。勇敢でいたい。今さっきまでの自分を捨てさって。冷たく鋭い風が吹きすさぶ。ズキズキと、昔の恥ずかしい思い出のごとき痛みが走る。ハートアピアリングなごとき、ハートエイキング、エッチングなごとき。目をつぶらざるをえないそんな中でも薄目をあけて俺はゆく。実は電線にとまりたいんだけど。俺の巨体でもとまれる電線があるんだ。稚内に。積木のような赤や水色の屋根の家々。丘のある広漠とした大公園の緑色の展望台。昔は白色だったのにこんな色に塗りかえやがって。情緒も何もなくなってしまった。萌えなんとか色にしやがったんで。うそつけ。だけど、そんな感じ。イメージで。酸っぱいような海が拡がっている。ヨットは見えない。遠いから、遠すぎてわからない。だけどあるかも。夕日が沈んでゆく、青空を橙色に染めあげてって。夜になれば星ぼしが輝き始めるだろう。そうなったら俺は一番輝いている星を目指して羽ばたいてゆく、さ。力尽きて羽ばたけなくなって絵本のような家々の屋根に叩きつけられ、疲れ果てた翼をピクピク痙攣させ、カラスについばまれるその日まで。カラスたちよ押しよせてこい。大挙して。ついばみられまくって、早く苦しみから解放してくれ。殺しまくってくれ。その時がきたらグッバイ。　━━百年後の未来でペンギンに生まれ変ったブライアン・メイが海中を飛んでいる。魚を追いかけて。楽しそうに。でも奥歯に正露丸をつめられないけどね。岩礁にクチバシをぶつけても。ブライアン・メイの生まれ変わりだから歯があるんだよ。　……帰ってきて僕のもとに。すべての輝いていた出来事たちよ、まとめて一団となって帰ってこい。　……空を見てみろよ、あんなに大きいじゃないか。ちっぽけなことで悩むなよ。羽ばたけ！
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="20848" seq_num="7" title="菌が選んだ陶商店の辛子酢味噌" letter_count="2483" updated="2009-05-02T15:32:48+09:00" published="2009-03-14T17:52:29+09:00">
		<section><![CDATA[　ある年老いた菌が死に場所を求めてさまよっていた。若い頃は天から授かった美貌で体内から体内へと住処をかえては各地で絶賛されていた菌だったが、寄る年並みには勝てず寄る辺なく道端の糞などに居ついてはかつての輝きを知る味噌商人などに哀れみの眼差しで見られていた。
　この菌は名前を惟棟といった。古代九州地方の豪族の姓で、明智光秀なども朝廷から賜ったことのある由緒ある名前だった。幼名は竹千代。マラ名はジャンボだった。
　子供が一人いた。惟棟Ｏ-357という悪玉菌で、自分のこの劣悪さを何とか矯正しようと何度も試みたが一向にＯ-357の素行が良くならないので、親子の縁を切り放逐した。一時は首をはねることも考えたが、いくら悪党とはいえ、血を分けた実の息子。そこまでするには不憫と思い、決断を渋った。そのことでこの菌は後に後悔するのだが……
　それはどういうことかというと、勘当されたＯ-357がますます悪辣な振舞いをしだしたからだった。Ｏ-357はショックだったのだろう。そのショックで立ち直ればよかったが、やはり生まれ持っての劣悪な性質が彼を悪の道に突き進ませたのか。彼も彼なりに悩んだ。手紙を何通も父親に向けて書き、改心するからと許しをこうた。しかし、人の悪い奴らは財産を相続できなくなったのがつらいだけだと陰口をたたいた。いや、筆者は誓っても良い。当時の彼は真に反省していたことを。だが父も世間も彼を許しはしなかった。世間は彼のかつての悪事を憎んでいた。父親は彼を幼い頃から知っているので、彼の本性も良くわきまえていた。彼が一時的に反省しても、またあくどいことを繰り返すだろうことを……

　皆さんご承知のとおり今年の秋はとても寒い。そんな寒さを身に受けながら、東北地方の村に住む貧しい親子がいた。父親は癌で数ヶ月前に亡くなっており母親と娘だけで暮らしていた。父親が病院に入院する日の前日この親子は祭りに行った。そこで少女は金魚すくいをしてみるのだけど、一匹も捕まえることができないでいた。父親は、ｈａｈａｈａと笑い、
「どれ、父さんに貸してごらん」
　そう言うと娘が手に持っていた最中の付いた針金を奪い、瞬く間に黒と赤の色調が美しいでめきんを水槽の中から掻っ攫った。周りで見物していた人たちもあまりの見事さに拍手するほどだった。少女は自分の父親の立派さと、皆が賞賛しているのが自分の父親だということへの誇らしさで、目をくるくる回して、嬉しくってしょうがなかった。
　父親が死んでしまってからもこの日の思いでは少女の心の中で大切なものだったし、父親が獲ったでめきんも少女の友達になっていた。父親が最後に送ってくれた友達。いつまでも一緒にいたかった。そんな少女の幸せに水をさした悪い奴がいた。Ｏ-357である。あろうことか少女のでめきんに寄生してしまったのだ。でめきんはみるみる元気をなくして、あまりえさも食べようとはしなかった。
「お母さん。大丈夫かな」
「そうね。具合が悪いみたいね。でもきっと大丈夫よ……。父さんがあなたにくれたんだもん。父さんがついててくれるわよ」
「そうよね」少女はでめきんにやさしく語りかけるのだった。「早く元気になって、ずんずん泳いでね」
　だが、日に日にでめきんの体にはっきりといぼが浮き出て、でめきんも見るからに苦しそうだった。そのいぼこそ悪の象徴Ｏ-357その人だった。不気味に青黒いＯ-357の姿。少女も母親も恐ろしさに身を震わせていた。
　それから数日、なんとか生きていたでめきんも死に、朝方水槽を覗くと、でめきんの体が水面にぷかぷか浮いていた。少女は玄関の前に埋めてやって、供養した。
「何もしてあげられなくてごめんね」と泣きながら。

　そのうわさを風の便りで聞いたＯ-357の父親は自分の死を持って、償わなければならないと悟った。辛子の激痛にもだえる。それが自分ができる息子の悪事を世間にわびる唯一の方法だった。
　陶商店という総菜屋があった。この主人は韓国に長い間いたことがあって、本場のキムチの味を日本に伝えようとしている立派な人物だった。評判も上場で多くの日本人が陶商店のキムチを食卓に並べ、舌鼓を打った。このキムチさえ出していれば自然と食卓での会話も弾むのであった。言うまでもないが、もちろんその理由はキムチの旨さにあった。反抗期の娘を持つおやじもこのキムチを買うことを妻に進めたし、夫の気を引きたい主婦もこのキムチに頼っていた。インターネットでの販売も売れ行きがよく、キムチが看板商品の一つであることは間違いなかった。だが陶商店の主人の一番の自慢は辛子酢味噌だった。この味はここでしか出せないと自負していたし、同業者も陶商店の辛子酢味噌にはまいったね、勝てないよ、あれは本物だよ、と、舌を巻いていた。
　木枯らしの吹く晩、Ｏ-357の父親は陶商店の門を叩いた。
「夜分すみませんが……」
「おっ、あんたか。なんだい？　こんな夜更けに？」
「おりいってお願いがあるのですが、私を使ってもらえないでしょうか？」
「就職の相談かい？　うちの商品を見てもらえばわかると思うが、ごらんのとおり辛い物ばかりだ。そんな中につかるにはお前さんは年をとりすぎている。悪いが、ほかをあたってくれないか」
「十分承知してます。私も死は覚悟しています。ただ菌として生まれた以上、人の役に立つ善玉菌として死ねれば、それで本望です。悪玉菌として生き続けるくらいなら、私は死を選びます」
　この菌は息子O‐357に死を持って菌としての生き方を示すつもりでもいた。陶商店の主人は菌の決意の固さを知るとそれ以上抗弁しなかった。
「わかった。お前さんならうちの味を落とす心配はない。思いっきり漬かってくれ」
「忝い。ではさっそく」
　言うが早いか壷の中に己の体を投げ出した菌は、「熱いっ！　ひいっ！　熱いっ！　ひいっ！　熱いっ！　ひりひりするっ！　アツッ！」そう絶叫しながら死に絶えたのであった。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2899" seq_num="8" title="退屈だし。恥辱。だが愛。だが気のせい。" letter_count="13250" updated="2008-02-06T18:07:39+09:00" published="2008-02-06T18:07:14+09:00">
		<section><![CDATA[　　　１

　近くに大きな公園があって、僕は、夜中、いつも一人で出歩いていた。街路樹の木の葉が街灯の明かりに照らされている。緑色に。吹き付けてくる風が冷たかった。なんだか、雨雲が月の光を遮っている暗い夜だった。よろめきながら延命公園に入った僕は街灯の真下に設置されてある木のベンチに腰かけ、舗装された道を目で追った。レンガ道がずっと遠くまで続いている。すぐに、僕は斜め向かいのベンチの脇に髪の長い女性がしゃがみこんでいるのに気づいた。僕とその女性との距離は5ｍほどしかなかった。彼女は頭を振り、髪を乱しながら、バケツの中に入っている何かを一心不乱に木の枝でつついていた。女性の顔を見ようとしたが、薄暗くてよく見えなかった。彼女は低い声でぶつぶつ言っている。危ない女性だと感じ、僕はうなだれて目をつぶった。不思議と怖さは感じなかった。ちっとも。（僕はこれからどうやって生きていこうか。琵琶法師みたいになろうか。でもそれで金を稼げるだろうか……、こんなこと思ってたって家には帰らないといけない……、家までかなり遠く感じるな……どうすればいいんだろう……、今僕が考えていることはくだらないことばかりだ……、人に嫌われる。どこでも嫌われる。この世はむなしいのだから……どこに行ったって苦しいんだ。あの女だって性格の暗い、いじけた女性なんだろう）ドーンと心臓が共感したみたいになって、僕はおもはゆかった。（でも、それは僕の恥じることじゃなくって、彼女が恥じるべきことだ）
　しばらく女でも眺めていようと思い、僕は目を開けた。さっきの女はいなくなっていた。あたりを見廻したけど、もう彼女はどこにもおらずバケツだけが残されていた。女がさっき何をつついていたのかが気になって、バケツを覗きに行ってみると、中には血まみれの亀が入っていた。ぐちゃぐちゃに潰れている。死んでからもうだいぶたっているらしく、生臭い腐臭が漂っていて、見ていると吐き気がした。
（死んでからつついたのか……でも、死んでいたとしても突付く必要はないんじゃないか。何のためにつついていたのか。それも木の枝で。生きたまま突付くなんて残酷なことを女性はできないだろうから、やっぱり……）
　僕は見ているのがつらくなってきた。立ち去ろうと腰を上げると、亀はまだ生きていたのか、足をわずかに動かした。
　僕は心底から恐怖した。そのときだった。どこからか女性の笑い声がきこえてきた。振り返り、見上げると、公園内の小高い丘の上に建っている15ｍほどの高さの展望台の、最上階のテラスに、手すりに体を凭れかからせた女性が、スカートの裾をひらひらさせて、硬そうな物体を地面に向かって投げつけていた。投げ落とされた物はレンガで舗装された道に当たって、かん高い音を響かせ、砕け散った。
　上空の風に髪をそよがせている彼女を眺めていると、僕の意識が朦朧としていった。このままではどうせダメだった。だから賭けてみるしかなかった。わずかな、わずかな希望だったけど。僕は自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。そして、吸い寄せられるように彼女の方へ歩きはじめた。僕は深淵に飛び込むつもりだったはずだ。でも、今は気分が変わってしまっていた。歩いていると、正気に戻ってきて、僕は、展望台の上に女性がいることで上ることを躊躇しもした。何か性犯罪的ないけないことのように思えた。だけど、
（のぼってもいいんだ。公園内のものすべてにのぼる権利があるんだ）と思いなおし、レンガ道を歩いた。（塔の上から何かを落としているような女に気兼ねする必要はないんだ……）
　展望台まではさほど遠くなかった。近くまでくると上から石が落ちてきたが、僕は気にも留めず螺旋階段を上がった。展望台がぐにゃぐにゃと右に左に揺れているようで、倒壊するのではないかと不安だったけど、上にいくにつれ、螺旋階段が鉄でできていることへの安心感が増していった。それでも手すりの間から落ちないように注意を払い続けた。足取りがおぼつかなかったし、ぐるぐるのぼっていると軽い目眩がして、足を踏み外す危険があった。やっとのことで階段をのぼり終え、テラスに足を踏み入れると、すぐに女が僕を見た。彼女は髪を振り乱しながら僕に近寄ってきて、言った。
「どう思う？　ここから飛び降りたら死ぬでしょ？　ねぇ？　そう思わない？」
　とっさのことで僕は何も答えられなかった。彼女はそんな僕をほっておき、また体を手すりに凭れかからせた。
「ああ！　星がきれいね！　すごく！」
　雨雲はもうどこかへ流れていて、満月が光っていた。暗い空の端に町のネオンがオレンジ色に光っている。一際明るい赤いネオンは映画館のだろう。多角的なネオン……
　彼女は異様に痩せていて、数ヶ月間何も食べてないように思えたほどだった。僕は不思議だった。彼女はどうやって生きてきたんだろう？　蛾の羽模様のような服を着た小さな女で、スカートは模様が何も入っていない黒色で襞がたくさん付いている。靴も黒色だった。それに髪も、目も。少し血走った目には自尊心が表れているようだった。
　円形の屋根の下、二人はテラスに備え付けてあるベンチに座った。
「噴水の水が夜中でも動いてますね」
「ふふ、持って帰りたいでしょう」
「何を？」
「水をよ」
「いや、水は家にもあります」
「それはあるでしょうけど、でも私は持って帰りたいわ。だいいち不健康じゃない、私そういうのが好きなの。だって微生物とかたくさんいるでしょ？　顕微鏡があったら見れるのにな。欲しいな」
「うん、見ると楽しいでしょうね。ぴこぴこ動いてるだろうし。ゾウリムシとかミトコンドリアとか、あれ、ミトコンドリアは違うな。何だっけ？」
「知らないわ。名前なんてどうだっていい。形だけでいい」
　虚脱したように多義子は夜空を眺めていた。何か一点だけを見つめているようだった。それが星だと僕はしばらくしてから気づいた。
「あと色と」
「色……」
「そう、色。輝く。真っ赤、ピンク、紫、青、黄色」
「デザイナーにでもなりたいの？」
「いいえ」多義子は立ち上がった。「そろそろ降りましょ。私の家に行く？」
「うーん……」僕は返事を躊躇して、しばらく、遠く道路に小さく走る車を眺めおろしていた。誰も遊んでいない種々な遊具やらも……　マンションの明かりがぼんやり光っている。どんな人たちが生活しているんだろう。物寂しい光景だった。淋しくなりポツンと世界の中にただ一人。うつむいて、地上を見下ろすと、はるか下のほうに、地面があり、目まいがして宙に浮いているような気がする。かなり高い。足がわなわな震えてしまう。もう夜明けの時刻。心地良い弱い風が吹いていた。太陽が丸く雲にあたって、うす緑色、その周辺が紅色に染まっていた。
（もう死んでもいいんじゃないかな。飛び降りたら一秒ぐらいだ）10秒、20秒、景色を眺めていると、多義子に肩に手を乗せられ、
「ここからだと街中見えるでしょ？」
「あっ、うん……」
「あそこのファミレスで昔、働いてたことあるんだ。お客の冗談で笑わなきゃいけなかったし、嫌だったなぁ。それでもう誰も相手にしたくなくなったの。夜中バイクで爆音あげて道路走ってる奴らいるでしょ。あんなやつらよ」
「そうなんだ」
「ねえ、じゃあ、あなたの家に招待してよ」
　僕は袖を引っ張られて、そのまま手を引かれていった。螺旋階段を三周りくらい降りると、艶かしい眼差しで僕を見ながら彼女は、
「名前なんていうの？」
「堤孝也……、あなたは？」
「私は、母山多義子、……ここでキスしましょうよ」
　彼女はすばやく僕の頬っぺたにキスした。僕はどぎまぎして、後ろ向きのまま階段を一段降りた。
「危ないわよ」彼女は僕の肩をつかんで、揺すった。それから、
「おりましょう……噴水まで……水を汲みましょう……、あそこって泉よ。足を洗って清めましょ」
　と、言った。
　噴水の水は森厳な存在感をたたえて拡がっていた。初めて見るような感動があった。僕はたいてい入り口近くのベンチにしか行かなかった。そこのベンチに座って、街灯の下で本を読むのが好きだった。噴水も見に行くことはなかったが、こうして女性と一緒に佇んでいるとそこはかとなく幸せな気分に僕はなっていった。
　靴も靴下も脱ぎ捨てて、多義子は噴水の水に足をひたした。自由に、誰からの束縛も受けることなく。彼女は天真爛漫で、妖精のようだった。
「気持ちいいわ。すごく気持ちいいわ」
　僕は噴水を囲むレンガの上に座って、噴水池を駆け回っている多義子を見ていた。彼女は少女のように笑っていた。すでに空は白み始めていた。あたりはしんと静まりかえっている。
　僕は数時間も女性と話したなんて生まれて初めてだった。ずっと隣同士座って。もっとうまく喋れないことがふがいなかったけど……、でも、嬉しかった。僕は彼女を好きになっていた。
　僕らは家に向かって公園内を歩き始めた。すでに日差しが差してきていた。道を覆うようにたくさん木が立っていて、うじゃうじゃと無数の葉っぱをつけている。そんな中を歩いていった。薄暗く、緑色の苔が地面に繁殖していて、すっぱい匂いがした。だけど、全然嫌な匂いじゃないんだ。すっぱかったけど、新鮮で、すがすがしくって、心が洗われるようだった。こうして多義子と木漏れ日の下を歩いていると、胸がうきうきして、どこか爽やかで、懐かしい感じがした。こんな気分になれたのは小学生だったとき以来かな。二人の頭上には木の葉の海。陽が照りつけはじめ、幾重にも重なり合った葉っぱの間からわずかに漏れる光がきらめく。家が近づいてくると、太陽の光に輝いている女郎蜘蛛の巣がぽつぽつ見え出した。陽の光で目がチカチカした。女郎蜘蛛たちは日差しに照らされ暖かそうだった。やがて、僕の家の屋根が見えてきた。青い瓦の一軒家。さわやかな朝だった。

　　　２

「誰もいないの？」
「うん。僕だけ」
「何で？」
「みんな出稼ぎに行ってるから」
「ふーん……」
　ガチャ……、ドアノブをひねり、ギーッ……っときしみ鳴らせながら、ドアを開くと、水槽に熱帯魚が入れられてあるのがまず見える。酸素を送るエアーポンプの音だけが室内に響いている。多義子は、興味深く、水槽を、ぼんやりと、眺めていた。水車のように回転している機械があり、蒸気が出ていて、指で触れると熱そうだった。
　水槽の底には薄汚い泥が堆積している。ずいぶん水を汲み替えてなかったからだろう、水の色がすごい濃緑色。カビなのかコケなのかわからない。そんな水中を小蟹がこともなげにに泳いでいた。
　床の上にはルーズリーフの山や、ノートの山、プリントアウトされた紙などがたくさんあり作家志望者の部屋だとたいていの人なら気づくだろう。まさか僕を作家だと思う人はいないだろうから。
　裸電球が光を放っている。天井から蜘蛛の糸が埃をまといつかせて垂れ下がっている。ごちゃごちゃと散らかった部屋で、座るスペースはわずかしかない。机の上に缶コーヒーの空き缶が数十缶、縦や横にわびしげに並んでいて、その上にたくさんほこりが積もっていた。色の違うガラスが何枚も嵌め込まれている窓が、印象的な部屋だった。
「ちゃんと捨てないと、退廃的だよ」
「ああ、空き缶？　あんまお金ないから最近はあんま缶コーヒー買ってないんだけどね。それでも缶はどんどんたまるんだよね」
「捨てないからだよ」
「うん。一日一缶って決めてるんだけどね。……インスタントコーヒーで我慢して」
「だから捨てないからでしょ。ほんと退廃的だよ。もう置くとこなくなって二段に積まれてるし」
　そう言って彼女はパソコンチェアーにどさっと座った。ふかぶかと。そこは部屋で一番の特等席だった。
「あんま外に出ないんでしょ？」
「うん、部屋からもあんま出ないな。コーヒー作りに行くぐらいで。トイレにも行くけど」
　多義子は黙って窓ガラスを眺めていた。ステンドガラスのようなガラス窓を。
「あの……、死んだ亀、つついてたの？」
「何言ってんの。あたりまえでしょ。生きたまま突付いて殺すような残酷な女に私が見える？」
「でも首が……」
「首はいらないから捨てたの。ねぇ、それよりあなたって働いたことあるの？」
「あるよ。工場とかだけど」
「ふーん、あるんだ。ちょっと意外」
　そう言って、多義子は周りに落ちている原稿用紙を手に取った。ごちゃごちゃと小説が殴り書きされている。
「へーえ。小説書いてるんだ。あの展望台小説に出せないかしら？　なんか変じゃない？」
「おかしいよね、雰囲気が……、ちょっと書いたのあるよ。あの展望台を」
「どういうの？　読んでいい？」
　僕はルーズリーフの束の中からごそごそ探し始めた。すぐに見つかった。ちょっと恥ずかしさを感じたが、僕は朗読した。
「彼の書いたものはすべてチリアクタに消えた。それもそのはず彼はチリアクタが好きなのだ。この男は塔に住んでいた。見晴らしのよいバルコニーが屋上にあるがもう何年のぼっていないことか。雨戸に閉ざされた彼の部屋でひっそりと生きていた、……。こんな感じ」
「それで主人公はどうなるの？」
「わかんない。まだ考えてないよ。ここまでしか、……これだけ」
　彼女は僕が書いた小説に目を通していた。多少は面白がっているようで、ときどき、ふふふっと笑っていた。
「ペンネームで書くの？　本名で書くの？」
「ペンネームだよ。罧原堤って」
「ふしはらつつみ？」
「うん。働いてた工場の近くにあったんだ。京都なんだけど。なんていうか土手みたいなもん」
「あなたにとって特別なとこなのね」
「いや。夜中にゴミとか捨てに行ったりしてた」
　話が途切れた。二人は黙りこくっていた。妙な空気感があった。時間がゆっくり感じられた。けど、時計を見ると驚くほど時がすすんでいる。
　多義子がしんみりした口調で語りだした。僕は、彼女らしくないな、と、ちらっと思った。
「私ね、昔のことなんだけど、警備員のバイトしてたことがあるのよ。……本当に馬鹿にされたわ。制服のままコンビニに入ったら大学生バイトみたいな小娘に馬鹿を見るような目で見られたり……、そんなのの連続だった。でもそれで不思議なとこを知ったわ」
「不思議なとこ？」
「ええ。私、カタコウしてたんだけど、カタコウって知ってる？　片側交互通行のことなんだけど、旗、振って、一方の車を止めて、もう一方で待ってる車を通すの。二人一組でね。それをしてたんだけど、おしっこしたくなって組んでた人に無理言って、行かせてもらったの。森の中に入っていったんだけど、けっこう人がいるのよね。それでいい場所探してたらさ、道に迷って、帰り道もわからなくなったの。日は暮れるし、おなかは減ったし、トイレはもうすませてたんだけどね。ずっと、ずっと歩いてたら、岩壁と岩壁の間がやっと体が入るくらいのとこがあって中を覗いたら城門みたいなのが見えたの。近くまで行ってみたら階段があって、下におりたら、だんだん光が差し込んできたわ。見晴らしがいいとこに出れて、やっと家に帰れると思ったんだけど、なんか変なのよね。だってそうでしょ、日が暮れてたのに、ここは明るいじゃんって思ったし、建物なんか地中海の家みたいにカラフルなのよ。石造りでさ。それでも先へ先へって、歩いていったの。街まで出てみたんだけど、おもちゃ屋しかないの。大きい建物小さい建物全部おもちゃ屋なの。いろんなおもちゃが売ってたわよ。リスの赤ちゃんのぬいぐるみとか、こんなに小さいの。わかる？　手のひらに五つぐらい乗せれるぐらいに小さいの。それとかパンダの赤ちゃんのぬいぐるみとか、男の子向けの恐竜のフィギアとかもあったわ。いろんなお客さんがいてさ、みんな夢中になっておもちゃを見てるの。親子で夢中になってみてる子供づれのお客さんとかいたな。宝石みたいに輝いてる店があってね、そこは店の中もいろんな宝石が売ってあったよ。キラキラ輝いててね。全部欲しくなったわ。でも、やっぱりお腹もすくし、家に帰らないといけないでしょ。私、後ろ髪引かれる思いで何とかもと来た階段まで戻って、家に帰ったんだけど、またあのおもちゃ屋に行ってみたくなって、仕事休んで行ったりしてたわ。熱があるとか、そんな嘘ばっかりついて」多義子はうふふと笑った。「眠かったなぁ、あの日は」
「眠かったあの日……、ロマンティックだね」
「そうかな、全然そんな感じじゃなかったよ。エキサイティングに興奮してたんだよ」
「なんか、また、おもちゃを見に行くってのにロマンティシズムを感じちゃうな」
「そう？　でも必死だったりもしたの。ふふふ。会社にばれちゃっててね、本当は仕事がきついから来ないんだろぉ？　とか言われたわ」
「大変だったんだね」
「まあね。朝起きるでしょ、四時半とかよ。現場まで移動しなきゃなんないんだから。前日も遅くまで働いてたりしたあとでよ。睡眠不足で仕事になんか行きたくないし、もう人生どうでもいいって感じよ。何とかおもちゃ屋に行きたいってそれしか頭になかったわ」
「僕も働いてるときつらかったなぁ」僕は数秒沈黙した。昔の出来事が映像になって頭に浮かびかけた。黙り続けていれば当時の感情をともなったまま再生できそうだったけど、思い出に耽ることはやめ、言葉を続けた。「仕事が終わって家で泣いたりしてた。涙が出て……、一人暮らししてたんだけどね。仕事が終わって自転車でマンションまで帰り着いてさ、それですぐCD聴いて泣いてたよ。モンキーズとかボブ・ディランとか聴きながらね……、そんな音楽聴きながらなくなんて変でしょ？　でもつらかったんだ。ご飯作る気力もないからコンビニで買ってきてそれを食べながら。そのあと、お酒をがぶ飲みしてさ、夜遅くまでパソコンしてたよ。翌日、それで辛くなるんだけど、眠りたくなかったんだよ。眠ってしまえば、また翌日になって、辛い仕事をしに行かないといけないから。早めに寝て、朝方早く起きてパソコンしたら一番良かったんだろうけど、それだと、もう仕事に行かないといけないような気になって、焦るんだよ。切羽詰ってやってるような気になるんで、それで夜更かししてやってたんだ」
　けど、それ以上言えなかった。涙が溢れそうになったんだ。でも、何か話していないと落ち着かなくもあった。一時に感情の波が押し寄せてきて、僕は混乱しはじめていたのかも知れない。
「水もってこようか？」
　水を飲まなくても彼女のその一言だけで僕のパニックも軽くなった。だけど間が持たなくなった。見かねたのか、それとも彼女も同じような気持ちだったのか、話の接ぎ穂をするように、彼女が話しの続きを催促した。
「それで、どうなったの？」
「それで、……どんどん組み付けないとパレットが流れていってしまうし、右に左にずっと動き回って、反復横飛びしてるみたいに。たまに女の人が前の通路を歩くのを見るのだけが慰めだったな」
「きれいな人？」
（どうしようか？　きれいだったと言おうか？　正直に）ぐるぐる僕はループしながらそんなことを考えた。思考がまとまらなかった。何て答えるか、決断しかねた。彼女はイライラしてきたのか、机の縁をギザギザ擦りだしていた。そうしながら呆れ顔で、
「どうしたん？　大丈夫？」と、言うのだった。
「いや、ううん、別に。そうだね、きれいだったよ。きれいだったっていうか、そういう過酷な労働してたし、自動車工場は男ばっかしだったから、あんま女性は見なかったんだよ。数人しかいなかったな。だからきれいに見えてただけかも知れないなぁ。でも、ほんと、辛かったよ。いっぺんこんな夢を見たことがあるんだ。いや、夢じゃないや。現実だ。あのね、僕、押入れで寝てたんだけどね、ふすまを閉めて真っ暗にしてさぁ、いつも寝てたんだよ。それでね、夜中起きたんだよ。そしたら僕はなぜだか知らないけど、今工場にいると思ってしまったんだよ。そしてふすまをパレットの上に乗せられて流されてくるミッションケースだと思ったんだ。そのミッションケースって奴にいろんな部品を取り付けるのが僕の仕事だったんだけどね。まず、穴が開いてるんだ。その穴の中にソレノイドバルブハーネスって奴を取り付けなければいけないんだけど、僕は必死になってふすまの取っ手を探してるんだ。でもふすまの裏側だから取っ手がないんだよ。僕は焦ったよ。このままふすまを流してしまったら、不具合を出して大変なことになるって思ったからね。でもふと気づいたんだ。ああ、今、僕は仕事から帰って寝てるんだってね。それで今はBチームの人が取り付ける作業をすればいいんだから僕はこのままふすまを流してしまってもいいんだって気づいたんだ。でも、まだふすまのことをミッションケースだって勘違いしてたんだよ。それぐらい疲れてたんだ」
「ふっ」と、多義子が足を投げ出して、噴きだした。彼女に嘲笑癖があるわけじゃないんだろう。僕のような人物を目にし、僕のおどおどした態度や、声が裏返ったり、どもったり、急に熱弁をふるったりするのを聞き、当のその人物の部屋にいて、その部屋が散らかり放題であるという状況、それらが相まって、彼女にそのような態度をとらせたんだろう。だから彼女が「ふっ」と薄ら笑いを漏らしたことにも僕はさして傷つかなかった。そういう扱いをされることは頻繁にあったし、あまりに性格が合わない女性でなければ、かえって上から見られている関係のほうが僕は好きだった。
「あの水槽の中、何が入ってるの？」
「う、うん。カニが入ってるよ」
「カニだけなの？」、
「あと、ネオンテトラが一匹」
「一人じゃさびしいでしょう。あと一匹入れてやりなよ」
「そうだね。そうするよ」
　もう人生嫌になった。生きていたくない、そう僕は感じた。何かむなしかった。どうしたらいいかわからなかった。不安ではなかったが、一人だけとり残されたような気持ちだった。僕は数年来ずっとむなしかったし、ずっと死にたかった。そんな陰鬱な日々の中で久しぶりに魂が高揚するようなことが起こったのに、何で僕は平静でいられるんだろう。女性と知り合えたっていうのに。……たぶんどうせうまくいかないって、思ってるからだろうな。わかってるんだよ。僕がうまくやりおおせるわけないし、それに、彼女があんまりかわいくないってのも、僕が高揚しない理由の一つだろうな……
　でも、僕は何とかして彼女の気を引きたかった。天使のように舞い込んできた多義子。だけど、彼女がどんな話題を好むか見当がつかなかった。なかなか話を切り出せない自分の内気さ、小心さが呪わしかった。それから、多義子が沈黙を破ってポツリと、「タバコ一本ちょうだい」と言うまでしばらく黙りあっていた。
　僕は「うん」と答えて、そそくさとタバコを差し出した。
「ピース吸うんだ。へーえ」……多義子がタバコをひねっている。そして火をつけた。「あーあ、またおもちゃ街に行きたいな」そんな彼女を珍しそうに僕が見ていると、
「どうしたの？」と、多義子が首をかしげた。
「何でひねるの？」
「灰が落ちにくくなるの」多義子は視線をそらせて、ゆっくりと煙を吐き出した。
「延命公園にあるの？　おもちゃ街への入り口？」
「ちがうとこにある。……あの公園よく行くの？」
「うん。夜中にしか行かないけど」
「夜中しかね……、私もよ」
「昔、あそこに猫捨てに行ったことあるんだ。母と姉と僕の三人で。家の壁から猫の泣き声がしてたんで、壁ぶち破ったんだ。そしたら子猫が二匹出てきたんで、育ててたんだけど、母親が猫大嫌いだから捨てろって言って、それからだよ、タバコ吸いだしたの。酒もだね」
　多義子は興味なさそうな顔をしていたが、急に身を乗り出させると、
「あっ、聖書あるじゃん。読むんだ？」
「いや、持ってるだけだよ」
「読んだらいいのに。私ね、壁にいろいろ変なものが見えていたのね。幽霊みたいなものがね。タバコの灰が落ちて蛾になったりもしたなぁ。だから見たでしょ、灰が落ちないようにひねってタバコ吸うようにしてるの。そしたら友達がさ、それはあなたの心が穢れているからそういうのが見えるっていって、その子キリスト教の信者なんだけど、あなたも入りなさいって勧めてくれたの」
「ふーん」
「でも、未だに見えるときがあるけどね」
「病気なんじゃないの？」
「それに近いかもね。まあいいわ。何が病気かなんて結局わかりはしないんですもの。正常に見える人がかえって病気だったり、変なクラブに通ってたり、それにあなたに病気だなんて言われたくないわ。あなたの方がよっぽど病気よ」
「わかってるよ……」
　多義子はまだ一口しか吸ってないのに、空き缶にタバコを押し付けてもみ消すと、立ち上がった。
「缶コーヒー買いましょ。二缶」
「出かけるの？」
「うん。もっと素敵な気分になりたいから。こんなとこいたら、くさくさしちゃうわ」
　僕たちは外に出た。睡眠不足で頭が重くめまいがしていた。秋風が刺すように冷たかった。雨が降りそうな天候で、雲がどんよりしていた。何だか、街の風景がひどく淋しく見えた。僕たちは缶コーヒーを飲みながら、街をぶらぶらした。酒場が並んでいて、夜になると飲み屋から明かりが漏れる、そんな通りで、ピンクの薄紙に包まれたタバコを買ったりした。夢のような気がしていた。そして、タクシー営業所の前まで歩きついた。
「どこいく？」
「どっか遠くまでいこうか？」
「そだね」
　営業所で、おっさんがテレビを見ていた。タクシーが二、三台停まっていた。
「ライター貸してくれませんか？」
　と、頼んでみると、おっさんは窓から頭を突き出して、
「ライター？　マッチならあったかも」
　と、ごそごそ引き出しをかき回し始めた。やがて、一台タクシーが営業所に戻ってきた。六十前後の、白髪を角刈りにした男がタクシーから降りてくると、
「山林さん、この人がライター貸してくれって」と、マッチを探していたおっさんが声を張り上げた。
　山林は胸ポケットに手を突っ込むと、
「やるよ」
　とハスキーな声で言い、百円ライターを僕に向かって投げてよこした。タバコに火をつけていると、僕の胸に喜びが沸き起こった。タバコを吸えたことよりも、人の親切が嬉しかった。
　それから30分ほどタクシーに揺られていた。助手席に座った多義子は山林と宇宙について話し込んでいた。
「──宇宙って広いから宇宙人がいてもおかしくないですよね」
「そんなもんかなぁ。いないとは言えないしなぁ。いないと思ってもいるかもわからんし」
「ですよね、たとえば炎のかたまりのような存在でも私たちにはわからない一種の意識を持っているかも知れないでしょ」
「そうだな……、マグマの塊としか人間には思えなくても、それが宇宙人かもわからん。まあ、向こうも俺らを生物だと認識できないだろうがな」
「世界観が違うでしょうからね、お互いに」
　そうこうしているうちに、タクシーは山道を登り始めていた。
「おじさん、孤独？」
「ああ、孤独だよ」
「私も孤独よ。……ねぇ、人を好きになったことある？」
「あるにはあるが、ずいぶん昔の話だな」
　山林はちらっとバックミラーで僕の顔を見た。目と目が合った。僕はすぐに目を逸らした。彼らの話にはついていけなかった。窓を流れる木々を見ていると、少し睡魔も襲ってきて、ときおり目をつぶりながら二人の会話を聞くともなしに聞いていた。
「いつか淋しさを捨てられたらいいね」
「ああ。そうだな」
　山林はタバコをくわえ、火をつけた。そして、この世は楽しいんだよと言わんばかりに、煙をパッパと吐き出して、輪っかを幾つも作っていった。そして、──小声で、
「あの青年は彼氏？」
　僕の耳に多義子の笑い声が聞こえた。けらけらと、人を馬鹿にしたような高笑いだった。
「違うわよ、そんなんじゃないわよ」
「そんなふうに笑ってやんなさんな。彼、やさしそうじゃないか」──
　僕もタバコを吸おうと一本取り出していると、いきなり、多義子が叫んだ。
「運転手さん、ここで降ろして！」
「こんな山道でか？」
「そうよ」
　急カーブでタクシーは止まった。新鮮な空気が辺りにはあった。
「ありがとう」
　そう言って、タクシーから降りると、多義子はガードレールを跨いで、
「近道していきましょう」と、彼女はずんずんと兎が天敵から逃げるように駆けてゆく。僕は彼女を見失うまいとあちこち引っかき傷を作りながら、後を追った。しばらく降りていると、多義子は立ち尽くした。
「このへんだったんだけど……」
　あたりをキョロキョロ見廻して、何かを探している。紅葉した木々が、少しばかり、立っているだけの赤茶けた土地だ。
「どこにも何もないね」
「うん、そうねぇ。地形が変わっちゃったのかな」
　どこからこれほど沸いてきたのか、驚くほどに、どす黒い雨雲がとても早く流れてきて、何重にも空を覆った。雨の降る前にと、急いで歩を進め始めたが、みるみるまに霧が視界を遮り、どこへ向かっているのかも見当がつかなくなってしまった。狼が吼えているかのように風がうなり、降り落ちる雨に濡れながら道なき道をさ迷った。石がごろごろ落ちている急斜面を登りきると、巨大な岩壁に縦にまっすぐ光の線が走っていて、見渡す限り辺り一帯に拡がっている霧が、その中にどんどん吸い込まれていっていた。
「あそこよ！」
　霧とともに岩壁と岩壁の隙間に飛び込むと、突如、頭上から太陽の光が浴びせかけられ、目がくらんでしまった。しばらく地面にしゃがみこんでいると、やがて、祠のようなものが見え出してきた。五、六段階段をおりて中へ入ると、洞窟のようになっていて先に進めた。階段の両側には槍が立ち並び、それに蔦がうじゃうじゃ絡みついて柵のようになっていた。とても奇妙なところだった。洞窟はそう奥深くまでは行けず、わけのわからない文字が彫り刻まれた壁にすぐ突き当たって、それ以上は進めなかった。
「おかしいわね、まえはいけたのに」
　外はだんだん雨が激しくなってきていた。雨水が洞窟の中に流れ込んできて、地面がぬかるんでいった。雨の中、きた道を引き返す気にはなれなかった。──「あそこまで行きましょ」──多義子はそう言うと、片隅にあった大きな岩によじ登った。降り注いでいた光も気がつくと、だいぶ弱まっているようだった。周囲は暗く、僕はとてつもなく眠くなっていった。そういえば、まだ僕らは出会ってから一睡もしていなかった。多義子は美しい横顔をしている。暗闇の中にいると、洞窟が音を立てて崩壊してしまう怖さを感じた。
　僕は真剣な面持ちで、唐突に、
「ここに住もうよ。ここで暮らそうよ」
　すると、ちょっと驚いた顔をして、多義子は、
「ごめんね」と、そくざに答えた。彼女の目が潤んでいた。
「なんで……」──それ以上何も言えず、黙り込んでいると、絶え間なく睡魔に見舞われて、なんだかすべての事がどうでも良くなってしまった。
「もうねよう」独り言みたいに僕がボソッと言うと、多義子が肩を寄せてきて、
「私を彼女と思っていいよ」
　と言った。
　僕は黙って首を横にふった。──疲れがどっと出てきて、ふだんのようには考えられなかった。ただ、まつげの生い茂る彼女の大きな目を見つめていた。
「そんな目で見ないで」
「えっ、どんな」
「なんか私がよっぽどブスみたいに見てたでしょ」
　いけないことを共有している気分になった。頭の中がスカスカになって、スースー風が吹いているようで、
「はい」と何の考えもなく、答えると、
　彼女は僕をキッと睨みつけて、
「はい？」と怒ったふりをして聞き返した。そして、僕の髪をやさしく手ですいた。いつか信じあえなくなる日まで一緒にいたいという思いが僕に込み上げた。互いを疑い合って、どちらかが裏切るその日まで。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2846" seq_num="9" title="薔薇よ、薔薇よ、薔薇よ。" letter_count="3106" updated="2008-09-16T08:03:54+09:00" published="2008-02-06T04:04:02+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１　　　私より美しいものはこの世に存在していない

　陰惨なパーティーだった。薄汚い蠅たちの毎度お決まりの馬鹿騒ぎ。着飾っているつもりの、高慢な豚女。猿のような男たち。西洋と東洋の血が半分ずつ流れている私、神秘的な顔立ち、流麗な挙措動作、どれをとっても私一人だけが、この場の空気にそぐわない高貴さを持ち合わせていた。どうやら私は皆の期待をいっしんに集めているらしい。女らは欲情に狂ったまなざしで私の影を追う。男らは私の知故になろうと微笑を浮かべて私の蜃気楼に会釈する。
「ジャン」永遠にうだつのあがらない中小企業の役員が私に気安く語りかける。もちろん私は、こんな俗物を相手にするほど心は汚れていない。私の心、それはむろん、水晶のように透き通り、そして輝きに満ちている。
「どうだい？　絵は順調かい？　こんど個展を開くそうだね。私の会社から金を出そうかい？　どうだね？」
　私は醜い者から目をそらし、紅がかったワインをグラスに注ぎ、舌で転がし、味わう。この男の喉元を私は、ナイフでえぐってみたくなった。
「どうでしょう？　あなたの血で絵を描かせてもらえませんか？　きっと素晴らしい痴呆の哀れさが描けると思うのですが」
　男は何も理解することなく、微笑み続けている。
「それは、今度考えておきましょう」
　私は冷笑し、「そうですか、それは残念です。あなたの腐りきった血で一度、屍にむらがる蠅でも描いてたいと思ったのですがね」
　彼ごとき矮小な人間の返事を待つ私ではない。薔薇の香りを残し、颯爽と私はこの醜き集会をあとにする。私のねぐらへと。
　私は酔狂なことに、私の化身の儚げさにふさわしくないことだが、悪趣味なことに耽溺することがある。アトリエにモナリザの複写を４枚ほど飾っているが、どれも数日前に描いたもので、それぞれ、情欲、苦痛、憎悪、嫉みの感情をその顔に顕して、私のみなもとでたゆたわせている。どれもこれも裸婦で、私は剣を鞘から抜くと、一枚一枚、幾回も幾回も飽きるまで切り刻んでゆく。やがて、私のドレスが赤く染まる。それまで、私は色を塗り重ねては、剣をふるい、私の美貌に狂気じみた翳りがうつり始めるまで、この遊びに我を忘れてしまう。疲労した私の魂は鏡台に写る私の美貌に目を奪われ、俗悪なこの世界から離れた精神の高みに運ばれ、安らぎ、また、腐敗した日常に戻ってゆく。なぜ？　なぜ私だけが美しいのだろうか？　なぜ私以外の者は醜いのだろうか？　そうだ、私という美の象徴を際立たせるため、他の人間たちはあんなにも腐りきっているのだろう。醜いものは許せない私だのに、彼らを見ると一種の哀れみさを覚える。蛆虫としてうまれ私を羨望し、あるいは嫉み、馬鹿げた悦楽に浸りきりで日々を過ごしている彼らを、私は愛しているのかも知れない。その愚かさを。
　私には赤いドレスがよく似合う。

　　　　２　　うつしみに寄せる手記

　希望に満ちた眼差しで突き進む彼らに、私は毒薬を進呈する。それが彼らへのご挨拶だ。私の愛の賜物、死の美学を掻っ攫いきては、彼らの薄汚さを神々の冷水をもって洗浄してやらなければ、醜いものが生まれてきた原罪を癒してやることなどできないのだ。醜いものはこの世に存在してはならない。私がこの世界にいる限りは。私は枯葉に擬態した蛾だ。私の美しさを見抜けるものはあまりいないだろう。薄汚れて、ドブ臭い魂に成り果てた者たちの眼には私の姿も薄気味悪く映るに違いない。どうやら私は美の極致にまで至りすぎたのかも知れない。だが、なにゆえ、下界にとどまっていなければならないのだろうか？　私のように転生の才能を下嗣された選ばれし麒麟児にはこの世界の道徳を踏みにじる権利と、義務があるのだから。そうだ。私はまだ19歳の、未成熟な詩人に過ぎない。大らかな気懇に促され、私は美を謳うだけの一介の詩人、それだけだ。私はこの世に美を見出そうとして果たさなかった。絶望に打ちひしがれた私は、鏡の中に美を見出したのだった。美とは私だったのだ。私が美を謳わんと欲すれば私自身を謳わなければならない。だが、私はこの私が生き、悩み、光を発するみなもとである私と同等なものを見出し、そこに苦悩する私と同調するなにごとかを探し、憩いたいのだ。私ばかりが美しく、私ばかりが絶対的命令を下せる預言者であっては、生きていることに何の張り合いもなかった。虚しい思いだった。幾年も、私はこのジレンマと戦い続けるしかなかった。だけれども私にいつか、私の美に感化されてゆくものが眼にとまった。それは太陽だった。太陽は私の美を白日のもとに照らさんと燦々と、燃えるがごとく、私の頭上高くにあった。私は安堵した。私の存在も無駄ではなかったのだと。
　そして、私にはまた……　探求しつづけても、得られぬ至福の歓喜への羨望の飢えから逃れんがための逃避癖があった。だが、そんなことにさえ私の研ぎ澄まされた感性は天上の愉楽にも等しい激情を私の身体に及ぼしさえする。赤い仮面で端整な顔を覆い隠すと、私は生まれたままの姿で、夜の街角を徘徊するのだ。路地、私はそこで全身全霊を込めた入魂の一筆を見事な筆さばきで描き続ける。路地の壁は瞬く間に、末世の、そう、赤裸々な人間の情念で浮かび上がるのだ。

　　　　３　　清らかな私は、常に清潔でいなければならない

　雑然としたアトリエから螺旋階段を下りていくと、蓮の葉でヴェールを敷かれた純日本的な池がある。私は毎日、胡蝶蘭を投げ入れては、その池で水浴びをし、私の麗しい身体を清めることにしていた。私は服を脱ぎ去り、ピンクのブリーフを鼻先にもっていき、その香科に酔いしれると、頭から池の中に入水する。私はその瞬間、この妖気に包まれた池と一体化し、何千何億年も前からこの池を棲家にしていたような感覚に溺れ、池にすむものどもらとの性交が始まる。異性物とのセックスは、私をファンタジーの躍動感で皮膚の表面まで潤し、私のとろけんばかりの容姿において、唯一地味な耳朶さえも、桃色に染まり、蛙との交わりにおいて、私の喜びを危険なまでに顕そうと躍起になるのだ。
　私は雌カエルの穴に挿入し、腰を躍らせ、また、雄カエルのイチモツによって、肛門を激しく突かれてはため息をつく。官能的な３Ｐにより私の粘液という粘液が溢れ、狂ってしまいそうな夕べに、美少年の陰茎を無我夢中でフェラチオしているようなアブノーマルな悦びに私は我を忘れてしまう。
｢ああ、挿れてくれ、挿れてくれ、お願いだ、挿れてくれ｣私は逝きたい、逝きたいのだ。もはやそのことのみしか思考できなくなってしまって、湧き出る精液を掬いとり、アナルに塗りこまんとして、太くて、長いペニスが自由に出入りできるように、魔術をかけるのだった。
｢どうしてあなたはそんなに挿れらてたいの？｣
　雌カエルが私にそう問いかける。
｢私は、自分でなくなりたいのだ。私は、私は、変になりたいのだ｣
｢それは私も同じよ。私は今はこんな醜いカエルの姿ですが、本当はこの世界で一番の美貌をもつお姫さまなのです。王子様のキッスで本来の姿に戻れます。どうか私を元の姿にもどして、お嫁に貰ってくれませんか？｣
　私は漲る腕で彼女の首を引き寄せ、ねじり込むように舌を入れ、淫らな音を立て、吸い、舐めあう。そして私は彼女の唇を噛み千切り、頭部を噛み千切り、心臓を噛み千切り、手足を食い千切り、彼女を殺してしまう。なぜなら、私より美しいものがこの世に存在してはならないからだ。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="17104" seq_num="10" title="その、不思議な、夜の、" letter_count="8057" updated="2009-03-31T01:12:07+09:00" published="2008-12-27T17:24:41+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　たましいが夢の世界に遊んでいたおり、いつものように抜け道をとおり抜けある晩餐会で飲食していた。すると一人の牧神が、見咎めて、
「一体なんだおまえは？」
「詩人です」
「寝ぼけたことをいうな。人間のしかも凡人ではないか」
「まあそうかも。でも、だから心臓ばくばくして、脳みそすかすかになるまで睡眠不足でやっと詩を綴ってるんです。えらいでしょ」
「うるさい！　おまえのようなものをわしと同じ席に座らせられようか！」
　直後、もんどうむようで、叩き落された。大きなハエたたきかなんかで。
「魔人よ、魔人よ、魔人さん。これであなたも曲がりなりにも堕天使ですから、自分の力で立派な詩を書いて這い上がってごらんなさい。うんとたくさんできがよいものを書いて」
　真上から女人にそんな言葉を投げかけられながら。それから我がままに、あるがままに振舞った。とるものもとりあえずペンシルを握り締めせかせかと溢れる言葉をノートに記しだしたりして。

　　　　２

　岩かげに男が寝ていた。ここをねぐらとしているのだろう。貧しい装いをしている。どんな奴かと、うす暗がりの中、目をこらした。まだヒゲも生えそろっていない若い男だ。ややたれ目の。声をかけてみる。反応なし。よく熟睡していた。だらしなく伸ばした腕の先に靴を転がして。──禍々しい者ではなさそうだった。それにここはそこはかとなくいい雰囲気。ただならぬこともなさそうで。そう感じた。直感で。今夜はここで夜をしのごう。男は相変わらず寝入っていたが、そっとしておいた。荷を降ろし、ただ隣りに座らせてもらうだけのこと。椅子などないが。じかに地面に。大胆かつ不適に。そう、それが俺を俺たらしめているすべて。静寂。冷えこんできた。しっとりと、雨も降ってきていて、雨滴で閉ざされてゆくその入り口まぎわにそっと手を伸ばしてみる。届かないことを承知で。ただ戯れに。明滅を繰り返す夜空。雷鳴がとどろいていて。──いかずちのような激しさでこの日の出来事を若者は後年、こう語ったものだ。
「いつものように俺は寝てたんだ、そしたら誰か入ってきやがった。ものすごい足音でだ。馬の群れが通り過ぎてゆくような。見知らぬ男だった。俺は目をつむって寝たふりをしていたんだが、それからは夢を見ていたのか現実におきたことなのか今もってわかりはしねえ、うす目をあけてみるとそいつが青白い顔して目をひん剥いて、踊ってやがった。俺は恐ろしくてなあ、生きた心地がしなかったよ。食われちまうと思ったんだ！　そいつは俺が逃げようとすると、ふりむいて……、──やあ、おはよう。目ざめは？」と、悪魔のような微笑を浮かべて。
　皮袋から一口、水をあおり飲むと、平静を装って、
「……悪くはないが、女に起こされたかったな。どうせなら」
「ブスでもか？」
　あわてて、咳き込み、
「いやまああんたで良かったよ……」
　天候はずいぶんましになってきていた。じきにやむだろう。あたりが照らされだし、緑の草がところどころ、そこらじゅうに跳ねている。あれだけ踏み散らかしたのにもかかわらずに。土はまだぬかるんでいるがすぐ固まるだろう。私の足跡はもう消えていた。だが、まだのし上ろうとする火種は心に残っている。メラメラと、野心が。火の粉で目がしょぼしょぼするほど。人間性もわずかばかり。ためらう恥じらいも。空気みたいなものだが。──そよ風が、入り込んだ……
「新しい情報はあるか？」
「ソドムとゴモラが滅んだ。神の怒りにふれて」
「そうか……」
　その街角でも、人々は今までの人生に恥じ入っていた。その堕落した人生に。こいつのようにぽつりぽつり逃げ出すやからも多くなっていた。
「独り者か？　恋人は？」
「今はひとりだ。俺は女を愛せなくなったんだ。肉欲はあるが……、ふんだんに……」
「自己処理精神が旺盛なんだな。いろんな問題をそりゃ抱えてるんだろうがわき目もふらずに、せっせと、悶々、黙々と」
　ものといたげな目で、
「……つぎつぎと、なにかをなしとげる？」
「いや、出してしまうということさ」
　不思議そうに、
「何を」
「欲求不満という名の体液さ！」
　朝陽がのぼり夜明けが終わった。朝だ。旅立たねばならない。私は探し出すあなたがどこをさ迷っていようとも。歩いて寝るだけの日がつづいても。男は先にたって歩いていった。まるで目的地があるような足取りで。私はそのあとに続いた。
「どこに行くんだ？」
「まっすぐ。ただ見つめてるだけさ、前を」すぐ、言い直した、「風を、その吹きっぷりを」
　それから照れくさそうに、
「女がわんさかといる、オアシスにでもたどり着ければいいんだけどな」
「そうだな。綺麗な水、澄んだ水なんて、飲んでねえな、そういやここんとこずっと」
　廃墟から煙が立ち上っていた。上へ上へとゆらゆらと。
「あの街も神の怒りにふれたわけだ」
「ええ、俺たちの生活は荒みきっているんです、それほどまでに」
「ほんとうに神の仕業なのか」
　男は怪訝そうに、
「ほかにこれほどまでのことをできる者がいますか？　第一、罰せる権限を持つものは神をおいてほかにいやしませんよ」
「悪い奴だな。その神ってのは」それから小声で、「……とくに牧神が」
　男は批難するように私を見た。私の唇を。侮蔑するように、ながながと。
「俺の人格を疑うのか？」
「いいえ」──男は静かに言った。男は東から来たという。まるで激流だったという、彼の人生が。そう大洪水の流れに逆らって小船が進むごとくに。
「いろんな奴と出会いましたよ。いろんな奴がいた。誰とも信頼関係なんか築きやしなかったけど。まあ、だから俺は別にどんな考えを持った人だろうとたいして驚きゃしないんです。ただ、急場をやり過ごすには協力したほうがいいってだけで。互いにとって」
「どこまで？」
「深入りしないまで。あまり情が移るとそいつの不幸まで背負いかねませんからね。そんなのはごめんだ。ほどほどってところまでだな。未練があっても」
「悲しい過去があるみたいだな。その口ぶりだと」
「……ええ、こんなことを言う女がいたんだ。さっきあんたは神をそしったが、その神が滅ぼした街へ行きたいんだって。……なぜって？　そんなことは知らないよ。俺の腕をとってさ誘うんだ。うるんだ目して。ねえ、あなたも行くでしょって。確信に満ちた目をしていいやがったよ。私もあなたの行くところにはどこにでもついてゆくって、さ。あなたの行くところなら私、どこだっていくわって。だから私のいくところにもあなたについてきて欲しいってよ。俺も行きたくはあったんだ。だけど、そんなこと言ったってよ、そんなとこにゃ、何もない、不幸しかない、頼るものもいない。なにより希望がないじゃないか」
「彼女はおまえを頼りにしていたんじゃないのか？　ほおっていくこたないだろ」
「俺を？　俺じゃその女を幸せにできないからな。俺みたいな放浪者じゃ。無理な話さ。俺は自分の道を一人で進むしかないのさ。……彼女はほかの奴をすぐ見つけるさ。俺以外の誰かを。替りなんていくらでもいるだろうよ」
「まあ、どこに行こうが、何をしようが、おまえの勝手ではあるが。それはいつの話なんだ？」
「１０日ばかり前かな」
「それをまるで大昔のことのようにいいやがって」
「いやまだ生々しく目にやきついてるから、いとしいだけさ。昔のことなら忘れちまう。だけどまだ今はまだあの女の口臭や」──変なことを口走る奴だな──「その艶かしい口から吐き出されたよ、息の暖かさが俺の頬にまだ、ぬくもりとして残ってやがるから、こびりついていやがるから……」
「寝たのか、その女と」
「……そんなこたしないよ。身ごもらせちゃ可哀想じゃねえか」
「ほう、若いのにおっさんみたいだな、おまえは」
「……それなりに苦労しているからかな（というかそんなアバンチュールな感じじゃなかったし、やるなら無理じいするしかなかったからだが、力ずくで……）」
「女はどこへ？」
「罪人を見に行くっていってたな」
「そう言ってたんだな、本当に」
「ああ、それがどうしたんだ」
「行こうか、その女のもとへ」
「なぜ？」
　私は彼の肩を叩き、
「おまえには時間はない。そして何もかもがない。それは今後も変わらないだろう。もたもたしてると誰かに奪われるぞ」と、ぼっそりささやいた。耳もとで。
　私は自分に言い聞かせるように、考えこみながら、ゆっくり言葉をつないでいった。
「戦いを放棄したものに投げかけられるのはさげずみの言葉だけだ。たとえそれを表面にあらわさずとも言外ににじみ出てしまう。いいか、そんな奴らはただ死を待つだけの身だ。争うことによって地位を得るのだ。……自分をより拡散できる舞台を。おのれの価値を全世界にとどろかせてみろ！　大あらしがきたらんとしていても、その中に飛び込まないのなら何事も起こりはしない。……脆弱だから、飛び込めない？　そんなのは言い訳だ。自分の弱さに甘えているだけの卑怯者だ。羽ばたくか舞い落ちるか、その扉を開こうともせずがたがた考えるんじゃねえ、どん底にいるならなおさらだ。一秒一刻も無駄にするな、どんな困難が立ちはだかろうとも、うねりの中に身を投げだせ！　そこが白日のもとであろうが、漆黒の中の荒野であろうが！　ゆけ！　ひとみ愛に燃えて！」
　男は私の顔を食い入るように、まばたきひとつせず見つめていたが、──私は、またもやたましいが夢の世界に遊びだしていて、うずうず、まいたった、けだるく天上界の宴へ通じる回廊を歩いていた、すると門番に呼びとめられた。待っていると、あの牧神がやってきて、
「またおまえか。よく図々しくこれるものだな」
「待ってください私はたった今、ほのかにかおる、来るだけに足るものを」
　そっこーで、
「ダメだあんなもん、ゴミクズだ！」
　それから、私はむんずと襟首をつかまれて、つまみ出された。後頭部に蹴りを入れられながら。──気づくと、若者に、
「大丈夫ですか、正気を失っていたようでしたが」と、半笑いで、心配されたが、
　威厳たっぷりに、
「預言者とはそういうものだ」と、ない余裕をふり絞って空威張りした。──沈みゆく夕陽に向かって。
「……何かきてますよ」
　私はせまりくる恐怖に子猫のようにおびえながら、
「大たつまきだ」
　ずけずけと、
「……飛びこめますか？　あの中に？」
「たやすいことだ」
　私の額に冷や汗が流れていた。

　　　　３

　すまし顔の少女がエレクトーンを弾いていた。狙い通りの音はなかなか出ずにいたが、それでも彼女は練習の手を休めることはなかった。今は下手くそでも若いうちにたくさん弾いておかなくちゃ、いつか華麗に弾きこなせるようになんか、「絶対なれやしないんだから！」と、やっきになって、細い腕でしなやかに奏でていた。長年の憧れのニッキー・ホプキンスの手さばきを真似しながら。彼女は100以上のベランダを並べたマンションのその中央あたり、ラベンダーを切り刻んだ模様のカーテンをたらした奥の一室で、くるみ割り人形を演奏していた。彼女はその楽譜を道端で拾った。興奮で自然に指先に力が入りすぎてしまう。一体誰がこれを書いたのだろう。くるみ割り人形をエレクトーンで弾ける楽譜が存在するなんて。薄汚いおたまじゃくしが譜面いっぱいに泳いでいて、（こんなので本当にメロディになるのかな）と、疑っていたのだが、しばらく鍵盤を叩いているとその補助音の、神がかり的な配列に幼い心が躍りだした。（これ落とした人、困ってるんじゃないのかな）と、頭によぎったが、（でもこれがあれば、今度の演奏会で、あの明美に……、あの憎っくき明美にくやし顔をさせれるんだ。賞状を手にする私を指をくわえて見ていろ！）
　それから二、三度もたついたあと順調にひきはじめた。しっかりとリズムを意識しながら。窓越しの景色がだんだん翳ってゆく。ティーカップが空になり、空に瞬く光の点をじっと見ていた少女は楽譜をパタンと閉じた。えくぼを夜空にきらめかせて。もう寝る時間だ。少し上達したような気がしていて、浮かれながら服を脱いでいった。発育のよい、しかし幼い体をあらわにして、パジャマに着替えると、毛布にくるまりこんだ。だがやはり女の子。どうしてもアップルティーが飲みたくなってしまった。彼女の暮らすマンションから排出される生活用水が流れ込んでゆくドブ溝に沿って、人気のないじゃり道をしばらくたどってゆくと、日陰を余儀なくされている、ぼろい家がある。集落のようにしてただ一軒。下水に何か詰まっているのか排水するたびに玄関前に水たまりができる。やがて黄ばみはじめて。その家の中に、グリップがぐにゃりとひん曲がった万年筆を、火にかけている男がいた。その男は、脳に一撃、ひらめくものがあって、インキ壺にペン先を突っこむと、
「俺は飛べる！　思うがままに！　いつだって！　いつだって！」
　と、叫び、おもむろに手に取ったペンで、紙に文字を書こうとした。だがインクが紙に付かなかった。
（なぜだ？　こんなに書いてもまだぜんぜん減らねえなあ、まだなみなみと入ってやがるって、ついこの前そういう感慨にふけったはずだが……）
　と、インキ壺を覗きこむと、液体がドロドロになっていた。そのありさまにいきりたってライターの炎で液状に戻そうとしていたのだが、まったく溶けず、
「なんてこったよ！　軽快に書き飛ばそうと思ってたのによ！」
　沸き出そうとしていた言葉はすでに零れ落ちてしまい、四散しくさっている。男はへなへなと、うつむいた。泣きたかった。やさしい淑女の胸もとに抱かれ。──まるで愛に見捨てられたもののように、
「なじんじまう、なじんじまう、手になじんじまう……」
　そんなことをぶつぶつ呟きながら、ペン先までをもライターであぶり始めた。そのぐねり加減を確かめるかのように、半分あけた口からよだれをたらして、一心不乱に。何のためにそんなことをしているのか本人にもわからなかったが。しとしきりし終えると、小銭を握り締め、瞳孔をひらかせてふらふらと家を出た。誰も彼もがのどが渇きやがるから。少女がたまに外出すると近くの自販機でよくこの男と遭遇した。この夜更けにも。男は飲みたいものを選んでボタンを押しても、なかなか取りあげようともせずシャツの胸をはだけさせたりして、その辺でぶらぶらしていのだが、そんな男を警戒しつつ、（あの人、窃盗犯、余罪ありとかかな）などと思いながら少女が立ち去ろうとすると、ペットボトルのキャップをくるくる指でこねくり回しながら、少女が取り間違えていった缶を持って、そのあとを追いかけていった。
　背後から、
「これあなたのアップルティーじゃ？」
　少女はとまどい、不審者から目をそらすと、自分がポケットにしまいこんでいたものを仔細に眺めて、頬を赤くし、
「え、じゃあこれは？」
「それは僕の黒酢リンゴ、僕の、黒酢リンゴ……」
　少女はしばし呆然自失となり、
「わたしそんな、変な、そんな変なの飲んだことない、わたしそんな、わたしそんな、そんな女なんかじゃない！」
「……黒酢、それ、……僕の、黒酢……リンゴ」
　美男子にはうぶな態度を見せるのだが相手が変質者だけに、少女はキッと睨みつけると、
「眠かったから、間違えただけだからっ！　私の返してよっ！」
　そう言い、混乱した頭のまま、アップルティーを奪い、いちもくさんに駆けていった。部屋に戻ると、（えらい恥をかいた、……ちがう！　えらい目にあわされちゃったの！）と、さっさとそんないやなことは忘れてしまおうと、ベッドに寝転がり、枕もとの伝記本をぱらぱらとめくりだして、声に出して読みはじめた。
「え、なになに、この伝記上にあらわれる悪魔と若者は洞窟で出会いのちにたもとをわかち……」
　だんだん少女のまぶたが重くなってくる。
「……この世に悪がはびこるとき、魔人があらわれる。この世の人々が悪徳で染まるとき、突如としてその群れの中の、その時代の如才だらけの、だらしない、冴えない男の心のうちにある変化が生じ、死んでいったものたちの、巨大な、怨念が注ぎ込まれて、朦朧として倒れふし、……全身が痙攣しだして、変わろうとする心に抗おうと必死でじたばたともがくが、混濁した意識はやがて慢心さで満たされてゆく……、なんなんだこれほんとに、わけわかんないや」
　少女は本をほっぽり投げると、そのまま眠ってしまおうとした。その本は13年前の聖誕祭の日にまだ字も読めない少女に父親がプレゼントしたものだった。どんな苦しいことが身に降りかかろうと、それが良い思い出に変わりますように、との願いをこめて。
　寝付けない少女がふと、（あの楽譜、あいつが落としたんじゃないのかな）と、思い、おびきだそうと、窓をあけてかじかんだ手で一曲弾きだすと、やはりあの男が自販機の前で耳をすませていた。音のほうに影を伸ばして。深夜、眼科の前で、目をおよがせながら……。──覚えたての曲を弾いていた少女がやがて目を瞑ると、いろいろな情景が頭に、取りとめもなく浮かんでは消えていった。少女はその情景にあった音を探しあてようと、ストローでアップルティーを吸いながら、足でてきぱきとペダルを踏みつけていった。少女がたまに弾き間違えると若者が荒野で、「ああ！　神はいないのか！」と呻き、メロディカルな調べが続くと、「どうやらたすかったようだぜ、見ろよ、街だ。やっと休めるぜ」と、彼らの旅路が楽になった。やがてあたりが静まり返った。

　　　　４

　牧神がいらだっていた。
「そもそも天界に猿などはいれるわけないじゃないか。うろちょろしやがって」
　と。
　女人が、
「あら一匹ぐらいかわいいものですよ。それよりあなた最近、詩をおかきになられていないようね。酒ばかり飲んで」
　少したじろいで、狼狽を隠そうと、
「いや、そんなことはない。書いてるよちゃんと、下界で」
「あのあなたが守護してるっていうあの男を通して？」
　けむにまくように、
「そう、誰にともなくね」と、そっぽをむく。
「娘さんをほっぽって？」
　牧神が、「いやそんなことはない。あの娘はかならずうまくなるんだ。わかりきっている」
　女人が、「少女しだいじゃない、そんなの。途中で投げだすかも知れませんわよ。エレクトーンより楽しい遊びを見つけて」
「いや、そんなことにはならないよ。もっと美しくもなる。見目麗しくね」
　会話もとぎれると、地上では、少女の父親がやすやすと憑依されてしまい、
「きみたちの中に目と眉の間隔をあける化粧のテクニックについて知っているものはいるか？　なんていったか、アイ、ア、アイトーチプスとかいったっけか、いや、たぶん違うな、なんだっけか、まあ、そんなことはどうでもいいが、知らないか？　ごぞんじかな？」
　と、インターネット掲示板に書き込んでいく。ところがなかなかレスが付かないことに腹をたて、
「聞いているのか！　わかるかこの気持ちが、気はくが。迫力を持って感じられているのか？　届いているのかきみたちの胸に！　娘にプレゼントしたいんだよその、アイ、なんだっけ、知らんが！」
　と、暴れに暴れまくること。ロウソクだけともされた一室で。書籍に囲まれながら。
　──ゆったりと時は流れてゆく。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2842" seq_num="11" title="アンハッピー" letter_count="2937" updated="2008-03-28T14:57:20+09:00" published="2008-02-06T03:58:12+09:00">
		<section><![CDATA[　仕事が終わって、僕は家にいた。シャワーを浴びて、インターネットに接続し、２ちゃんねるをやっていると、漠然としたさびしさに見舞われた。ピンサロに行こうか、と思った。性欲ではなかった。ただのさびしさだった。外はもう暗い。ワンルームマンションの一室からでて、僕はバイクのエンジンをかけた。もう見慣れてしまった京都の風景の中を、途中何度か、赤信号で止まりながら河原町まで走らせた。
　だいたいいつも行くピンサロの店は決まっていたが、未知の女の子を求めて、たまに違う店に入る。今日の僕はそんな気分だった。客引きに呼び止められて、そのまま階段を上がっていった。
「何分ですか？」
「40分で」
「指名はありますか？」
「ないです」
「7千円です」
　僕は財布から紙幣を抜き取り、彼に渡した。
「そこでお待ちください」
「はい」
　しばらく待っていると、部屋に通された。女の子が来た。少し太り気味で、頭が悪そうで、性格も悪そうな、一重まぶたの女の子だった。
「お酒は何がいいですか？」
「水割りで」
　J・popミュージックがガンガンかけられていた。僕は運ばれてきた水割りを一気に半分まで減らすと、タバコに火をつけた。
「吉江です。よろしく」
「はい……」
　吉江はセックスをさせてくれた。僕は射精する前、
「中で出していい？」と、耳元でささやいたが、「今日はダメ……」と言われた。いつならいいのだろう、そんな疑問が浮かんだ。いつかただで中で、出させてくれるんだろうか──そうだったらいいが──、僕らは服を脱がず、性器だけを出し、彼女をソファに寝かせて交わりあった。この前、昔の職場の友達と、遊びに行ったことがあったが、そのとき、その人に、「ピンサロ行って、女の子の携帯の番号を聞かないのはもったいないよ」と言われていて、今日は勇気を出して聞いてみるつもりだった。あまりかわいい子には聞きづらかったし、吉江のような女性はそういった意味で好都合だった。僕に釣り合うのはこいつ程度の女なんだよ、僕がかわいい子に電話番号聞くなんてあつかまし過ぎる。そんな思いがあった。
「電話番号教えて」小声で囁くと、
「うん、いいよ」とあっさり言ってくれた。僕は拍子抜けするとともに、人生で始めて女の子の電話番号を聞けたという喜びで胸がいっぱいになった。挑戦し、成功したことがうれしくって仕方がなかった。帰り際に彼女は手を振って僕を見送ってくれた。
　店を出、高瀬川沿いに停めていたバイクに跨り、僕はしばらく川を眺めていた。街灯に照らされた川の水がキラキラと光っていた。夜、遅かったが、街には人が溢れていた。
　次の日、仕事中、携帯を見ると、吉江からメールが来ていた。今日も来て、と書かれていた。僕は仕事現場からいっぺん家に帰って、また河原町まで出て行くのはきつかった。そう返事を書くと、直接来くればいい、と返信された。『不潔だよ』と送った。しばらくして、携帯を見ると、『私がおしぼりで体を拭いてあげる』
　僕は行くことにした。今日もやらせてくれるのだろうか、そんなことを考えながら、仕事帰り、夕暮れの中、河原町までバイクで着くと、僕はピンサロ店の階段を上っていった。
「何分で？」
「40分で」
「ご指名とかありますか？」
「吉江さんを……」僕は言いながら、自分を馬鹿だと思った。何であんな女を指名するのだろうか？　ピンサロでかわいい女の子に当たったことは何度もあった。もう一度会いたい子も何人もいた。なぜ、そんな女の子を指名せずに吉江のような明らかに僕のタイプではない女を指名するのか……
　しばらく待っていると吉江が来た。彼女は不機嫌そうだった。
「ねえ、一緒に住まない。そしたら家賃とかただじゃん」僕がそう言うと、
「寮、入ってるから無理だよ」というそっけない返事。
　僕は酒を飲みながらガンガン口説いていった。僕は彼女が欲しかった。女なら誰でも良かった。あまり美しいとはいえないこんな女性は選り好みなどをせず、僕を選ぶべきだと思った。僕もそうしているのだから。
「寮出ればいいじゃん」
　時間になった。僕は射精しなかった。
「どうします？　延長しますか？」
「うん……」
「女の子替わったほうが良いでしょ？」
　僕はもう嫌になっていた。本音を言った。
「うん、そうだね」
　すると、吉江は、いきなり立ち上がり、
「もういや、しつこい！」と大声を出しながら、立ち去った。しばらく待っていると、35歳ぐらいのおばさんがやってきて、僕の横に座った。僕は水割りを頼んだ。
「あんまり女の子にしつこくしたら嫌われるよ」と、そのおばさんは僕に説教を始めた。「あんまりしつこくしたらだめ。男ならすぱっと諦めないといけないわよ」10分ぐらい、劣った者を見るような目で見つめられながら、僕は小言を言われ続けた。僕は、
「はい……」ばかり言っていた。自分が恥ずかしかった。
　説教が一段落すると、おばさんは、
「する？」と尋ねてきた。
「します」と僕がズボンを脱ぐと、彼女は、「するのね……」とにやりと笑った。さっきまで僕を上から見るように説教していたおばさんは腰をかがめ、僕の陰茎をしゃぶり始めた。彼女はしゃぶりながら僕の睾丸を手で軽く握ったり、さすったり、しながら、舌をたくみに使い僕に射精させようとした。だけど、僕は何かむなしい気分になっていたので、正面の壁をただじっと見ながら、黙り込んでいた。僕は逝けなかった。
　僕は店を出ると、いつも通っているピンサロに入っていった。35歳ぐらいの女性にあたった。顔はタイプだった。
「おとなしいわね」
「暗いんですよ」
「そんなことないわよ。ちゃんとしゃべるじゃない」
「さっき違う店でそう言われた」
　彼女は怒った。「どこの店？」
「いや、もう一つ向うの通りなんですけど……」
「お客さんを楽しませないといけないのに、そんなこと言ったらだめだ。ここ全部系列が同じだからどの店の誰に言われたのか教えてください。それは文句言わないとだめだ」
「いや、いいんですよ……」
「ちょっと店長呼んでくる」
　店長が来た。人の良さそうなあんちゃんだった。
「どこのお店なんですか？」
「いや、いいです……忘れました……」
「いや良くないです。本当にすみませんでした。どこの店だったか思い出されたら、ぜひ教えてください。店長として女の子を教育しなければならない義務がありますんで。本当にすみませんでした」
　それから女の子が戻ってきて、
「本当にごめんなさいね。……今日は私が上になって楽しませてあげる」
　僕は水割りをがぶ飲みした。ズボンを脱いだ。僕は、ソファに座ったままの姿勢でよかった。彼女が上に乗ってきたから。そして、キスをした、彼女が噛んでいたスルメを少し奪い、僕もくちゃくちゃスルメを噛みながらファックした。しばらく性器をこすり合わせてから、僕は彼女をソファに押し倒し、ガンガン腰を振って彼女を逝かせようとした。そして、彼女の腹に精液をぶちまけた。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="18884" seq_num="12" title="とっとこゴム太郎" letter_count="3092" updated="2009-01-23T17:12:35+09:00" published="2009-01-23T17:12:18+09:00">
		<section><![CDATA[　深夜のコンビニ。ｵﾚの鼓動だけが激しくなる。いつものように、買い物客を待つｵﾚ。バニラ風味のコンドームがｵﾚの横に並んでいる。ふっ、何がバニラ風味だ。セックスするのに何の意味もねえじゃねえかよ。
　そうさ、ｵﾚはオーソドックスなコンドーム。ちなみに日本製さ。Made　in　japanなのだ。隣の棚の奴と、ゴムちゃんズを結成している。余談さ。さてと、ゴム工場でｵﾚが作られてからこのコンビニに来るまで、いくたの冒険があった。試験して、ゴムが破れてゴミ箱行きになった仲間もいた。言ってみればｵﾚはそんな中を生き抜いてきたエリートなのだ。選ばれし者のみが棚に並ぶことが出来る厳しいコンドームの世界を君らは知らんだろうがな。甘ちゃんどもが……　いい気になってチンポにコンドームつけてんじゃねえぞ。少しは、ｵﾚたちの世界に目を向けてみるがいいさ。大、中、小用のコンドームがあるが、ｵﾚは大用なのだ。見栄をはってｵﾚを買ってんじゃねえぞ。お前の短小じゃぶかぶかだろうが。おや……、深夜だというのにこのど田舎のコンビニに客だ。どんな奴かと思えば、髪は伸び放題、服装はよれよれのシャツに、薄汚れたジーンズ。なんて、薄汚い野郎だ。あんな奴、まったくｵﾚの人生と関係がない。どうせ客の少ない深夜にエロ本でも買いに来たんだろう、と思えば、おおっと！　なんだこいつ……　ｵﾚを見つめていやがる……　馬鹿か？　お前なんかにセックスが出来るわけねえだろ……　いわゆる、憧れってやつか……　おいおい、レジに持ってちまわれちまったよ……　どういうこった？　こんなやつにも彼女がいんのか？　
　う、嘘だろ……
　だがそんなうぶな戸惑いをよそに、ｵﾚを入れたビニール袋が揺れながら、月明かりしか照らしていない歩道を当ても知れずさまよう。ちっ、こんな奴のチンポにはまっちまうのかｵﾚは……　一回使われたら捨てられる運命だというのによぉ……　まあ、いい。オマンコの味を今夜はたっぷりと味あわせてもらうか。ｵﾚはそのために生まれてきたんだからな。一週間しか生きられないセミのようなｵﾚたちの生きざま。たしかに線香花火のように儚いものかもしれないさ。だけどよ、細く長く生きるより、ｵﾚは一瞬でも明るく輝きたい。めいっぱい輝きたい。ｵﾚは心からそう思っている。笑うなら笑うがいいさ。ｵﾚは笑われるのには慣れてる。ゴムとして生まれたときから、伸ばされて、嘲笑されてきたんだ。伸びるという、ただそれだけであざ笑われてきた、しかも、チンポにはまるというのだ……　はっきり言って、同じゴムの樹から生まれた仲間に馬鹿にされたもんさ。
「……ああ、俺、靴底にならなきゃなんねえよ……」
「靴底か、一生、踏まれ続けるんだな。だけどよ、恭一郎なんてよコンドームになるんだぜ、あいつよりましだろ？」
「えっ！　マジ？　なあ！　恭一郎、お前コンドームになんのか？」
　みんなの視線がｵﾚに集まった。ｵﾚは軽くうなずいたあと、意気消沈して、「う、うん、そうなんだ」と、上目遣いで皆をうかがいながら答えた。爆笑がおこった。
「なんだお前コンドームになるのかよ。マジかよ。ぎゃはははは。おーい！　こいつコンドームになるってよ！　腹いてえ～」
……もう、これ以上嫌な過去を思い出させないでくれ……

　とっとこはまるよゴム太郎。精子をためるよゴム太郎。大好きなのは、オマンコの中。やっぱり、締め付けが気持ちいいよゴム太郎。

　しっかしきたねえ部屋だな。こんな部屋によく彼女を呼ぶよなこいつ……　ゴミだらけじゃねえかよ……　エロ本に、エロ雑誌、うわぁ、なんだよ……　オナホールまであるじゃねえかよ……　こんな奴の彼女って、いったいどんな女なんだ……　おいおい、こいつ、エロ動画起動させたよ、って……、おい、まさか、こいつ……　コンドームオナニーする気じゃねえだろうな……　……　……　うわぁ……　やっぱりそうだ、ふざけんじゃねえよ、なんでこんな野郎のチンポにはまんなきゃなんねえんだよｵﾚは……　この、ｵﾚ様がよぉ……　なんかそんな予感がしたんだよなぁ……　こんな奴に彼女がいるなんて思えなかったしよぉ……　ふざけんじゃねえよ！　ｵﾚはオマンコに入るために生まれてきたんだよ！　たぶん神様に、前世で、オマンコの中にずっぽり入って死にたいってお願いしたから、コンドームになるという幸運に恵まれたんだと思ってたのによ。それが、このざまかよ……

「ふはぁ、ふはぁ……　今日はいい動画がねえなあ……　せっかくつらい仕事から帰ってきたっていうのによぉ……　頼むぜ……　いい動画upしといてくれよ、業者さんよぉ……　まだだ……　まだ納得いかねえ、もっとエロい女いねえのかよ……　明日も早いから今日も早く寝ないといけないってのによう……　なんていうか、こう、チンポがぎゅっとひきしまる女いねえのかよ」

　くそう。こいつ、いつまでこすってるつもりなんだよ。ゴムが千切れちまうよ……　もう、いいよ、もう、出しちまえ……　結局ｵﾚはこんな奴のオナニーの道具に使われる運命だったんだよ……　

　クチュクチュ、クチュクチュ、ドピュ、ドピュ……

　こ、こいつ、どれだけ溜めてたんだよ……　根元から染み出てるじゃねえか……　

　ポイッ

　くそ……　こんな精液を出したティッシュだらけのゴミ箱に捨てやがって……　抜いたあとは優雅に午後の紅茶で一息ですか、糞が……　うぅ……　だんだん、ｵﾚの意識がなくなっていく……　さらばこの世……

「やっぱ、もう一回オナニーするか……　なんかもっとチンコ気持ちよくさせたいし、それに一回使ったあとのコンドームはぬめぬめしてて気持ちいいからさあ」

　うぐ……　なんだ……　ｵﾚは一回捨てられたはずだ、ゴミ箱に……　なんだってまたこいつのチンポにはまってんだｵﾚは……　これは夢か……　ああ、夢じゃない、現実だ……　くそお……　充分擦られて疲れきってるというのに、まだこすられ続けなければいけないのか……　そういえば、あそこにかかっているのは作業服だ。こいつは何かの作業員なのだ。だからか、右手の握力がかなり強いのは。ｵﾚのゴムが伸びきってしまう……　こいつの裏筋あたりのｵﾚが磨り減っていて、破れるのも時間の問題だ……　こんな時だってのに悔しいぜ。どんな状況であっても破れないってのがコンドームとしての誇りなのによ……　あれ、こいつ、こすりやめて、ｵﾚの上からパンツをはいたぞ、なんだってんだ？　ズボンまではきやがって……

「もう我慢できない、生の女とセックスしたい。セックスせずに死ぬなんて嫌だ。人間として生まれてきて、セックスせずに死ぬんなら生まれてこなかったほうがましだ。……よし、レイプしてやる……　隣の部屋に、ベランダ越しに移って、窓ガラス割って、佐伯さんの口をガムテープでぐるぐる巻きにして、チンポぶっこんでやる……」

　なんだって、ほんとかよ、マジかよ、よく決心した。見直したぜ、よし、ガンガン犯すんだ。佐伯のマンコが濡れなくても大丈夫さ。ｵﾚの身体は今ねちょねちょしてるから、十分突っ込めるさ。がんばれ。ｵﾚがついてる。オマンコの中はとってもいいとこらしいぜ……、ｵﾚも実際入ったことはまだないが、でも素晴らしいほど、ありえないほど、輝いているらしいぜ。さあ、まだ見ぬ素晴らしき世界へ出発の時だ！　GO！　振り返るな！　進め！　進み続けろ！
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2848" seq_num="13" title="ドヤの晩" letter_count="5182" updated="2008-02-06T04:07:41+09:00" published="2008-02-06T04:07:20+09:00">
		<section><![CDATA[　凛は今、部屋にいる。パソコン・チェアーに腰掛けている。メンソールのタバコの煙が彼の周囲に吐き出されては、部屋の天井へと昇っていっていた。彼は今、ピンク色の服を着ていた。ボタンは四角い形をしていて、角が上にきている。縁はシルバーで、中は白色。そして濁った白色の薔薇がデザインされていた。そのボタンにね。縦に何本も黒い線が走っている服で、その線からだんだんピンク色が薄くなっていき、また、だんだんと隣の線に向かい濃くなっていく。また、糸で小さな刺繍がいくつもしてあり、それらは襟元から下のほうまで縦に並んでおり、見た目に美しかった。
　凛がなぜこの服を買ったか？　彼はこの服を購入する2週間ほど前に、ピンク色の服を一着失っていた。その服は彼が一番気に入っている服だったのに。
　そう、2週間前、彼は集中治療室で目覚めた。隣で凛を見守っていた看護婦が、「気づかれましたか？」と言葉を投げかける。凛はぼんやりとした頭で自分が病院に運ばれたことを知ると、ビリビリに裂かれてしまったお気に入りの服を胸元に見つけ、「これ高かったのにな、まあいいけど」とつぶやいた。なぜ裂いてしまったのだろう、ボタンをはずして服を脱がせてくれればよかったのに。腕だって捲り上げればそれですんだんじゃないか。そんな不満を感じた。
　凛は田舎に帰ってしまう前に、自然消滅のように関係が立たれてしまっていた女性にメールを送ったのだった。『最後に会えないかな、僕もう実家に帰ることにしたんだ』と。すぐに彼女からメールが返ってきた。『今、大阪のドヤ街にいるからきなよ』と。
『なんで大阪にいるの？』
『私、家から逃げたんよ。親が精神病院に入れるとかいうから。それで今、昔おせわになった人のところにいるの』
『僕が来てもいいの？』
『うん、いいよ。住所とホテルの名前、教えるね。そこのホテルに泊まりなよ』
『うん』
『タバコ１カートン買ってきてくれない？　アメリカンスピリッツ。あとお金もいるからおろしてもってきなよ』
『わかった』
　大阪に来たのは５度目だった京都に着いてから、すぐに工場は夏休みで、その間、大阪の町を見に行ったことがあった。ピンサロ店で10万円ぼったくられて、逃げ帰った。その後も、クラブでパラパラを踊ってたら3万円のはいった財布を友達にすられたりした。いい思いでは一つもなかった。……凛は教えてもらった住所を頼りに、彼女がいるというドヤ街の薄汚れたホテルに宿泊すると、彼女にメールを打った。『501号室に泊まったよ』『わかった、今からいくから』
　彼女は部屋のドアを開けると、「ひさしぶり」と言った。凛は彼女にアメリカンスピリッツ１カートンを渡した。
「ありがとう。うち、あんま出歩けんねん。ここ女性が泊まったらダメなホテルやから。お金ももってきた？」
「うん、10万円ぐらいもってきた」
　それから彼女が泊まっている部屋に行くことになった。
　凛が、「部屋の人に僕が来るって言った？」と聞いた。
「うん、今出かけてるから」
　エレベーターで下りているとき、凛は誰かが乗り合わせたらいけないと思い、「帽子かぶったら？　そしたら男か女かわからなくなるんじゃない」
　でも彼女はあまりそんなことに頓着していないのか、ただ笑っていた。
　彼女の部屋には覚せい剤があり、すぐに凛に吸うように薦めた。彼女が吸い方を凛に教えてやるといって、まず自分で吸って見せた。4センチほどの長さに切られた試験管。それにコルクで栓がしてあり、硬いストローを差し込んである。中には固形のエフェドリンが入れられていて、試験管の底をライターの火であぶり、溜まった煙を吸い込むのだが、凛の心臓が激しく打ち鳴り、最初のうちうまく吸えないでいると、彼女が、
「ライター、貸して」と言い、ライターであぶってくれた。「試験管を回しながらあぶるのよ、じゃないと、焦げて、試験管がダメになるから」
　凛は夢中で煙を吸っていたが、別段、自分に変化を感じなかった。
「なんともないな」
「そんなことないはずよ。もっと吸ってみたら。私があぶってあげるから」
　彼女はそんなことを言いながら、携帯でこの部屋を借りている男にメールを打っていた。
「ずっとこの部屋にいるの？」
　彼女は夢中で打っていた携帯の液晶画面から、目を離すと、ちょっと決まり悪そうにして、「うん、ここで覚せい剤吸ってるか寝てるだけだよ、そとに出られないから」
　凛は彼女が携帯でどういうメッセージを送っているのか気になったが、そのことを彼女に聞くことは憚られて、
「ここの部屋の人、僕がくるってことになんか言ってた？」何か彼女から探り出したかった。
「いや別に」
「きてもいいって？」
「うん、おとなしい人だから、心配しなくてもいいよ」
　それからしばらくして、男がやってきた。彼は凛を見て、「彼？」と女にたずねた。
「うん。タバコ買ってきてくれたよ。何か景品貰ったんだって、これ」そう言ってアメリカンスピリッツのロゴが入ったカンカンを手に取った。
「それいいね。何かの入れ物になるね」男はそんなことを言った。歳は27歳で、身長は160センチほど、髪を茶色に染めていて、縁なし眼鏡をかけていた。それから彼女に、
「彼、やさしそうじゃん」
　すると、彼女は急に語気を荒くし、「冗談じゃない。私、五万円とられたし、ものすごく殴られたんよ」そんなことを凛の方を見ないようにして言った。凛は心の中で、（五万円は僕が貸してただけだ。それを返してもらっただけじゃないか、それに彼女を殴ったことはない……、でも……、でも……）凛は彼女とセックスしたとき、彼女の両足を開き、動けないように手で押さえ込み、彼女が何も喋れないように、ずっと彼女の口に舌を入れ続けて、何時間も、5時間も、6時間も挿入し、腰を振り続けていたことがあった。彼女は凛の舌を吸い、軽くかみながら、ぐったりとしていた。凛はその時、女性を虐めている快感を味わっていた。だから、その罪悪感は残っていた。（それを彼女が暴力として表現したことは、間違っていないのかも知れない……）それから別の日、嫌がる彼女を無理やり押入れに押し込んで、パンティを脱がせ、強姦したこともあった。彼女ははじめ抵抗していたが、凛の腕力にかなわないことを悟ると、
「ちょっとだけよ……」また何時間もセックスで虐められるのが怖いのか震える声でいい、凛のおもちゃとなった。
　五万円の貸し借りは、休日、突然メールをよこし、訪ねてきた彼女が、「悪いけど五万円かしてくれへん？」
　凛が何も言わずに五万円を彼女に渡すと、彼女は、「ありがとう」と去っていった。
　その日からだいぶたち、凛に急に金が必要になった。それで、『五万円、返してくれない？』とメールを打つと、彼女は、『そんなの借りた覚えがない』と言うだけだ。当然、凛は激怒し、電話で彼女に「金を返せ」と怒鳴り散らした。彼女の旦那が、電話に出てきて、「何をわけのわからないことを言ってるんだ？　いい加減にしてくれないか？」
　凛は酒の酔いも手伝って、「こっちが貸した金なのに、それを返しもしないだけでなく、わけのわからないことをこっちが言ってるってのはどういうことなんだよ！」そう叫んだ。彼女の旦那は、「僕もよく事情はわからないけど、裕美がきみに五万円借りたって言うのか？」受話器の向こうから彼女が、「借りてないわよ！　そいつ酒飲んでるときしか強気になれないいくじなしだから相手にしなくていい！」と叫んでいる声が聞こえた。それから、「わかった。五万円返すから、取りに来い」
「わかりました」そう言い、電話を切ると、彼女の家に向かった。インターホンを押してもなかなか彼女は姿を現さなかったが、彼女の母親がドアを開けると、怒り狂い叫び続けている彼女がいた。
「返さんでいい！」そう叫び続ける。そして旦那が、
「あんまり変なメール送ってこないでくれ。見たらわかるだろう。裕美はこうなってしまうんだから」彼女の旦那が凛に五万円の入った封筒を差し出すと、彼女は、「いっぺんあいつを殴らせろ。思いっきり殴らせろ」そう狂おしく顔をゆがめ叫んでいた。
　少年のような笑顔で、久しぶりに会った彼女を眺めていた凛に、彼女の旦那が、
「もう連絡してこないでくれ。きみも辛い人生を送っているかもしれないが、頑張っていればいいことはあるから」そんなことを言った。

　　　　＊　＊　＊

　凛は、（また彼女の発作だな）と軽く受け流そうとしたが、覚せい剤という犯罪行為が絡んでいるだけに、何か漠然とした不安を覚えないわけではなかった。そして、彼女と男は何事もなかったかのように覚せい剤を吸引しだした。凛もまだもっと吸いたかったが、自分の思いを言い出せなかった。それで彼女たちをずっと見つめていた。まるでこの部屋にいないかのように。
「204号室に監禁されてる女子高生いるでしょ？　すごいわよ彼女。もう家に帰りたくないっていってるんだって。シャブ打たれてるほうが幸せだっていってるわよ。さっきメールしたんだけど」
「へーえ」そして男は、底が焦げ茶に変色した試験管を見つけると、
「これ、きみが吸ったの？」
「あ、はい」
「私が吸わせたのよ」
　凛は、「あとでお金出して、買いますから。僕が吸ったぶんは返しますし……」
　彼女は身を乗り出して、「この子すごいわよ。さっきなんて言ったか知ってる？　僕、買って帰ろうかなって言ってたのよ」
　ドアが開き、また見知らぬ男が入ってきた。その男はがたいが大きく、凛を見ると、脅えるように少し驚き、「びっくりした。誰？　この人は？」と彼女たちに尋ねる。
「私の友達よ」
「姐さんの友達っすか、よろしく」手を凛に差し出した。彼はドアのそばにそのまま寝転び覚せい剤を吸い始め、「きくー！」と叫び、凛をまじまじと見つめ、
「覚せい剤は所持だけで10年は刑務所に入ってないといけないから、絶対に警察に言ったらいけないし、絶対に仲間をうったらいけない。被害妄想が出るから」そんなことを言った。
「私の友達よ、この子すごいわよ。覚せい剤、ぜんぜん効かへんねん」
「ちゃんと吸ってる？」
「ちゃんと吸ってるのに効かへんねん、体質やろうか」
　それから、彼らは覚せい剤の密売人に、1万円ぶんの覚せい剤を届けてくれと電話をかけた。凛も五千円出した。
　それから彼らはぼそぼそと、語り始めた。まるで凛がそこにないかのように。凛のような馬鹿には話している内容などわかりっこないと思い込んでいるらしかった。
　男は夜中に仕事にいかなければならない、などと理不尽なことを言い出し、
「夜にですか？」と凛が尋ねると、
「きみは、明日まで留置所にいないといけないから、退屈だよ」
「なんか、こっち見てるよ、バカが」
「えっ、僕のことですか……」
「何言ってるかわからへん」
「バカだから」
　それから一時間ほどその部屋にいると、どうやらうすうす凛もことの成り行きがわかりだしてきた。警察にマークされている彼らの罪を凛に押し付けようとしているらしかった。
　……それから、それから、男は仕事に行くと言い残し部屋を出、凛と彼女は、覚せい剤をタバコの箱に入れて、凛の部屋に行くことになった……
　裕美は男たちにメールを打つばかりで、凛を無視していた。凛はこうなったらどうにでもなれと、ありったけの覚せい剤を思いっきり吸い込み始め……
　彼女は必死でそれを止めようとする……　そして、あわてて男にメールを打つ……
「彼、仕事いかないで、戻ってくるから！」裕美は叫ぶ。凛は窮鼠猫をかむごとく警察に電話する。「もしもし、僕、今、覚せい剤吸ってます」「なんだって？」
「お前、今から、みんな呼んで、ぼこぼこにすっから」彼女が叫びだすと、凛は逃げるように立ち上がり、部屋を出ようとした。だが、彼女に腕をつかまれた……
　凛はとっさに彼女の顔を殴りつけた、だが、彼女は、予期せぬことにとまどいながら、凛の腕にすがり続けている……　凛は彼女を蹴り倒し、彼女の精神科の薬を奪うと、靴も履かずに、螺旋階段を駆け足で降り、大阪市西成区萩之茶屋の町を、精神科の薬をむさぼり食いつつ、駆け、警察署の前で意識を失った。
　凛は思い出す。彼女がすべてをあきらめたかのように覚せい剤を吸引していた姿を。ライターで試験管の底をあぶっていた姿を。彼女はそのとき、指先にどんな願いを込めていたのだろうか？
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="11494" seq_num="14" title="平日" letter_count="7150" updated="2008-08-28T10:00:38+09:00" published="2008-08-28T10:00:29+09:00">
		<section><![CDATA[　桜の花が咲き誇っているジャガタニ公園を僕らは歩いていた。平日の昼間だったが、公園内はゴザを敷いて花見をしている人々で溢れかえっていた。
「人が多いねぇ」ばあさんが言った。
「ほんと、若い人もけっこういるね。みんななにやってんだろうね」
「そりゃ、休みをとって、じいさんばあさんたちを花見に連れてきてるんやろうね」
「ほんと、暇な人ばっかやね」
　小さな子供は、斜面を走る水の流れていない水路を滑り台代わりにして遊んだり、追いかけっこをしたり、サッカーボールを蹴っ飛ばしたりしている。おばさんたちは、バレーボールの練習などをしている。
「ボールが硬い」
「なに言ってんのやわらかいじゃない」
「そうよ、そうよ」
「あたし腰が悪いから」
「関係ない」
「この提灯がじゃまなんよ」そんな声が聞こえていた。
　それを見ながら、おっさんたちは酒を喰らっている。日差しが強く、帽子をかぶっていなかった僕はすぐに、頭がくらくらしてきた。春の暖かい日差しと、爽やかな風。たこ焼きや、お好み焼き、イカ焼き、カキ氷などを売っている露店も賑わっていた。頭上にはロープが張られ、提灯が何個も付けられていた。夜になれば灯がともるのだろう。
　ベンチに座って弁当を食べ始めた婆さんを残し、僕はさらに坂道を登っていった。崖っぷちまできて、タバコを取り出し一服した。崖下には大きな岩石がごろごろ転がっていて、松林が拡がっている。荒涼としていた。僕が立っているその広場には石のベンチが数個、まばらに設置されてあって、僕は、そのベンチの、
　＿＿＿＿＿＿
　|＿＿＿＿＿｜
　　|_|　　|_|
　　　↑
　矢印の部分に手ごろな石を置き、それをゴールキーパーに見立てて、まつぼっくりをキックして、くぐらせようとした。僕は、頭の中でアナウンサーに実況させていた。
『堤、今のは利き足ではない左足でした。ボールは大きく左にそれました。……さあ、今度は右からドリブルであがっていった。見事なフェイントからシュート！　ゴールキーパーがはじいたボールがゴールバー直撃！』──まつぼっくりが砕けた。──『ああ！　何ということでしょう、ボールが破裂しました！　物凄いシュートです、さすが堤！』
　十数分、タバコをふかしながら、地面を思いっきり蹴りつけてつま先を突き指したりしていると、遠くのほうから話し声が聞こえてきた。僕は、登ってくる彼らをアンニュイな視線で見つめた。ヤンキーっぽい服装をした若い男女5人だった。
「ねえ、いいやん。遊びいこうよ」
「うーん、どうしよっかなー」青い服を着たわりとかわいい女の子が、もう一人いる連れの女の子の顔を覗き見て、
「ねえ、明美どうする？　いこっか？」
「そうねえ……、どうせ暇だしねぇ」
「そうそう！　行こうよ！　いろんなとこ連れてってやるから！　もちろん俺らの奢りだから！」ナンパしているようだった。彼らは連れ立って斜面を降りていった。誰もいなくなった。僕は、「ちくしょう……」とつぶやき、まつぼっくりを崖下に蹴飛ばし、婆さんが飯を食っているところまで降りていった。
『右足を負傷した堤は、静かにピッチを去りました。いやぁ、今日もすばらしい活躍でしたねえ』『ええ、そうですね。黄金の右足が冴え渡ってました。怪我も心配いらないでしょう』と、頭の中で実況中継しながら。
「ちょっと上まで行ってきた」僕はそう言い、ベンチに腰掛けた。婆さんは茶をすすりながら、僕の頭を指差して、
「自分で髪切ったらいけん。耳んとこがおかしい。それじゃ、彼女できんばい。そろそろ彼女を家に連れてこんといけんとやけん。1,200円とか1,300円とかで切ってくれる安いとこあるやろ。あそこで切ったってよか。自分で切るよりよっぽどうまく切ってくれるやろ」
　僕はさっきいた広場をぼんやり眺めながら、
「わかってるよ」とそっけなく答えた。「そろそろ帰ろう」
「じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるけん」
　ばあさんはトイレに行った。僕も男子トイレに入った。小さな男の子に小便をさせてやっている若い主婦がいた。僕はその横で小便をした。何で男子トイレには女性が軽々と入れるのだろうか。それに僕が尿を出しているのが花見客から丸見えだった。僕は性的に少し興奮していた。
「吉男、ちゃんとズボンはかないとダメ！」
「うん、ママ」
「ちゃんとしといたら、あのおもちゃ買ってあげるからね」
「ほんとー！　僕、ロボット二つ欲しいなー！」
　手を洗い、僕は外に出た。花見の期間にだけできている臨時駐車場に停めておいた車の、運転席に乗り込みシートベルトを付け、ばあさんを待った。
『みんな幸せな家庭を築いている。僕はいつまでこうしていられるんだろうか。僕にはもはや幸せになる可能性はないんだろうか。何で僕だけこうなってしまったんだろうか。……頑張るべきときに頑張ってこなかったからこうなってしまったんだ。……もう挽回不可能なんだろうか』僕は花見客を見ながらタバコをふかして、そんなことを思っていた。すると、さっきナンパしていた奴らを見つけた。彼らはジープに乗り込んで、どこかへ走っていった。女が車内で男に、アーンと口を開かせてポップコーンを食べさせてあげていた。幸せそうな人々の中で、僕だけが破滅の道を歩んでいるような気がしていた。
「ごめん。遅くなって。トイレにはちゃんと紙が置いてあったたい。綺麗になっとったよ」
　僕はジャガタニ公園まで山を登ってくるとき、Dにしておいたが、アクセルを重く感じていたので、2速にギアを入れ、山道を降ることにした。
「右、よし、左、よし、ってね、口に出していったほうが安全たい。電車の車掌さんみたいに」
「うん」
「心の中で言ってもよかけど、運転が慣れてないときはそうしとったほうが事故が少なか。しっかりハンドルば握ってね」
「ハンドルは軽く握ったほうがいいらしいよ」
「そうね？　そりゃおばあちゃん知らんばってん」
　カーブの多い山道を降っていた。バックミラーで後ろの車を見ると、おばさんが運転していてぴったりと僕の車の後につけてきていた。僕を煽っているのだろうか。そのおばさんはケータイで電話をしている。急に止まらないといけない時だってある。そのときにぶつけられてしまう。何で車間距離をきちんととらないんだろうか。僕は危なさを感じていた。しばらく走って僕は、狭い道で離合するために車を左端にとめて、反対車線の車を先に行かせた。
「ほら、あの女の子、おじぎしとらすばい。あんたもせんね。そういうのも習ってきとるはずばい」
「うん、習ったよ」
「ちょっと、おじぎがたらんかった。今のじゃ、相手は気づいてなかったばい」
「別にいいよ」
「今の女の子なかなかかわいかったたい。女は愛嬌やけん。顔が美人でもやさしいとは限らん。ばってんが、……顔がぶさいくでも心がやさしいとは限らんとばってんが。一番いいのは顔があんまパッとせんで心がやさしいのがよか。そっちのほうがみんなから好かれる。顔も心も美しかと、ねたまれるけんが、その人は何も悪くなかとに」
「そうかもね」道幅が広くなり、僕の心も落ち着いてきた。「……でも、三年まえには僕がいまこうやって車を運転してるなんて想像もつかなかったんだよ。免許なんて取ろうと思ってなかったから。……でも、僕はいまこうして車を運転してる。三年後はまた今じゃ想像もできないことしてたっておかしくないんだよね。今は無理だと思ってるような生活をしてるかもしれない。完全に諦めてるようなことでも、そのときになったら当たり前のようにできてるかもしれない。何かそんな気もする。……あんま、焦っててもしかたないよ。今できることをこつこつやってればいいんだよ。そうやってて、三年後にも今とほとんど変わらない生活をしてたっていいじゃんか。そうだったとしても、次の三年後目指してまたこつこつやってればいい」
「人生どうなるかなんて今からわからんとやけん、あんたもきちんとしとけばよか。いつ幸せになれるかわからんとよ、ほんとやけん」
　それから30分ほど、車を走らせていると、市街地に出た。ばあさんが買い物をしたいと言ったので、僕はスーパーマーケットの駐車場に車を駐車させた。
「あんた、タバコの本数が多かよ」
「そうかなぁ」
「電話ば待っとるけんやろ。せっかく見つけてきたバイトやけんね」
「七日後に採否の決定があるって紙に書いてあったんだよ。今日なんで、もうそろそろかかってきてもいいと思うんだけど」
「別にそこじゃなくたってよかとじゃなか。何回断られたってよかっちゃけん。そんな悩まんほうがよかよ」千円札を渡された。「これで好きなお菓子とかジュースばこうてこんね」
　僕らはスーパーマーケットに入り、それぞれの売り場へと別れた。文房具を見ていたが、別に買いたいものはなかった。それで店内をうろうろうろつき始めた。
「安いよ、安いよ」
「安くないよ」おばさんが言った。「高いよ」
「そんなことないよ、奥さん。安いよ」
　魚屋の前に、発泡スチロールの箱に入れられた、まだ生きている伊勢エビが、おがくずにまみれて、足や触覚を動かしていた。もがき苦しんでいるんだろう。数日前までは気持ちよく海の中でやってたんだろうが、今は台所に連れ去られ、包丁で切られたり熱湯の中に放り込まれる運命なんだ。僕だって、そうならないとも限らない。今はこうやってのんきに買い物してるけど。
「安いよ、安いよ！」
「安くないっていってるでしょ」
「奥さん、安いっていってるでしょ！　値札見てくださいよ、これ以上安く売れないってまで安くしてるじゃないですか！」
　35歳前後のおばさんだった。髪を茶色に染めているが、とても気品がある顔立ちをしていた。どこかのマダムだろうか。全身を黒い服で着飾って、色白の肌に紅色の口紅がとても映えていた。
「じゃあ、半額にしますよ！　それならいいでしょ！」
「そうねえ、それならいいわねぇ」
　その声を聞いて、数人の客が魚屋の前に集まってきた。僕は不意に背後から声をかけられた。ばあさんだった。
「鯛の煮付けをしようと思っとったとやけど、なか。あんた山芋ば食べるやろ」
「うん」
「じゃあ、それば買って帰ろうか」
「うん」
　レジを済ませ、僕らは駐車場に出た。
「電話かかってこんとやろ、もう。自分からかけてみらんね。面接して、また電話がかかってくるってふうになっとりましたけど、かかってこないんですが、どうなっとりますかって」
「うん、また探すよ」
　車を発進させるとき、車の前を、買い物帰りのマダムが駐車場へと道路を渡っていった。彼女の買い物袋の中に、ビニール袋に入れられた伊勢エビがいた。僕は彼女をチラっと見た。彼女はずっと僕を見つめていた。
　僕は自宅まで、車を走らせていった。日差しが強くなって、運転しにくくなった。今日もなんら僕の人生は発展しなかったな、と感じていた。タバコを取り出し、ライターで火をつけた。それからすぐ、僕は赤信号で止まった。運転疲れで顔を上気させながら。
　家に帰り着くと、僕は睡眠薬を飲んで、夜の8時には眠ってしまった。石油ファンヒーター側へ足を投げ出して眠っていたが、タイマーをセットしていなくても、『換気』と表示され、いつも夜中に止まってしまう。案の定、深夜2時頃に寒くて目が覚めてしまった。ちょっと開けていた窓から冷たい冷気が入り込んできていた。僕は明け方まで目をつぶったりして、何とか眠ろうと努力しながら時間を過ごした。
『七日、たっても連絡がこなかったな。今日はこっちから電話をかけないといけない。でないと次の行動に移れない、なかなか電話しにくいから、図書館で図書カードを作るという冒険をしてから、そのあと電話してみよう』僕はそう思った。
　昼過ぎにバイクで家を出た。自販機でタバコを買って、喫煙所でゆっくりとタバコを吸いながら缶コーヒーを飲んで、そうやって脳を覚醒させてから司書に話しかける予定だったが、ライターを忘れていることに気づいて、コンビニに行くことにした。だけど、店内に入ってしばらく探したが、ライターが売っていない。全部の棚を見て回ったが、やはりなかった。僕はあきらめてタバコだけを買うことにし、1㎎のタバコを手に取ると、レジに持っていった。──レジの向こうにライターが並べられてあった！──僕はタバコを手渡しながら、
「ライターいいですか……」と、小声でボソッと言った。
「ライターですか、はい」
　チラッと店員の顔を見ると、おばさんだったがものすごく品があって、美人だった。
「色は何色でもいいですか？」
　僕は声を出せずに何度もうなづいた。店員はライターを持ってくると僕に見せ、
「これでいいですか？」と、尋ねた。僕は大きくうなづいた。──ああ、僕はこんなことで図書館でまともにしゃべれるのだろうか……、だけど、いいんだ、図書館に行く前に一回しゃべったから、いい練習になった──、そう思ってみたが、バイクを走らせているとだんだん不安になってきた。図書館の駐輪場にバイクを停め、二階へと階段を上っていった。入り口前に、天井の付いた喫煙所があって、ベンチが四つ並んでいる。僕は缶コーヒーを自販機で買い、ベンチに座った。タバコを取り出し吸おうとすると、すぐに、斜め向かいのベンチに座っていたホームレス風のおじさんが、
「いいタバコ吸ってるね」と、話しかけてきた。
「はい」
　おじさんは若葉を僕に見せ、
「俺は170円のタバコ吸ってるよ。そんな高いタバコ吸ってたら金たまらんやろ」
「はい」
　それから僕らは無言でタバコをふかし始めた。僕が二本吸うと、おじさんは図書館の中に入っていき、入れ替わりにおばちゃんのような髪型をした僕と同い年ぐらいの女性がそのベンチに座って、菓子パンを食べ始めた。僕は彼女をあえて見ないようにしていた。そして、もう一本だけタバコを吸おうと、火をつけた。
『僕はコンビニでしゃべれなかった。それは店員が美人だったからだ。白痴でムイシュキン公爵が言ってたけど、美人というのはそれだけで力があるんだ。それで僕はその力にのまれてしまったんだ。……いや、知らない。ただ僕は美人とは緊張して話せないんだ。本当にこんなことで仕事ができるんだろうか。でもいいんだ、どもったっていいんだ。現に僕は今、ライターを手にしているじゃないか。結果がよければいいんだ。内容はどうでもいい。僕はライターを手にした。それでいいんだ。うまくしゃべれなくたっていい。15分後、図書カードを持ってかえってきて、それを眺めながら、ここでタバコをふかして勝利の余韻にひたれればいい』警察署の駐車場に車が入っていくのを喫煙所のベンチに座って、眺めおろしながら僕はそんな決意をした。僕は席を立つ前に胸ポケットからポケットティッシュを取り出し、女性の前で鼻をかんだ。少し、はしたないふるまいを他人に見せることで、内心の緊張を抑えようと思ったから。僕なりにちょっとだいたんに振舞ってみたつもりだった。──ティッシュをくずかごに投げ捨てると、館内に入っていき、入り口近くのトイレに、まず、入って、小便をした。「よし」と小さく言ってみた。そして、手を洗いながら、自分の顔を鏡で見た。普通だった。だが、僕は、
『変でもいい。変な奴なんてこの世にいっぱいいるんだ』そんな事を思ってみた。
　トイレを出ると真っ直ぐに、本を借りるところへ行き、パソコンに向かい合って座っている女性に、
「図書カードを失くしたんですが……」
　女性は何か呆気にとられたような顔をして、
「こんにちは、……再発行ですか？　60円かかりますが……　あちらのカードを発行するカウンターで申し込んでください」と言いながら、腕でその場所を指し示した。僕は、そこへ行き、
「図書カードを再発行してもらいたいんですが」
「こんにちは。そちらへおかけください」
　僕は座り、差し出された紙切れに住所と氏名を書き、「これでいいですか」と渡した。
「住所が変わられていますね」そんな会話をしながら、新たな図書カードが作られていった。その女性は40歳ぐらいだったが、かなりの美人だった。だが、コンビニの時とは違って、僕はうなづくことはなく、必要最低限のことはきちんと話すことができた。それから僕は本を30分ぐらい立ち読みし、図書館を出た。鼻水が我慢できないほどに出かかっていたので。
　自動扉が開くとともに鼻をかみながら、喫煙所に歩いていき、またくずかごにティッシュを放り投げた。やるべきことをやり終えた満足感の中、タバコをふかしていたが、この勢いにのって全部やり終えてしまおうと、面接に行った会社に電話をかけた。女性が出たので、僕は担当の人を呼んでもらった。
「副社長に言ったんですが、連絡が遅れたのは、今はまだいいらしいっていうことだったんで、また、この次の機会でよろしいですか。すいません」と、その人は言った。
「はい、わかりました」
　電話を切ると、僕はまたタバコに火をつけた。それから、
『しかたない、けっこう頑張った』僕はそう思いながら青空の下、駐輪場へと階段を下りていった。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2843" seq_num="15" title="ナンパ" letter_count="3248" updated="2009-01-28T16:25:23+09:00" published="2008-02-06T03:59:42+09:00">
		<section><![CDATA[（自分ちのマンションが小さく見える。あそこにいま僕はいないんだな。ぐるぐる回ってるからいないんだ。僕は今ここでぐるぐる回っている。降りてはまた金を払い、ぐるぐる回り続けている。
　いつまでぐるぐる回っているんだろうか。恐怖も感じる。僕は高い、高すぎるところまできてしまっているから。揺れているし。横に。揺り篭のように。ギシギシと音を立てて。老朽化してるんじゃないだろうか？）
　青、赤、黄色、緑、オレンジ等のケバい原色に彩色されたボックスが山の上の動物園で回っていた。志岐一平しかボックスの中には入っていない。平日の昼間の動物園。その一角に占められた子供用の遊園地なのだ。
（こうして一人、観覧車の中に座っていると僕は自分の人生について考えなくなる。部屋にいても、町を歩いていても、いかなるときも僕の頭から離れることのない苦しい想念から開放されるんだ。悩みを消すために僕はこうして、たまに観覧車に乗る。僕は高所恐怖症の臆病者だ。だから観覧車に乗ると恐怖心しか感じなくなる。特に一番てっぺんまで上がってから下り始めるときが怖い。錆びた鉄を見つめていると恐怖心はどんどん増していく。でも僕はあえて地上を覗き見る。恐怖心が最高潮になれば、日ごろの悩みを完全に忘れてしまえるから。そして、恐怖心だけになったら、僕は中学校のころから愛し続けている女の子のことを考える。ちょうど観覧車がてっぺんまできたら、彼女が住んでいるマンションが見えるんだ。そのとき僕は何だか彼女とまた再会して、笑いあえるような、そんな気分になれる。万が一の事故が起こらないとも限らないなぁ、とか、今、阪神大震災クラスの地震が起こったらどうなるだろうか、なんてことも考えちゃうんだけどね）
（あいつ……ちょっと、おかしいんじゃないか？　なんで、一人で観覧車に乗るんだろう。それもほぼ毎日やってくる。一回乗るだけでは飽き足らずに、何度も乗りやがる。
　もしかしたら、向かいの売店の洋子ちゃんに惚れているのかも知れないな……、だけどあんな不細工な奴が相手にされるわけないだろう。でも、何が起こるかはわからない。早く洋子ちゃんをデートに誘っておかないと、……あんなにしつこく観覧車に乗る男だ。洋子ちゃんにもしつこく迫るかも知れない。それに洋子ちゃんはうぶそうだし、押しの強い男に弱いんじゃないか。あいついつも売店で用もないのにうろついてやがるし……）
　動物園でアルバイトをしている横田聡史は菅野洋子に惚れていた。彼女は聡史とほぼ同時期にこの動物園で働くようになったフリーターで、顔はあまりパッとしなかったが、おどおどしたような態度が聡史のハートを虜にしていた。それに、スタイルはまあまあで、今時の女の子には珍しく髪を染めておらず、その素朴さは聡史にとって、かけがえのない目の保養だった。動物たちの排泄物。臭い匂いが流れてくるこの職場は彼女に似合っていた。ブランド物に身を固めて、おしゃれなカフェで友達と待ち合わせをする、そんな外見のみを着飾る中身のない女たちとは違い、彼女には心のやさしさが感じられた。
（どうしようかな……。また乗ろうか。……もう五回連続で乗っているからな、……次、乗るならまた回数券を買ったほうが安上がりなんだけど、それだと残った回数券ぶんも乗らないといけないことになるしなぁ。回数券を明日も使えるようなシステムだったらいいのにな。なんで本日に限るんだろうか。
　まあ、ちょっと、ベンチに座ってタバコでも吸うか）
　一平を乗せているオレンジ色のボックスが下まで戻ってきた。聡史が慣れた手つきで動いているボックスのドアを開けた。
「ありがとうございました」
（って、何度言わせれば気が済むんだよこいつは。どうせまた乗るんだろてめえ。あれ、あいつ今日はもう乗らないのか、……ああ、タバコ休憩か……、俺がタバコ吸いたくても我慢してるってのによ……、ひきこもりが……、働けやてめえ……）
　昔、動物が入れられていた檻があって、今はそこには動物は入っていない。鳥類を入れていたような檻だ。その手前に木製のテーブルが設置されている。昨晩降った雨が木に染みこんでおり、ぬめっとしていたが、一平は気にすることもなく腰掛け、胸ポケットから赤ラークを取り出し火をつけた。
　この場所を一平は気に入っていた。観覧車乗り場から20メートルほど離れているだろうか。この休憩所まで来るには、傾斜している草むらを登らなければならない。丸太で出来た階段があることにはあったが、もう当初の原型は留めておらず、大部分が土砂に埋もれてしまっていた。隣接するように動物園を囲う柵があり、市民プールを見下ろすことが出来たが、この季節にプールを利用しているものは、当然、一人もいなかった。
（昔、あそこで泳いだな。夏休みだっけ、友達と7、8人ぐらいで泳ぎに行ったな。小学校の高学年の頃で、女友達も3人ぐらいいてさ、けっこうくだらないことも言い合ってたな。みんな何してるかな。今の時間だったら普通に大学とか行ってたりするんだろうな。……楽しいだろうな
　なのに僕はこんなところで何をやってんだろうか……）
（あいつまた戻ってきやがった。また乗るんだろう。平日の昼間にはやってくるのに客が多い土日にはきやがらん。人が苦手な奴なんだろうな。ここはお前の療養所じゃないっつーんだよ。あっ！　あいつ売店に行きやがる。くそが！　お前は観覧車に乗ってればいいんだよ！　洋子とかかわるな。くそが。キモいんだよてめえ！）
「いらっしゃいませ」
「あの……乗り物回数券を二千円分……」
「はい、どうぞっ」
「あ、あと……、赤ラーク……」
「はいっ。これでいいですか？」
（いや、ロングがいいんだけど、まあいいか……）
「はい……」
「ありがとうございました。またいらしてくださいね」
（なんてかわいいんだろう……、何か話しかけてみたいな……。気軽に……）
「あの……」
「はい？」
「こんど一緒に観覧車に乗ってもらえませんか？」
「えっ！」そう言って洋子は頬を赤らめた。
「いやならいいんですけど……」
（やだ……どうしよう。私がずっと見つめてたのに気づかれてたんだ……）
「あの、観覧車お好きなんですか？」
「ええ、……好きと言えば好きなんですが、……一人で乗っててもあんま楽しくないんですよ……」
「えっと、……日曜日でよろしければ、あいてますけど……」
「えっ、ほんとにっ！　いいんですかっ！　一緒に乗ってくれるんですか！」
「ええ、こちらこそ誘ってくれてありがとうございます。私も毎日退屈してたんで。でも、遊園地に行きましょうよ。こんな動物園の観覧車じゃなくて」
「うんっ。そうしましょう。じゃあ、僕、観覧車のってきます」
「うん、私、見てるわ。帰るとき電話番号交換しましょうね」
「うん、うん。じゃあ、あとで……」
（ちくしょう、あいつ何はなしてやがんだ糞、鼻垂れ！　うんこ！　チンカス！　下種野郎！　あっ！　しゃあしゃあとこっちきやがった！　絶対文句言ってやる、てめえ許さんぞ！）
「あの、乗ります……」
「乗りますじゃねえよ、何はなしてたんだよ」
「えっ……」
「売店の女の子と話してただろうが」
「えっ……」
「えっ、じゃねえよ」
「い、いけませんか……」
「女たらしこんでんじゃねえよ」
「僕、帰ります……」
（ああ、あの人、絡まれてる！　私が助けてあげないといけないわ！　あんな人いじめるなんて最低だわ！　あの人は私の彼氏よ！　変な言いがかりつけたら承知しないわ！　絶対に許さない！）
　制服のスカートを跳ね上がった泥で汚しながら、無我夢中で、洋子は駆け出していた。
「何やってるの！　よしなさーい！」

　日常生活を打破しろ！　おまんこしたいなら…… 　
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2847" seq_num="16" title="変な涙" letter_count="4407" updated="2008-09-21T08:28:22+09:00" published="2008-02-06T04:05:10+09:00">
		<section><![CDATA[　　　１

　僕は珍しく緑色した自動販売器の前に立ち止まった。コーラを飲むつもりなんだ。自動販売機はところどころ錆びついていて、くすんだプラスチックケースに蛾の死んだのが、いっぱいいる。横を流れるドブ川、虹色の油が浮かんでいて、石に絡みつきながら、ゆっくりと流れていった。油を見ていると泣き出したくなって、しわだらけの紙幣を何とか入れてしまおうとしていたが、何度やっても戻ってきてしまう。タバコの火を押し付けられ丸い穴がいくつかあいているプラスチックケースに、白い腹を、ねっとりと押しつけて、蛾が張りついたまま動かない。僕が仕事で苦しんでるときも、この自動販売機で蛾はずっと身動きが取れないままでいたんだろう。けど１cmや２cmぐらいだったら動いたことに気づかないよね。僕は昔からくずれてしまったものに興味はなかった。だから、自分が望んでいた夢がくずれてしまった今、自分の人生に興味がなくなってしまった。もう修復不可能なものは諦めてほうっておくしかないんだ。僕は惰性のまま生きている。何もいいことなんて起こらないことはわかっている。無気力で、倦怠感に見舞われながら、瞬間、瞬間を何とか耐え忍んで、やり過ごして、日々を送ってる。でも、僕はまったく人生に打ちのめされてしまったわけじゃないよ。すべてを変えることはできない、でも少しだけでも今の生活を変えたい。日常を。だってそうだろ？　この僕があいつらに比べてどれほど劣ってるというんだ？　リンゴ何個ぶん劣っているっていうんだい？！
　十三年前、僕は中学校のすぐ目と鼻の先にあるアパートに住んでいた。僕は中学校三年生だったけど、学校には行ってなかった。中学二年の二学期から一日だって行ってなかったんだ。登校拒否してたんだ。怖かったんだ。学生服を見るだけで怖かったし、二階に上がれなかったんだ。教室に行こうと階段の前には行くんだけど、見上げると、物言わぬ壁がぬっとたってて、それが僕がいじめられてても黙って見てみぬふりをしているみんなの象徴みたいに思えて、足が動かなくなる。僕は靴箱のとこまで戻って、教室に入ろうか、それとも家に引き返そうかって迷って、結局、遠回りして家まで帰ったよ。藪の中をわざととおっていったりして、体中、傷だらけにしてさ……　木造アパートは中学校を囲む塀のすぐわきに建ってて、二階の窓から僕はよく同級生たちを盗み見ていた。カーテンで僕の姿を隠しながら、目だけだしてね。もし願いがかなうなら僕はあの頃に戻ってみたい。別に、人生をやり直したいってわけじゃない。その頃に戻って、もっと勉強を頑張って、もっとたくさんご飯を食べて、運動して、背を伸ばして、とか……、そんなんじゃない。ぜんぜん違う。僕は自分から人に話しかけたりしない生徒だった。コンプレックスに邪魔されてね。そんな自分を一日でいいから変えたいんだ。僕の行動によって他の生徒たちがどんな騒動を起こそうと、いい。どんなに奇異の目で見られようと、いい。みんなが凍りついてしまったって、いい。凍りついたみんなの視線がいっせいに僕に集まろうが、いいんだ。そんなことはどうだっていいんだ。僕はナーバス・ライフな人生からはもうおさらばしたいんだ。
　
　　　２

　ナットを溶接冶具の底にセットして、その上にL字型のプレートブリッジという鉄でできたもんを乗せて、クイズ番組で使うような大きなスイッチを押すと、スポットがズドーンと降りてきて電流が流れ、ナットがプレートブリッジにくっ付く、できた製品は、左手でちょっとはねて、滑り台になっている器具に落として、コロコロ転がってって、プラスチックの容器に溜まるようになってるんだ。今日、僕が作る製品はこれで、一日で、３千個作らなきゃならなかった。ナットもプレートブリッジも小さい上に、安定性が悪くて、乗せにくい。だからこれを作るときはいつも両手素手でやってるんだけど、ナットが溶接されたところはものすごく熱をもってて触ると火傷してしまう、手は油まみれだから、持ちそこねたり、はねそこねたりすると、一日中、火傷の痛さに苦しむことになる。この工場で働き始めてもう数ヶ月になるからだいぶ慣れてて、どんどん製品を作ることができるようになってはいるんだけど、慣れたら慣れたで、なんだか単純作業をしていると退屈になってくるんだ。頭ん中で音楽を流してたりして暇つぶししてたけど、この頃は、溶接冶具の底を見つめるようになった。何でかというと、溶接冶具の底の部分に電流が流れると、銅でできてるその底の表面の色が少し滲んだりして、人の顔のように見えてくるんだ。はじめはキリストやジョン・レノンのように見えていた顔も、どんどん溶接していってると、だんだんモナリザみたいに見えだして、僕はそんな偉人たちの顔の上にナットを置いてスポット溶接していることが、ちょっと、悪いことをしている気分になってくる。でも彼らはすごくやさしくて、いつも僕の良い話し相手になってくれるんだ。
「そんなに悩むことはないよ」って最初、喋りかけられた時はビックリしたけど、でも、少しは心の準備はできていたかな。雨の降ってる日で、昼ごろだったかな、僕が溶接してると、だんだんジョン・レノンの口が開き始めて、何か言い出しそうになってたんだ。でも、溶接を続けてるとまた彼の口が閉じてしまって、目だけは真剣な顔つきに変わってしまう。その目は僕の心の中を見透かそうとでもしているように、細められ、僕はすっかり上気してしまったよ。なにはともあれ、その日から数日後、ジョンは僕に話しかけてくるようになったんだ。気さくにさ。
「お前いつまでこんな仕事、やってるつもりなんだ？」
「さあ、わからないよジョン。僕だっていつまでもこんな仕事していたくないよ。だって、こんなとこで働いてたって時間の無駄みたいなもんでしょ？　なんの出会いもないしさ。ただどんどん時間がたっていって、月日がたっていって、歳をとってくだけだよ。なんのために僕は生まれてきたんだって思うね」
「もうきみの幸せな季節は終わってしまったんだよ」
「なに言ってるんだ。僕が幸せだったときなんてありゃしないよ」
「……ほんとになかったのかい？　俺はあったと思うよ。でもきみはその時代を無為に過ごしてしまったんだ。時間が無限にあるときみが思ってた時期はもう終わってしまったんだ」
「そうかも知れない。……もう、僕が幸せになることなんてありはしないんだ……」
「一日だけなら、一日だけならきみを、きみが輝くべきだった頃へ戻して上げられるよ」
「……なんだって？」僕は彼の言っていることを、とっさには理解できなかった。
　その日の会話はこんなふうにして始まったんだ。その日、僕は一日中悲しかった。胸がぎゅっと押しつぶされてるみたいで、なんていうのか、ポカーンと胸に穴が空いてるみたいだった。その空いてる穴がくっつこうとしてるみたいで、ぎゅっ、ぎゅっ、って締め付けられるんだ。一歩間違えて、油断したら、泣き出してしまいかねない気分だった。
「ジョン、さっきなんて言ったんだ、もう一回言ってくれよ」
　だけど、ジョンはもう口を開かないばかりか、僕がスポット溶接し続けていると、ジョンの顔が浮かんでいた丸くて、小さな銅の表面が溶けていって、泥水のようなんが、少しずつ溢れてきたんだ。そして、ジョンの顔はキリストの顔に変わってしまっていた。赤茶けた水はあふれ続け、キリストが血を流しているようで、僕はとまどってしまった。そのとき、僕は背後から声をかけられた。
「堤！　だめじゃないか、水を出さないと！」班長だった。
　僕はハッとして、本当に水を出してなかったか確認した。たしかに班長の言うとおり、水を出していなかった。僕はしょげたし、また失敗してしまったことで、自分がなんでこの工場で働いているのかってことに意義を見出せなくなってしまった。だって、不良品ばかり作っていたら、工場は儲からない。それなのに給料を貰ってるってことが、心苦しくなるだろ。僕はここにいないほうがいいんじゃないかって。みんなだってそう思ってるんじゃないかって。冷却水を出さずに製品を作ってしまったのは一回や二回じゃないんだ。何回もやらかしちまってるのさ。
「智彦くん」イエス・キリストが僕に始めて語りかけてきた。班長に睨まれながら怒鳴られて、緊張していた僕は、キリストの顔に釘付けになってしまった。
「堤！　聞いてるのか、よそみしやがって！　何回同じミスすればわかるんだよ！　毎日おなじやってんのに、なんでちっとも仕事を覚えないんだよ！　こんどやったら殴るぞ！」
「黙っててくれないですか！　イエス様が僕に話しかけてくれてるんだ、黙っててくれないですか！」
　班長は驚いて僕の顔を見つめたままだ。僕が彼にこんな口をきいたのは４ヶ月間働いていて一度だってなかったから驚くのも無理はなかった。僕だって、叫んでから少し後悔したよ。でも、もう後へは引けないと思った。
「智彦くん、それでいいんだよ。そんなやつはほっといていいんだ。そんなことはちっとも大事じゃないんだよ。きみにとって大事なのはきみの心の状態だ。きみは不幸な中学校生活を送ってしまった。そのことが今でもきみの心の中で暗い影をひきずっている。だからきみは一度、その頃へ戻らなければいけないんだ。これは私だけの意見じゃない。ジョンも毎日きみを見ながら同じことを思っていたそうだよ。智彦くん、さあ、私の顔を人差し指で触れるがいい。その瞬間きみは13年7ヶ月前に戻ることができる。さあ、何をためらっているんだ、触れるがいい。先カンブリア時代から地球だって人間だってたいして変わっていないんだ、私たちは太陽から生まれたんだから」
　それでも僕はためらった。昔に戻ったからといって僕に何ができるのだろうか。それもたった一日だけ……
「堤！　俺に向かってそんな口をきいて、てめえわかってんのか？　クビだ、お前なんか首だ！　とっとと……」
　班長がそう叫んだとき、僕は意を決して、キリストの顔に触れてみた。熱かった。冷却水を出さずに打ち続けた銅は、熱いなんてもんじゃなくて、僕の人差し指の腹は、銅に一瞬くっついたあと、手を放したら、皮膚がめくれてとれちまった。僕はやけどしちまったんだ。
「熱い、熱い！」叫びまわりながら、僕はしばらく人差し指を見つめていた。赤く爛れてしまっていて、皮膚がはがれて爪の先からぶらさがっていた。そして、僕はもう工場にはいなかった。昔、住んでいたアパートの2階の四畳半の部屋にいたんだ。目頭が熱くなって、僕のほほを涙がつたった……　懐かしくって、懐かしくって、どうしようもなかった……
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="23544" seq_num="17" title="靴" letter_count="5785" updated="2009-06-04T01:49:53+09:00" published="2009-05-30T19:47:26+09:00">
		<section><![CDATA[　絨毯のようにぶ厚い、真紅のカーテンがだらんと無造作に垂れ下がったこの小ホールで、今日もまた観衆を前に、あかづきが酒を飲んでいた。　
　昨夜、一人の男を殺しそこなって帰ってきたのである。その殺されそうになった男は重い鎖を巻きつけられて海の底に捨てられた。死んだフリをするのが大変そうだった。生きているのがバレたら本当に殺されてしまう。が、鎖を巻きつけられているのだ。この状態のままでも溺れて死ぬに違いなかった。それでもじっと死んだフリをしていた。あかづきは男の心理がわかっていた。海に沈めなければならなかった。だが、その死んだフリをしていた男は海に投げ込まれるやいなや、得意の縄抜けの術でするする鎖の束縛から脱すると、荒波の中を平泳ぎで沖のほうへ泳いでいった。どうやら奴は生き延びそうだった。あかづきは追う余力もなくなっていて、なんとか、木船を波止場まで戻すのが精一杯だった。
「ボートでくればよかった……」と、言いながら。
　黒猫が天使に囁いていた。
「あかづきはまた失敗したようだね」
　と。
　天使は、「いつものことさ」と、鼻で笑う。「たらればばっかしだ」
　昔、あかづきはこの舞台で、この小ホールの支配人に騙されて、
「お前は世界一の歌い手だ」と、そそのかされて、その言葉を真に受けて、オペラを歌っていた。この小ホールの勝利者には美女からの祝福の口付けが授けられると聞かされているが、あかづきはこの小ホールでどんな試合が行われているのかまだ把握していなかった。そのこともあって、あかづきは自暴自棄のように酒を飲みまくるのだった。もはや諦めてしまっているのだろうか。
「いや」と、あかづきは考え込む。「この俺を目当てにきているのだろうか？　何のパフォーマンスもしなくなったこの俺を目当てに？　だがそれにしてもやつらはなんであんなに静かにしているんだろうか？　ここを互いの社交の場としてきているのではない。出入り口でやつらに会っても、やつら同士では何も話していない。やつらは赤の他人同士なのだ。俺に軽い会釈をしてくる。その態度はこの小ホールの舞台上で俺が暮らしていることを知っている姿だ。俺をじっと見つめている。何か言いたそうに。俺の生活を暮らしぶりを知っている目だ。おそらくは。……やつらはこの場所を休憩所かなにかのようにして利用しているのだろうか、なら、何のパフォーマンスもしない俺はやつらにとってはうってつけの演者なのだろうか。いや、そもそも俺がいようがいまいが関係ないのだろうか。……俺がここにいなくてもやつらは絶え間なくこの小ホールを埋めつづけるのだろうか。俺の存在の有無などささいなことで、俺がいてもいなくても……」
　コンビニで買ってきた弁当をレンジで温めて待つ間に、あかづきは迷っていた。自分のことを。自分の将来のことを。音響のよい小ホールのしんとした空間に弁当が温められたことを告げる音がした。突然やるせなさに見舞われたあかづきは、たまらず、たえまなく席を入れ替える観衆に向かって指を突きつけ、叫んでいた。
「いつも、いつも、なに見てんだよ！　あなたがたはなぜここにおられるのですか？　ファックユー！」
　だが、観衆はノーリアクションで佇んでいる。咳払いひとつするのにもためらっている様子なのだ。
　たまりかねた黒猫が路地裏で、「あれてるねまた」
「頭がおかしいんだよ」と、天使。
「おいおい、見たまんまのこと言いっこなしだぜ、なんの工夫も風情もないじゃないか。風貌のことはねえ言っちゃだめだよ」と、黒猫がなだめる。「あかづきだって好きで中枢神経やられてないさ」
　天使が決まり悪げに、
「やや、これは俺が悪かった」
　あかづきはぐったりと虚脱したまま木のテーブルに体を預けていた。バックにオーケストラの楽団を従えているのだ。観衆は静かにあかづきを見守っていた。
「俺は何かをアピールすべきなのだろうか？　なぜ俺の背後に楽団なぞがおるのだろう。この机の引き出しの中に指揮棒はある。１０年ほどくらい前、よく指揮していたものだ。華麗に。きらびやかに」思わず目頭が熱くなった。「俺が刻むよんぶんの2拍子のリズムによって、オーケストラがいろんな、……交響曲からアニソンまで幅広く演奏したものだ。おけさ音頭もやった。俺のよんぶんの2拍子で。……曲が終わると、まばらながら拍手がまきおこった。そうだ。やつらの中にはこの俺のパフォーマンスを喜びはしないにしても完全に拒絶はしていないグループもいるのだ。もしそれが聴くに耐えるみごとなものであったならばおざなりにも拍手することをいとわないグループもいるのだ。……昔のようにオーケストラの演奏をバックに、踊ってもやつらは驚かないのかも知れない。いや、それを待ち望んでいるのか？」
　あかづきはちらりと観衆のほうへ視線をやる。
「いや、やつらはもう昔のやつらじゃないんだ。やつらは常に同じやつらで構成されているわけじゃない。分刻みで入れ替わっているのだ。変わらないのは俺一人だ。いや、俺も変わったが。もし、昔の俺を望んでここに足を運んでくれた人たちがいたとしても何の芸も見せなくなたことにもはやすでに愛想を尽かしきっているに違いない！　ああ！　昔のやつらよ！　同じやつらがずっといてくれてるなんてことは確かに不自然なんだよ、ここに住んでいるということしか今きてるやつらは俺について知っていないんだ、俺が歌った歌、そのひとふしすら知らないで座ってやがるんだ！　俺はただ飯を食い、眠り、素の俺を見せているそれだけの奴だと思われているのだ」
　そして、後ろを振り返り、
「奏者にしてもそうだ。むかし知っている顔がない。はじめて見る面々ばかりだ。待て、こうして奏者の顔をまじまじと見るのも何年ぶりだろうか。一度、千摺りしていた時、それを俺のよんぶんの2拍子と勘違いしたカスタネット隊とオーボエ隊が踊るぽんぽこりんを演奏し始めて、それが俺のよんぶんの2拍子ではなく覚えたての千摺りだと気づいて途中で演奏をやめて気まずい覚えをしたあのハプニングの日以来、俺はやつらの顔をまともに見ることができなくなってしまって、しかし……、あの端っこにいる娘はどう見てもまだ１０台だ。俺が歌って踊っていた頃にはまだいなかったはずだ。生まれていなかったかも知れないぜ。なぜ、年端のいかぬ子供がこんなところに？　なぜこんな黄ばんだ大人たちのあいだに混じらせているのか！　まっさらな純粋な子どもを、こんな、けだものたちのあいだに！　ハープを大事そうに抱えてやがるぜ！　かき鳴らすことにはなりはしない重い重いハープを！　……それは俺の罪なのか？」
　天使が、
「そりゃあいつが悪い」
　黒猫が、
「あの娘は演奏したいんだよ。毎日、今日こそはと張り切ってここにきてはその幼い願いを裏切られ小さな胸を悲しみの藍色で染めつ、とぼとぼと帰ってんだよね」
「そうともさ。みんな演奏する気まんまんでやってきてるんだ。楽団員は夜の７時から９時までの２時間のショウ・タイムのために遅れずにやってこなきゃならないし、生活を賭けて練習してやってきているんだ。演奏もせずに金だけもらえないといって受けとらない人も多いんだよ」
「こいつらは」あかづきは観客を見おろし、「こうしてここにいる。俺を見あげている」
　彼らは背筋をピンと伸ばして聴く体制で座っている。くつろいでいる雰囲気は微塵もないのである。何か些細な事でも見逃すまいと、かすかな物音でも聞き漏らすまいと身構えて、あかづきを注視しているのだった。
　だが、翌日の早朝、あかづきは靴磨きに出かけなければならなかった。それが彼の唯一の収入源なのである。そして日々の糧を得ては観衆の前に戻ってきてひとり酒を飲むのであった。くる日もくる日もあくる日も皆の靴を磨いていた。おもな客層は電車に乗りこみ通勤するサラリーマンたちだった。そのためあかづきは彼らが始発の電車に乗り込む前に駅前広場に、まだうす暗闇の空の下を、出向いていかなければならなかった。それがため早寝早起きに関してはこの世の者であらざるがごとく体得していた。
「明日も早い。もう一升飲み干してから、横にでもなるか」
　そして、記憶に残らない夢を見て、
「寝坊しやがったぜ、あいつ」と天使。
「いや、やつは走るよ。いつもの時刻には駅前にいってるだろうね」と黒猫が物知り気にいう。「あかづきが出かけてからトランプでもしようぜ」
「トランプか、たまにはいいかもな」と天使。
　天使と黒猫が遊びに打ち興じているあいまにも、いつものように、だけど、遅れたぶんを取り戻そうと広間の入り口に陣取ったあかづきが、次から次へと差し出される靴を磨くのに追われていた時だった。彼女は、
「そんなに急がなくていいのよ」と、やや逃げ腰で純白のソックスに光沢のあるつややかな、靴をつと、あかづきの前にそのすららかな足を、突き出してきたのである。ベニヤ板の上に靴を投げ出して。風変わりな女子高生だった。足を高々とあげていてパンティが見えそうなのだ。顔を見ようとするが、魔女のようにとがった鼻先がかすかに視界の片隅に写っただけで、長い髪の毛にさえぎられていて、あかづきの好奇心はそれに邪魔され満たされなかった。
「どこかとくに……磨いておくところはありませんか？　足の裏が痒くありませんか？」
「……ないわ。靴以外。私は……自分の心は自分で磨くしかないと思ってるから。あなたもそうでしょ？」
「俺は靴しか磨けません。靴しか磨きたくない」
　彼女の取り巻きが、美の審問官のように、
「こんなののどこが？　ほんとにこいつなの？」
　彼女は照れ笑いして、「そう、彼なの」
　あかづきは差し出されていた靴を布で必死に拭いていたが、その興奮した脳幹のどこかが叫んでよこした、
「あの女学生はお前に気があるのさ！」
　だが、うっすらとした前頭葉はかぶりを振り、いやいやと首を揺らす。
「違う、それはない。興味本位はあるかもしれないが、それが恋心に変わることはないのさ」
　と。
　だが、ついつい手が女子高生の足首を掴もうとしていた。
「さわられそうだったよ！」と彼女の友達が叫んだ。「こんなのにかかわっちゃダメだから。いこ！　ダメだから！　私のお兄ちゃん空手やってるから！　だからもう大丈夫だから！　こいつと縁切れるから！　いこ！　あんたまで腐っちゃうよ！」
「防腐剤つかってます」
「いこ！　変なこと言い出したわよ！　口走り始めたよ！」「私怖い！」「ほら、幽霊屋敷も怖がらない京子だって怖がってるのよ！」
　あかづきの様子が変だった。えずいていて、
「俺は不惑。不惑のカスです。不滅です。俺は不滅です」
「一時の気の迷いだったのよ！　早く目を覚まして！　よく見てみなさいこの男を！　よく見るだけでいいのよ、それだけで悪夢から目が覚めるのよ！　簡単なことなのよ！」
　少女は悲しげに顔を歪ませて、
「この人知らないのよきっと、あんな貼り紙がされてあるなんてことを。だから私が舞台に上がって知らせてあげるの。私のすべてを彼にささげるの。だから靴をキレイにしておかなくちゃいけないのよ。靴を脱いで舞台に上がってしまうと、この人どこかへすぐ逃げるから、すぐ追いかけられないじゃない。この人がガケとか急斜面とか活断層とか廃墟とかなんかの亀裂とかに入っていっちゃったら私、かよわいから裸足でがんばれる自信がないんですもん。だからずっと履いておくの。ピカピカにずっとしてて！　貼り紙って何のことですって？　あなたたち知らないの？　先月から劇場の出入り口に貼られてあるのよ。演者がふぬけになって、何も演じないのです。そこで新たな演者を募集します。学歴は中卒以下でできればろくに通学されておられなかった方が望ましく、身長は158センチあってはならなく、３０歳のとうげをとおに越えていて、身なりがさえなく、意欲があって元気があって何でもできる人ならエブリバデ誰でもOK！　バカでもOK！　簡単な条件ですので当てはまるバカは、ぜひ奮い立ってご相談ください！　精神不安定な暗いお方大歓迎！って支配人からのメッセージなのよ。あの人、職を奪われちゃったら何もできなくなってやせ細って死ぬのよ！　私にはそれが見えるから可哀想なの！　だから！」
　と、あかづきの手をとって、
「彼を立たせてあげるの、さあ、もう一度輝きましょう！　練習よ、路上パフォーマンスで！」
　友達に、「櫛を取って。髪を梳くから。はえぎわのうぶ毛どう？」
「いい感じよ。……愛してるのね」
「ええ……、だからとめないで。さあ、派手にやっちゃいましょう！　ジュリエットとロミオを演ずるのよ！　さあ、もたもたしないで。私はジュリエットあなたはロミオ、いまから開始！」　
　そして、悲しげな顔をしてあたりをさ迷い、
「わたしのさじはどこ？　ロミオ。さじがないとスープが飲めないわ。早くさじを。スープが冷めてしまうわ」
「布ならここにあるさ」
「何を言っているのロミオ。何も持ってないじゃないの」
「ああ！　アニータ！　向こうにあるんだ」
「ロミオ、誰なのその女性は？　私はジュリエットよ！」
「ああ！　アニータ！　50円玉はつかわれている。たいてい使われている！　ああ！　だが、これはなんという、こそばゆい多幸感！　とっぴょうしもないサザンカ！　痛みなき世界！　トウスイ……陶酔……」
　黒猫が、「どうなることやらね」と天使につぶやく。
「どうなりもしないさ、すぐ捨てられるに決まってる」と、天使は答えた。
「いや、わからんよ。みな」
　天使の目に映ったのは、ベンチに腰かけ長々とキスをしている、気を許しあったあかづきと女子高生の姿。
「この俺の目に狂いがあったためしはなかったんだが……」
　と、天使はパタパタと黒猫を路上に残して、空の高みにのぼっていった。この世もまんざら捨てたものではないな、という思いを胸に抱いて。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="27211" seq_num="18" title="偽善者" letter_count="5481" updated="2009-10-26T14:26:28+09:00" published="2009-10-26T11:13:43+09:00">
		<section><![CDATA[　僕は死ぬ前日、同人誌の作品を完成させるための推敲をしようとしていた。僕が作品を載せなければその冊子が低品質になるのが目に見えていたので憐れみの気持ちからだった。月曜日の昼、２、３時頃だったと思う。ネカフェにいったが、その日はなぜか満員で入れなかった。小さなネカフェだ。そこかしこに、大学生風の女たちが大勢いた。大正大学でくだらない学園祭でもあったのだろうか。バカなやつらだ。逆ナンされてもついていきたくないような。
　いつもはすいているのにナア、というとうぜんの思いを抱きつつ僕は仕方なしに巣鴨のカラオケで「I NEED　YOU」でも歌おうとおもった。もちろん僕を優先しないネカフェにムカついてしかたなく、二度と行くまいと決めたが、カラオケの前に少し飯でも食っておくかと近くのマクドナルドに行くかどうするか、と迷った。しかし、僕は一日一食ですませてしまおうと、それだとマックでは夜になってから、腹が減るかも知れないと、それに少し酒を飲みたくなり、ふらふらとさくら水産までエレベーターをのぼってゆくとちょうど店員が出てきたので、入ることにした。が、意外なことに、
「２時までです」とあっさり入店をこばまれ、隣の喫茶店に入った。２時までです、か、まったく融通の利かない屑女だ、と、奥の三角いテーブルにいくと、西巣鴨の上空ではカラスととんびが空中戦を繰り広げている最中で、とんびはまだ幼くカラスよりも小さく、それでも２羽対１羽だった。一対一になると小さなとんびのほうがカラスを追った。注文した山菜ピラフをビールで流し込みながら僕はちらりと店内を見回した。はすかいにビートルズのポスターが貼られてあり、オルガンかピアノか、それにギターが立てかけられてありいくつかの舶来の土産物と並んでタンバリンが飾られてある。ジョン・レノンになりきりながらアメリカンスピリットのライトをふかしているとギターを買う気になってしまい、店を出、ちょうどおりよく池袋までのバスが来たところだったのでそのまま乗り込んだ。
　──山菜ピラフはピラフと呼べるシロモノではなくただの蒸かし飯で、どこの素人が作ったのかというほど不味く、しかも量も少なく、店のケチぶりとマスターの腕の無さには驚くしかなかった。ピラフについてたぶんよく知らないのに違いなかった。
　池袋では楽器店を３店めぐった。一店目で、ディズニーの柄のクラシックギターを買いかけたが、すんぜんで「金に困るようになるかも知れない」と買い渋り、あげく店員が生意気そうだったので、気持ちが変わり、ひやかし半分ではいった最後の店で８４００円の青まだらのフォークギターを手にとると、
「よくギター弾かれるんですか？」と、猫背で茶髪の店員がにじり寄ってきて、邪魔だった。
「安いギターしか買えない貧乏人め」という狡猾な目つきで僕を見ており、１０万２０万を越すギターが並べられてある壁の前に立ちはだかり、なにか僕がよろけてそれらのギターを倒しそうだ、とでも心配していたのだろう、失礼な男だった。
「いえ、ぜんぜん弾けないんですよ」などと答えながらも、全部蹴ったくってやろうかと、すごく不機嫌になってしまって、陰気な気分にさせられて帰りのバスに乗った。最初の停留所にとまるとさいしょにはいった楽器店が窓から見えそこのショーウィンドーに、買おうか迷っていたディズニーの柄のクラシックギターがバスの乗客の目に留まるように置かれていて、せこいことしてやがると、僕は楽器屋のせこさをせせら笑った。ディズニーのギターは３万近くした。それぐらい買える金はある。そう思うと、僕は８４００円のギターを持ってさっき買った店に舞い戻って、
「ほんとは３万円のギターを買おうとしてたんたけど、こんなつまらないものに金を出すのが馬鹿らしくてね」と、吐き捨てた。
　──その夜、ギターを弾けそうな公園を探し回って結局近くの公園が周りに住居もなく、真上は自動車専用道路でうるさくてうってつけの場所だったので、その公園でプリントアウトしてきたコード表を片手にギターを弾いていると、薄よごれたサラリーマンや餓鬼を自転車に積んだ使用済みの中古女やらがじろじろと、通りすがりに僕を見たが、たしかに彼らはギターを弾くなどという高尚な趣味には一生縁が無いんで、しょうがねえな、と、ただただ教養の差を感じた。しばらくすると、競技で使うようなスポーティーな自転車でやってきた青年が、亀の甲羅みたいなヘルメットをとりしな僕に一礼し、かばんから本を取り出してわめき始めた。なんだアと、みていると、ロウドクの練習をしているようで自分の声をカセットテープで、今どきまだそんな古いものを使って録音している。おそらくこいつは明日にでも皆の前で朗読しなければいけないのだ、それをいちいち発声練習しにきやがったのか、みみっちい男だ、別にうまくロウドクできなくてもいいじゃないか、こいつはとちることを恥と考えてわざわざこんなところまであんな自転車に乗ってまでやってきてロウドクしてやがる、つくづく見栄っ張りな野郎だ、軽蔑にあたいする。
　──コードをいくつか覚えてしまい、こんどはどれを鳴らそうかとコード表をあれかこれかと眺めていると、目まいがしてきた、指も痛くなっていたので少し休もうとぼんやりしていると、ロウドク野郎がトイレにはいったまま出てこなかったので、自転車を借りてゲストハウスまでもどりスモックに袖を通し、靴下を引っ張りあげふたたび外に出た、自転車はやけに乗りにくかったのでコンビニに乗り捨てた。腐ってしまいそうだったので、ヒゲをそろうとかうかうかしているとまた偽善の虫が騒ぎ始めて髭剃り買って受け取ったつり銭を全部募金箱に入れてしまい、僕は街をふらふらしていた。皆目何もどうしていいかわからなくて、缶コーヒーを飲んでいると、スナックに行こうかという気になった、自分がどうしなければいけないかなんてわかっている人いるのかな、自分がどうしなければいけなかったかなんてわかってる人いるのか。僕は幼稚園のときから内気で、シンユウと呼べるものは僕が１５歳のときにやってきて１５年生きて死んだ犬ぐらいだ、チェリーの戸は自転車でふさがっておらずネオンも点いており店をやっているようだった。戸を開けると、客はまだ誰もいなかった。
「さよならを言いにきた」と、言い、そして戸惑った。ギターを取り出して突っ立っていたが、ヌーに似た黒髪の婦人に手招きされるままに彼女の座るソファに座った。
「ひさしぶりじゃないの」
「ビール」
「じゃあ私もいただきやーす。ギター弾けんの？」
　何もいえなかった。ものすごい恥ずかしさだった。声がでなかった。それでも、困惑しながら、
「弾けます」と、低音で言った。
「生活は根付いてきた？」ちょっと胸があたった。
　店で弾くのは初めてだったが割かし安心して落ち着いてきて、指も動いた。GメジャーGマイナーから、Dセブンにがなりたてる、するとすぐユウウツになった。それからGマイナーメジャーセブンから疲れてEマイナーセブンへと、切り替えて、鳴らしながら答えた、
「たましいを勇気づけるために燃焼させるために」と。
「は？　なにいってんの？　答えになってないでしょ」
　いつのまにか入ってきていた長髪に丸眼鏡をかけた男が、
「そこでAサスフォーでＭＡＬＬＬＭＡＬＬＭＡＬＬ！って叫んで転調するんだよ」
　と、コートを脱ぎながら、つづけて、「ウーロンハイ！」
　そしてママのほうに体を向けると、「なんで旧態然で満足しないんだ人は。できないんだ」と、愚痴り始めた。
　悲しくてそわそわしているとまた偽善が始まった。チンケなプライドをひっさげて。自分がいちばんでありたいと望む。僕はいつも。いさかいが絶えない。狂いながらギターをつまびき、
「俺は夭折するんだ！　さよならを言いにきた！　夭折の天才詩人だ！」
　ジョッキ割って怒られて、そして、カラオケの機械に千円札を突っ込み、「俺は理系でね、機械に疎くて」とＤＡＭの操作をママの妹に頼み、
「ユードリアラッチャユーアニィードゥー！　ラーブオーザタイムネバーリービュー！　プリーカッモンバッキャンシー！　アーロリーアースキャンビー！　アニードゥー！」
「だからそこでAサスフォーでＭＡＬＬＬＭＡＬＬＭＡＬＬ！だって」
「アニードゥー！　アニードゥー！　アニードゥー！」しばらく、画面が切り替わるのを待って、「52点か、抑揚をつけると低くなる、じゃ、また」と立ち上がった。
「まだ４曲残ってるよ」
「いい。歌ってくださアい」
　そういうと、ママの妹が、「あなたあの人に似てるわね。目がパッチリしてて」
「だれに？」と聞くと、個性派俳優とお笑い芸人だった。アア、こりゃ女にモテねえなと、開き直りみたいな気持ちになって、「アディオス」とつぶやくと、わざわざドアを開けにママたちが外まで出てくれた。僕のために。ママは僕に何度も手を振った。車が赤信号で停まっていた。５メートルぐらいある長い黄色い車。
　下板橋駅まで歩きながら、僕は、「あんな目で見つめてくれたんで、それだけで、いいじゃないか。僕が無名でも。何者でなくても」と自分を慰めようとしていたが、どうも、似ているといわれた俳優の顔を思い浮かべると自然足取りは重くなっていった。ママの妹は顔が整っていて、美しく、「ありがとう」の言葉がしらじらしく、嘘くさかった。
　楽な死に方を歩いて探している。決意はそれほどでもなかったが。最後ぐらい苦しんで死ねばいいのに。こいつらは何もわかっちゃいない。愚鈍。そういえば昔から、終わっていた。偽善者ばかり。
　車輌から人がはきだされ僕の前にいたしわくちゃの老人が転んでしまい、起こしてやろうとすると、光る目でうたぐりぶかそうに、
「なぜ死を選ぶのか？　絶望か？　困窮か？　聞いてお前から何か得ようとは思わないが……」
　そうか、飛び込もうかどうか迷っているのがそれほど目に付いていたのか、と、そ知らぬ顔をして、
「預言者は青きギターを持ちて、……
　どこぞの王女がむかし昔の王妃にさせられていたザンコクな仕打ちがどれほどむごいことだったか、……
　新聞記者を呼んで、……
　下半身を露出して、手首に枷して柱にしばらせて、街ゆく人々の思うがままにさせた、……
　そして王女が数人の子供たちに……
　『誰一人として私の神聖を感じとることができないのか』と嘆く……
　その写真がケイサイされ……
　封印をとかれたオダサクが黙って見ていた、……」そんなことをぶつぶつ呟いて、改札をぬけ、ポケットウィスキーをあおり、「お前がやるんだよ、人にやってもらおうと思うな」と自分に言い聞かせ、２４時間は眠っていなかったと思う、何か疲れていたし、全身が重たくなっていたし、周囲に突き放されていた。また駅構内に戻り、ふりかえってみると、乗客は家へ引き返している。
　ずっと頭の中でCマイナーの残響音が途切れることなく響いていて、その音色がぷつりと鳴り止むと激しい衝動が襲ってきて僕はもう、飛び込んでいた。妨げなど何もなくなった瞬間、頭がどうかして一瞬一瞬が帰らぬ昔になっていった。そして全世界を回す歯車のひとつからはずされたような無力感と開放感に包まれたかと思うといちじんの風に自身がなって、機械の熱をすずやかにさますように過去の事や風景が頭の中にめぐって、そして、もう二度と会えなくなった人たちがよぎってゆき、流れる涙はこぼれ落ちるまま氷の結晶となって割れて砕けた。そして咲き乱れる花々へとすぐさま形を美しく変貌させた。
　草や木そして雨が降り落ちる。終わり。植物ばかり。雨が降り、草や木そして虹が出て空に弧をえがいてのびている。日差しはかすかにほほえみ草や木そして花々を照らす。アカシアが咲いている。菩提樹の下、ただ一人っきりになってしまった僕は前世への思いがあふれかえり、こみ上がってきて、
「泣くことは何もない。俺は勇敢だった。生きることへの希望をすべて捨てることができたから俺は死ぬことができたんだ。生きていれば何かよいことがあるかも知れない、とつぜん俺に好意を抱いてくれる女性があらわれるかもしれない、などとなどという、甘い幻想を完全に断ち切れたから死ねたんだ。それは絶望だった。だが絶望とは、あきらめることでありあきらめがなければ執着しつづけ悩み苦しみ、次へ次へと時の流れに翻弄され、ぶざまに醜態をさらし禿げちらかし、引き際もわからなくなる。それこそが次がないことなんだ。無への期待や恐れもなかった。ただ完全なる絶望を俺は胸中に抱くことができた。すべてをケンオして、地獄があるかなしか知らぬまま、ただ──」
　それからとぼとぼ歩いていた、見飽きぬ景色だった。僕の眼球だけに焼き付けておくには惜しいほどに。だが誰が僕のそばによりそうだろうか？　ふと、僕は自分がアダムかと疑ってあばら骨をさすってみたが何も出てきそうになく一人で苦笑していると、
　──、遠くに何かが見えて、それがこっちへやってくる。
「タローじゃないか！　お前もここにいたんだな！　まさかお前にまた会えるとは思ってなかったよ！　死んでよかったよ！」飛び上がってタローは喜んでくれた。尻尾をふって笑っていた。
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	</chapter>

	<chapter id="2902" seq_num="19" title="ひしゃげた心のクラゲ達" letter_count="14513" updated="2009-05-03T01:54:42+09:00" published="2008-02-06T18:08:57+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　二つの影が夜空を走っていた。谷の亀裂のように。谷。それはどこの谷でもいい。世界の名所などではなくともいい。ニューヨークの崖でもいい。そこでは少年がルアーを激流にただよわせ、父親に、
「はは、まだまだだな、あと半年は練習しないとな」などと言われ、笑われて、照れた少年はうつむいて黙り込んでしまう。シーンと静まりかえる渓谷。川に何かの花が流れていて。
　なんだろうか。砂漠の真っ只中で荒れ狂う砂塵のように叫び狂いたい。なぜかはわからない。今朝も俺は起きぬけに叫びだし、家を飛び出た。そしてパンクしたバイクを捨てて、歩き回り、もう日が暮れてしまった。すると、誰かが話しかけてきた。
「なんだ、都会っ子がこんなとこで、なにしてんだ？」農夫だった。
「都会っ子？」
「ああ、都会っ子だろ？　そんな洒落た服きてんだからなあ」
「いや、これは、……僕は田舎者ですよ。でもこの服は姉が僕にくれたんです。三万円ぐらいしたって言ってたな。でもこんな暗いのによく僕の服装がわかりますね」
「ど、わっはっはっは！」
『どわっはっはっは？　なんでそんな笑い方をするんだろうこのおっさんは？　ありえないだろ』
　農夫は何度もうなづきながら平然として、
「こっだら田舎は、街灯なんてねーべからさ、自然と暗闇に目が慣れるっぺよ」
『ぺよ？　こっだら？　ねーべ？　たしかに俺はバイクで家を出て、無茶苦茶に走り回って、乗り捨てて、森林の中を闇雲に歩き回ったが、しかし、九州からは出ていないはずだ。なのになぜだろうか。こんな方言はありえないわけだが』
「そ、そうなんですか……」
「遭難でもしたかお前さは？　ど、わっはっはっはっは」『なんだこの親父ギャグは』「しっかし、おまえっさは疲れきった声ばしとるたいな、どぎゃんしたとや？」
「いえ、道に迷い、疲れきってしまってて」俺はこの農夫に甘えてみようと思っていた。なぜだろうか。それはたぶん言葉遣いはどうであれ、この農夫が暖かい声をしていたからだと思う。だからこの農夫の妻もきっと暖かい心の持ち主で、そして子供も、と。
「あの、もしよろしければ、今晩、僕を泊めてくれませんか？」
　農夫は俺の肩にポンと手を乗せると鷹揚に笑ってみせ、白い歯を見せ、
「それはこっちが言おうとしてたんだわ、先に言われちまっただかよ、さあついてきな」
　僕たちは歩き始めた。農夫の家へと。蚊が飛んでいて、高い音で鳴いていたが農夫がぴしゃっと手を合わせ、叩き殺した。
「わしゃ殺生はしたくねえんべ、ほんとはげな、だけんども、いま歩きながらっぺよ、和歌ばつくっとたとばってんが、詩人やけんねわしゃ、そげなときゃいかんぜよ」

　　　　２

　こうもりが飛んでいた。あれがさっきの影だったのだろうか。だがそれにしては小さすぎる。
　やがて大きな家が見え始めた。納屋があって窓からもれる光が藁を照らしていて、喫茶店のような感じだった。農夫は戸を開けるなり第一声、
「帰ってきたでちゅー、今晩はお友達つれてきたでしゅよー」と、言った。そして急に眉間にしわを寄せ真面目腐った顔をすると、
「あんた厠にいっとかなくていいかい？　あんたは初参加になるから、そうすぐにはトイレに行かせてもらえないぐらいの大歓迎をうけるだろう。厠はあの納屋のすぐ横だ」
　そう言うと、室内に入っていった。飛び出してきた子供が叫ぶ、「てめーの友達どこにいやがんだー！　さっさと出せやこら！」
　厠に向かう俺の背後で農夫が、
「お兄ちゃんこわーい。そんなこと言わないでぇお願いぃ、お友達はねー、こうちゃんって言うんだよぉ、今、おトイレにいってるんだよぉー」
「へっへっへ、そうかい、こうちゃんかい。へっへっへ、じゃあホモの洋二には気をつけとかなきゃいけねーやな、あいつはエロいやろーだからよー」
　そいつは顔を、洋二呼ばわりされた娘に向ける。そこにはリンゴのように赤い頬っぺをした女の子がいて、恥ずかしそうにしながら、
「いやはや、オレもとんだ変態にされちまったもんだ……」と棒台詞のようにつぶやきますます顔を赤くさせた。才知がありそうな顔立ちをした女の子。
　ほとんど公衆トイレといっても過言ではないような、きちんとした、どこかの駅や会社のトイレのようなところで、俺が小便を出していると、奥田英二がやってきて、俺の隣で小便しだした。そんで、
「きみも、家族ごっこ？」と話しかけられた。
　俺は尿をきりながら、「家族ごっこ？」そして、当たり前のようにあらわれた奥田英二にあらためて驚いた俺は、「あ、あの俳優の奥田英二さんじゃないですか！」
　奥田英二は頬に皺をきざみながら、「はは、そうだよ。奥田英二です。はじめまして。知らないみたいだね、ここは家族ごっこをするところなんだよ」
　いまいち話の内容が呑み込めなかった。
「なんですかその家族ごっこってのは」
　奥田英二も尿をきりながら、水を流すボタンを押し、一物をズボンの中にしまいこみながら、「よしっ！」と一声発すると、
「なあに、難しく考えることはないさ。お医者さんごっことかあるだろ。そんなもんだよ、やればわかるよ、たとえば誰かがお父さん役をやり、誰かがお母さん役をやる。そんで各分野で著名な有名人がここを訪れては家族ごっこをするのさ、まあ、秘密の場所だよ。知る人は少ないんだけどな。俺もそのメンバーの一人ってわけさ。今日は居候の役をするってことになってんだけどな、まあ話はこれぐらいにして、行こうか、やってるうちにわかってくるだろうからさ」
　俺は何がしかの不安を覚えて、
「でも、いったい何のために？」
　奥田英二はビシッと決まったスーツ姿で、くるっと一回転すると、
「楽しいからさ」
　そして、俺たちは農家へと足を踏み入れたのだった。

　　　　３

　暖かい暖炉がともされたその横に少年がいて、手作りボックスの上のティッシュを一枚とると手で丸めて、球状にし、放り投げ、落下すんぜんで右足でキック。それが俺の体を直撃した。暖炉に薪がくべられてってた。ブロンドの髪をした娘の手で。俺の肩に重圧がのしかかってくる、それは、この二十畳はあるだろう奥行きのある部屋に集う１４，5人の視線からいやおうなしに襲い掛かってくるものだ。それぞれが思い思いの服装をしている。うる星やつらのラムちゃんのコスプレをしてる女性や、俺が尿を出してる時に着替えたのかさっきの農夫は半そで半ズボンで虫取り網をもっていたり、ガウン姿の大男が腰掛けているパイプ椅子の真後ろの壁面には画用紙に書かれたエルビス・プレスリーの絵が垂れ下がっている。そして薪から煙があがりその絵もおぼろげになっていく。炎がパチパチと。ふらりと入った喫茶店に、自分以外のものが皆知り合いだったとしたら？　なにか居心地が悪いというか、場違いなところに足を踏み入れたような、……牧師の衣装をしたヒゲ面の男が(だが、靴下はピンク色だった)、対面にきて、
「苦しみだけが人生だとお思いですか？　たしかに人生は困難の連続です。でもそれから逃げちゃダメなんです、いいですか？　苦しみは絶えません。苦悩は日増しにますでしょう。ただね、わからないだろうね、きみにはまだわからないだろうね、今日、本屋に、キン肉マン買いに入ったんだが、漫画だよ、キン肉マン二世しか置いてなくてしかたないから、ピンク色のペン買ったんだが、ためし書きする紙がなくなってたんだが、そこに二ヶ月前ぐらいにloveと書いといたんだが、そのピンクのペンが一本だけ他の種類と違っていて丸みがあって気に入ったんだが値段も書いてないし、なんかインクの具合がはみだしたりしてておかしいから、買えないんじゃないかって、思ったんだが、ためし書きする紙がないからしょうがないからそのままレジに持ってたら、ちょっとお待ちください、っつわれて、そんで、なんか店員同士でこそこそ話してやがったんだが、なんかペン売ってるとこまで走ってって、そんでやけに戻ってくるのが遅いなって思ってたら、戻ってきて126円です、って言われた」
「そんな奴の話は聞かなくていいよ、それよりこっちこいよ酒のもうぜ」「これはこれは、伯爵よくおこしになりました」などの声が交錯する。あたりに散りばめられた空間に、木霊す。牧師は、
「待て、まってくれ、まだ話は終わっていない、頼む、お願いだからいかないでくれと僕は叫び続ける、叫び続けるだろう」と、言うと、本当に叫びだした。
　いかないで！　いかないで！　お願いだからいかないで！と。
　俺はどうしていいかわからずに右往左往していたのだろう。瞬間、瞬間のことであっても、記憶が、飛び、飛び、になってて、現存在を今、この瞬間として生きているにもかかわらず、現実が見えてこなかった。いや見えすぎていた。どういったらいいのだろう。今おきていることがすでに過去のことで、過去のことが今のことのような感じ、そのような錯覚に襲われていた。つまり、俺には説明能力がない。とりあえずガキがいたので、
「腕相撲しないか？」と話しかけたら、「おう」と返され、俺たちは腹ばいになって腕相撲をはじめた。相手はガキだ。なんどやっても俺が勝ち、ガキはついに両手を使いだしたが、それでも無理と気づいたらしく、「両手でやってもあかん……」と情けない声を出したので、
「こいつの兄貴いないのか？　いるなら腕相撲しないか？」
　そう呼びかけると、それまで部屋の片隅に、みんなに背を向けた格好で胡坐をかいて頭を垂らしていたデブが立ち上がった。身長180センチぐらいのデブ。百キロは体重があるだろう。少なめに見積もっても。そいつが腕まくりしながら驚いたことに匍匐前進してきた。俺を睨みながら。俺はぺこりと頭を下げた。がっしりと腕と腕とが握り締められた。勝負は一瞬で決まった。ただのデブだった。俺の鍛えられた筋肉によって何度も何度も手の甲を床につけられてデブは息をきらせて、杏、あんずのような匂いを出し始め、匂いとともに、
「なああんた、なんで俺らがこんなことやってるか知りたくないか……」
　俺は力を少し緩めた。デブの腕がプルプルしながら手の甲をもうこれ以上を床につけられたくないと、必死に抵抗を試みている。
「いや、別に」
　デブは聞いていないようだった。デブは自分の世界に酔いしれていた。その世界は紅色、くれないいろの世界だった。まどろみの中でデブは数人の裸婦と共に丘をのぼりつつ、希望の灯火、ともしびに照らされた光の世界で、儚げな夢を見つつ、心の中の闇を見透かされるのを極度に厭う。いつまでも夢を見続けてればいい。美女たちとともに。そうだろ？　デブよ。
「……もともとこの家の夫婦はろくに会話もしない仮面夫婦だったんだ。お互い好きでもないのに世間体を気にして、そんで結婚しただけの話さ。……それだというのに隣近所の農家とは交流も持たずに仕事が終われば無言。ただ飯を作り、ただ飯を食う、ただ風呂を沸かし、ただ風呂に入る、そうさ、そりゃ何も他人とまったく会話しなかったわけじゃない、朝あえばおはようございます、とも言うし、ちょっとしたニュースをあーですねー、そーですねー、怖いですねー、なんてことは言うが、決して腹の底は見せやしなかったんだ。だけど、子供は生まれた。隆志という。男の子だ。俺のことだ。弟も妹もできた。俺たちはまだ見知らぬ暖かい家庭を思い巡らせながら、そうさ、子供の頃からそんなことを考えなければならないようなそんな劣悪な家庭だったのさ……、俺たちが始めた家族ごっこにいつのまにか親がくわわった、最初は驚いたさ、最初は嬉しかったさ、だけどそのうち気づいたんだ。ああ、親父もおふくろも俺たちと真剣に向き合う気がないからこーゆーことをしているんだなと、……そして噂は噂を呼び、ここに有名人が集まり始めた。噂が広まるのははやかったさ。あっと言う間だった。近くにな、芸能人の親戚がいるやついたんだよ、そんなんで、……そんなんで」

　　　　４

　それまでうちひしがれて床に突っ伏していた牧師が、「愛が欲しい！」と雄たけび、一人でワルツを踊り始めた。が、やがて、ぐるぐるとサークルを描くように、気取った足取りで、まるで兵隊が歩いているような、そしてそれをデフォルメしたような歩き方で、スキップなどもまじえて腕をふり、「愛が欲しい人この指とーまれ！」
　誰かが飯を炊き始めた。誰かは布団を敷き始めた。デブの反応は素早かった。すぐさま牧師のもとまでかけより、牧師の突き出していた人差し指を、やさしい、やさしい、ゆっくりとしたモーションで握り締めると、彼らはしばし見詰め合っていた。
　俺はもう確信していた。あの夜空を覆っていた二つの影はこの二人の体から発せられているある種の幻影だったのだと。俺は窓をあけ、夜空を見上げてみた。やはりもうあの二つの影はなかった。月が雲にかすんでいた。どこまでも麦畑が広がっている。俺はうつむいた。農家の周辺はコンクリートブロックで覆われていたが、窓のちょうど真下に、灰皿が置かれてあり、そこに水が溜まっていて、カエルが入浴していた。見ていると、わけもなく俺は照れてきたので、またみんなの方を向いた。デブと牧師は全裸になっていた。熱いくちづけを交し合っていた。くちづけが数十秒つづいたあと、二人は手を握り合い、
「おれのニックネームはレオ」と、牧師が言った。デブの心に愛が芽生え始めていた。しかしそれは利己的な愛ではなかった。デブの心の中には、愛し合うことの素晴らしさをこの家族ごっこの参加者達に知らせよう、教えてあげようという、布教の志、こころざしがあった。たとえ、たとい、他の参加者には伝わらなくても、親父にはこの気持ち、ぜひともわかってもらいたい！
　牧師がギュッとデブの体に抱きついてくる。二人は抱擁、ほうようしあう。素晴らしき愛に包まれデブの目がキラリと光り、一瞬、ひとまばたきすると、抑えきることが出来ない感情の奔流に押し流されるままデブは言葉を紡ぐ、
「僕は昔にも恋をしたことがある。でもあの恋は、あの熱狂的な、絶望的な恋は、愛ではなかった、ただの性欲。性欲だけだ、それと自己中心的な考えからきている自分の存在が消え去ることへの不安。ただそれだけだったんだ。同情心なんか相手にもってなかった、思いやりの心なんかなかった。だからあれは愛なんかじゃなかったんだ！　僕は、乗田布ノ子、のりたふのこさんが好きだった。大好きだった。でもそれはたんに彼女を支配したかっただけだったんだ！　ハレルヤ！　ハレルヤ！」
　ドアノブについた油脂をハンケチで熱心に拭きながら、農夫は考えていた。もうすぐ、もうそろそろ荷物が届くはずだ、と。筆を持つ手が震えていた。まるでギターのリフをかち鳴らしているギタリストのように。この筆で署名するつもりだったのだ農夫は。……どうあしらえばいいのか？　もうどう足掻いたって無駄なのか？　そうだ。あいつに払わせよう。あいつに。あの腕相撲してて、窓から夜空を見上げていたあいつに。いや、あいつは金を持ってそうにないな……　いったいどういう状態になるか農夫は思考をめぐらせる。重い荷物が運び込まれるだろう。運送屋のトラックが農家の前に停められて。縦幅１メートル、横幅３メートルほどのダンボールがくる、もちろん郵便受けには入るわけがない。窓からもれる光と、陽気な笑い声、この喧騒。室内に何人もの人々が集っていることを隠しようがない。居留守は使えない。だが俺はこの家の主。一家の大黒柱。俺以外が、来客を迎え入れることはないだろう。だが、インターフォンを押しても反応なし。あるわけがない。俺は出る気がないのだ。いや、出るかもしれない、だけどまだ決心がついていない。配達人は苛立ち何度もインターフォンを押しながら、「ごめんください！」と怒鳴り続けるだろう。お届けものにはラベルが貼ってあって、HBえんぴつ1万本と書かれてあるだろう。配達人は重いダンボールか何かしらないが、その1万本のHBえんぴつが入った箱を抱えてしかたなくトラックに戻る。そしてもう一度、受け取り時間を確認する、「たしかに夜9時以降だよな……」と呟き、宅配会社に電話をかける。「なんかいるみたいなんですけど、出てこないんですよ」とかなんとか、それで俺の家に電話をかけてくるだろう。だが俺が出ることはない。出たくないのだ。確かにえんぴつ一万本注文はした。暇つぶしのために、電話で注文した。こっちから働きかけて、それで、何かが実現する。その仮定が面白かった、なにかを手に握っているような、手中にしているような、手のひらの中に現実をはべらせ、その現実をギュッと握り締めているような。現実？　いや、真実だ。そうやって暇をつぶそうとしてて、余裕でできると確信できてて、さあやるか、ちょっくら、って思って軽くやった行為なのに、なんでもないことだと信じきってたのに……　実際、もう時間は迫りつつある。刻一刻と。そいつがきやがったら、あの丸いのあるだろ。ドアの中央のだいたい背の高さよりちょっと低いぐらいの位置に、玄関先のやつが誰かを覗く小さな望遠鏡みたいなのが、あそこまで、俺は物音をたてずに静かに爪先立ちで歩いていって、覗き込むだろう。だがそんな行為も意味をなさない。俺一人だけ気配を消しても周りの奴らがうるさすぎるから。１万本のえんぴつが入ったダンボールを重そうに抱えている配達人がドア越しにいて、それで俺はどうすればいいんだろうか。なにかもうどうしたらいいかわらない。金は用意してある。だが、その一万本の鉛筆をどうする。恵まれない子供達のために寄付するのか、それが俺の歩むべき道なのか？

　　　　　５

　クラっとくるほどの重い荷物を積み込む。辛い毎日。血に滲む手のひら。唯一の楽しみは助手席に転がしてる蜂蜜を舐めることだった。一労働終われば缶のふたをあけて指を突っ込み、ペロっと一舐めする。ああ、美味い。甘い。この一時の幸福のために僕は働いているのかも知れないな。それに、待ちに待った注文品が届いた時の人々のあの喜んだ顔！　こっちまで思わず顔がほころんでしまう。でも、タフでなけりゃやってけないけど。でもみんなの笑顔が僕に力を与えてくれるんだ、だから頑張っていけるんだ。道路をひたすら走り続ける。夜空にきらめく月を眺めながら。果てしなく思える。どこまでも道が続いているように思える。運転手は軽トラをコンビニの駐車場に停めると、腕時計で時間を確かめる。うん！　9時までには間に合うはずだ、と。キラキラ輝いた目でコンビニのドアを開ける、ちょうどお年寄りが店内から出ようとしていたので、彼は、ドアを開け続ける、お婆さんは、彼に笑顔で、「どうもありがとう」
「いえいえ」そして、缶コーヒーを、と。そしてスポーツ新聞に目を走らせた。殺人事件が一面に出ていた。そして、その加害者の親族の写真が写っている。悲痛な表情で、『普段は大人しい子だったんですが……、ちゃんと真面目に仕事もしていましたし……、私たちもなぜあの子がこんな事件を起こしたのか、戸惑っている状態なんです……、ほんとうに心からお亡くなりになられた方、そしてご親族の方々にお詫びを申し上げます……、謝ってもすむ問題ではありませんが、ほんとうに、ほんとうに……』運転手はそのスポーツ新聞を手に取り、レジへ向かう。折られてある新聞を開きながら。そこには泣き崩れてしまっている加害者の親族が写っていた。世の中いろんな人がいるもんだな、僕も、この仕事をやってると、ほんと、いろんな人がいるんだなあっていっつも思うんだ、受け取り時間にもってってもいなかった癖して、電話で怒鳴りつけてくる人もいるし、毎日大変ですねえ、おつかれさまです、ってやさしい言葉をかけてくれる人もいる。僕の不注意で小銭を持ち合わせてないときにも、いやいいですよ、そのぶんは、こっちが出しますなんて言ってくれる人もいたし、でもそんな好意に甘えてちゃダメだ！　もっと責任感をもって、ちゃんと仕事しなきゃ！
「ああ、お姉ちゃん、あと、echo、三つね！」
　その頃、農夫の恐怖心は頂点に達していた。農夫の耳に配達人の罵声が響く。居留守め！　呼んでもでてきやがらねえ！　ぶっ殺したる！　農夫は耳をふさぎ、ドアの鍵を何度も閉めなおし、チェーンを入念に、チェーンを捩りくねらせながら、もしドアが開かれてしまっても、そのチェーンの捩りの効果でドアが最小限度にまでしか開かないように工夫しながら、しかし、その最小限度に開いたドアの隙間から配達人の怒りに満ちた拳骨が繰り出されるような気がしてならなく、まるで目に浮かんでくるようだった。農夫の耳に罵声が響き続ける、てめえ！　チェーンを捩じらせやがって、そんなんしても無駄なんだよ、俺は空手三段なんだよ、こんなチェーン俺の空手チョップ一発でぶちぎったるわ！　てめえ、許さん！　ぶっ殺したる！　ぶっ殺したる！　ぶっ殺したる！
　運転手はまた腕時計を見る。少し飛ばそう、か。余裕をもって、時間に必ず間に合うようにしなきゃね、僕は時空を超えるのさ！　仕事が終わったらあの麗しい洋子の待つ家へ！　さあ、頑張るぞ！　洋子も最近、家事を頑張るようになった、主婦の仕事を努めてくれてる、毎日、僕のために心のこもったお弁当を作ってくれる。もう家のことはまかせっきりでいい、こんど産まれてくる子供のことも洋子の考えを尊重して育てていこう、僕より彼女のほうがしっかりしてるから、だって、僕って、もう成人してるのに、ちょっとしたことでイラっときたり、なんかとっぴな行動するらしいから、自分ではわからないんだけど、でも、たまにぶち切れたりもするもんなあ、でももう僕も親になるんだ、だからもうそういう軽率なふるまいは慎まないといけない、家族のために、僕のために、みんなのために
　運転手は蜂蜜の入ったビンを舐めたそうに眺める、だがグッと我慢する。仕事が終わってからだ、と、胸に誓い。このまま行けば、あと30分ほどで着くはずだ。自信はある。だが、揺らぎもする。もしタイヤがパンクしたら、とか、とにかくこの運転手はまだ一度も訪れたことのない家に荷物を配達する時、しどろもどろになり、異様なまでに緊張してしまう一面があった。うまく感情のコントロールができなくなることがしばしばあった。彼はもともとそのへんにいるヤンキー出身で、シンナーや覚せい剤による後遺症が脳に残っていた。身も心もキリスト教に帰依してから改心したものの、戸惑いや、困難、ちょっとした壁にぶち当たったり、物事がうまくいかないときなど、座席の下に隠しているマリファナに手を伸ばしがちだった。それなしには腹の虫がおさまらなかった。壁を殴りつけ穴をあけることもあった。花瓶を持ち上げ投げつけて割ることもあった。きつく、自身にその悪習を断つことを幾度も試みていたのだが……

　　　　６

　乗田布ノ子は目覚めた。パジャマにも着替えずに、ジーンズのまま寝ていて、ほつれた髪が口に入っていた。けだるい。カーテンを開けると真っ暗。誰かが街路を歩いている。携帯を開く。もう夜の８時半を過ぎている。体がだるかった。こんな生活がここのところ続いていた。昼夜逆転の生活が。私いったいどうしてしまったのかしら、いつからこんな怠惰な生活になってしまったんだろう……、淋しい、でも淋しいなんて絶対言いたくない、誰にも……、逃げ出したい、どこかへ……
　一日使い捨てのコンタクトレンズをずっとつけつづけていたせいで、左目が痛く、目を開けていられないほど痛く、涙がポロポロととめどなくあふれた。パソコンを起動させると、約束どおり、MIXIからの招待状が届いていた。もう５年ほどの付き合いになる、いまでは心をひらける唯一の友達になってしまっていた裕子からの招待だった。布ノ子は始め何をしたらいいのかがわからず、なにげに、自分の名前で検索してみた。１件ヒットした。どこか見覚えのある名前だった。そして見覚えのある顔、布ノ子は寝起きで頭の回らぬままその人物の写真をクリックする、そこにはこんな自己紹介文が載っていた。『俺は一生、乗田布ノ子さんを愛し続ける。この思いは神に誓って変わらない。愛が欲しい、愛が欲しい、愛が欲しい、たとえこの想いが彼女へ届かずとも俺の想いは生涯かわることはない！　愛して、愛して、愛しぬき、この想いに殉ずる。頭がおかしくなりそうなほど愛している、嘘じゃなく頭が狂いそうだ、躁の時と、鬱の時がある、ハイの時と、ナチュラルハイな時と、ブルーな日がある。また会えると信じている、あなたを想わない日はなかった。特に春がつらい。僕は僕の道を歩いている、だけど、もうこの想いはとめれない、きっと僕らは赤い糸で結ばれてるんだよ、あなたと僕との距離が遠のいたと思った時期もあった、でも、僕はあなたの存在をまじかに感じ出した、だからもう疑念はない。婚約したら、もっともっと、ここよりものどかな田舎に転居して、それで、それで……、アツアツで……、デレデレして……、ツアーくんでハワイに……、中国でもいい、ニイハオは知ってるから、……オハイオ州でもいい、預金手帳を卸せばいける、いや、手帳じゃなくて通帳、……どこでもいい、それは、二人で相談して……、あなたのためなら追い剥ぎだってできる、あなたとの時間を大切にしたい、あなたのしぐさがたまらなかった。くそお早くあなたを……』。デブの自己紹介文はまだまだ続いていた……　布ノ子は半分も読まずに目をそらせた……　自分の名前が出されてるのがやたら悔しくて、やたら悔しくて……　不愉快で……、イラついてくるのだった。
　小中と同じクラスだったあのデブ……　バレンタインデーにチョコレートを渡してもいないのにホワイトデーに毎年、クッキーをプレゼントしてきたあのデブ……　何度断ろうが、どんなに私が嫌がろうが、しつこく、勝手に机の引き出しやら靴箱の中に手紙を入れ続けていたあのデブ……　友達と楽しく会話してると、廊下の窓から視姦するかのごとく、上から下まで舐めるようにいやらしい視線で見つめつづけてきたあのデブ……　卒業式の日、ドアから顔を半分覗かせ私の股下を凝視していたあのデブ……　意味ありげにニヤリと、笑い、ガキだったくせして、……ああ嫌だ！　ギョウチュウのようなあのデブ！　死ねばいいのに！　どんな困難にだって耐えられる、けれどあいつの顔だけには耐えられない！　あの青ざめて、オカルト映画に出てきそうで、何を考えてるのかわからないアホ面！　おぞましい！　おお、嫌だこと、オホホホホホ、おお嫌だこと、オホホホホホ。遺伝子がおかしいのよあのデブは！　死ぬのが当然なのよあのデブは！
　コーヒーを淹れに台所まで布ノ子はふらふらと階段をおりていった。そして、トイレにもよった。どっと疲れが襲ってきた。貧血で倒れそうになり、壁にもたれ、彼女はなんとか立ちあがった。でもぱたりとまた倒れてしまいそうだった。
　もう後戻りは出来ない。もはや理屈ではない。デブは箪笥の引き出しから網タイツを取り出すとそれを頭にかぶり、そして、頭をタオルできつく縛った。デブが急せかすように股を広げる。二人とも素面、しらふでやっているのだ、だが情熱は、……熱望や、希求、知的好奇心、アブノーマルな戦慄、おののきが二人を恋の魔法にかけていた。他の参加者はくつろいでいて、用意されたディナーに舌鼓をうちながら赤ワイン、白ワインなど、それぞれの嗜好にあった酒を飲んでいた。「乾杯！」「乾杯！」この二人をとめれる者などもはやいなかった。ただただ俺も壁にかかった絵画を眺めるのみ。楽な姿勢でソファーに座り絵画を見続けるだけだった。デブと牧師は二人だけの花園、はなぞのに足を踏み入れていたからだ。農夫は靴を磨き始めていた。殺されるぐらいなら、こっちから殺ってやる、一つしかない命、俺の命、……そういえば犬橇があったな……、あれを鋸で切ってしまって……、無事に終わればいいが……、やるせないぜ……などと思いながら。二人は雪崩れ込むようにもつれあいながら、寝そべり、体と体を絡めつかせ、牧師は唾をぺっと吐くとそれをデブの肛門に、丹念に入念にべったりと塗りたくり、屹立した一物を、最初、ヌプうとゆっくり押し当て挿れれるか確かめる、どうやらいけそうだ牧師は確かな手ごたえを感じると、グイグイとチンポを突き刺した。
「あぁうぅ……」デブの半ば開かれて、天井を見つめている目が、そのじんわりとした目に涙が滲む、虹が見えた、どこか遠くを見ているような目に。そして、少年時代憧れていた布ノ子の顔が蜃気楼、しんきろうのように、笑いながら、やさしく微笑みながら、デブを見守っていてくれている。清楚で、可憐で、おしとやかな成人女性に成長した布ノ子、長く、キューティクルな黒髪、かわらぬえくぼ……ああ、俺は今、ペニスバンドを付けた乗田布ノ子、のりたふのこさんに犯されているんだ、やっと俺の願いが叶ったんだ……
「布ノ子！　布ノ子！　いま、俺はあなたを手にした、手中にした！　布ノ子！　いたいけな布ノ子！　大切な人、あなたは僕の味方……、この世で生きつづけられていられるのは……、だから俺は……」デブの顔が、火照って、ほてってきだしていた。
　持ってきたコーヒーをこぼさないように注意しながら、机の上に置く前に一口すすると、布ノ子は統合失調症の薬を取り出し、むさぼるように、睡眠薬とともに飲み下し、しばしモニターを見つめていたが、『いいでしょう。あなたがそんなに私のことを想ってくれているなど知りませんでした。そんなに私に会いたいのでしたら明日にでも会いましょう。私はもう他人の野次なんか気にしません。他人の目を窺うこともしません。もう男の人はあなたしか愛しません』と、デブへのメッセージ文を書き始めていた。タイプする自分の指をもはやとめることが出来なかった。何かにとり憑かれたように布ノ子は長文をタイプしつづけた。キーボードを叩きつけるようにして。そして送信してしまうと、ベッドに倒れふした。しばらくうっ伏していたが、顔を少し上げると、枕元のうさぎのぬいぐるみをしばらく放心して眺めていた。行き着く先は闇だというのに……、でも、泣いていられない。ネチネチ、してる場合じゃないんだ

　　　　７

　大木が聳えている。この人々が寝静まりつつある農家のすぐ脇に。農夫は、デブと牧師の妖艶な交接には目もくれず、数々の思い出がある楡の木陰へと赴いた。枝がスリムだ。バレーダンサーの細長い腕のようにしなやかにくねりながら伸びきっている。それは暗くて見えない。その中の一枝は農家の上にまで伸びていて、その腕が、何かを屋根の上に置きたそうだ。リンゴか何かの果物を。満面の笑みを浮かべながら。どうとうとした姿で。だが今は、それは暗くて見えない。農夫はよくこの樹の幹に背もたれし、鳶などを見ていた。パイプを燻らせながら、脳をクラクラさせながら。鳶も農夫を俯瞰していただろうに。鳶は農夫を見下ろし、それがエサになるかどうかをそのバイオスコープのごとき鳥の視力でもって、くまなく、鳥瞰し終わると、それがわずかばかりだが抵抗力を有する老人だと知り、それをエサとするにはわずかなリスクを伴うとし、弧を描くように山の裾野へと旋回していく。だが、それで、農夫の暗く沈んだ心も晴れるのだった。木の枝によじ登り腰かけ、あたりの景色を見回した。すがすがしい、少年時代に戻ったようだ。雪崩落ちるように葉がしなだれている。街へと続く赤茶けた道のはるかかなたに車のライトが見え、だんだん、近づいてきている。それは紛れも無く、HB鉛筆を1万本積んだ宅配便だろう。もはや、もう、くる。ライトの照射範囲が一秒ごとに広がっていく。地に下りなければならない。勝負であった。逃げることは出来ない。立ち向かうしかない。農夫はライト、そして、街へと続く一本道の真正面を睨みつけ、木をバックにし、全身に力を込め立ちふさがった。足の腿肉に力が漲っていた。農夫は木靴で、土を蹴り上げた。わずかな土が浮き上がり、そして粉となって、地面に落ちていく。カーテンが閉ざされた窓からわずかに漏れる明かりとかすかな月明かり、だが農夫の目は暗闇に慣れだしていた。農夫は土くれを、眺め終わると、樹肌に手を当てて、その一部分が、切り取られてある木の幹を手でさすった。　……十年前ぐらいだろうか、農夫はこの木の幹を少し斧で切り裂くとそれを自室に持ち込んで、彫刻刀で女性性器をリアルに彫り刻んだ。通常、その彫刻品は土の中に埋めて隠していたが、抑えがたい性欲が湧き起こると農夫は土のなかからそれを取り出し何度も何度も舐めては恍惚の表情を浮かべるのだった。クンニだ。農夫は何度もその木くれを舐めまわす。感情を押さえ込んでいるようなそんな息苦しさを感じると、農夫は欲望のはけ口をその行為で代償するかのように貪るようにその木くれを舐めまわしていたのだった。『穢れた世界は美しい』農夫の思想はその一点にだけ集約されていた。彼は自称アブノーマリストと隣村まで宣伝しまわっていた。それは宣伝というよりも、酒に酔った農夫の咆哮であったのだが。アブノーマルのプロ、だと、専門家、だと、酒に酔っては人目もはばからずわめき散らすのだった。
　まもなく、楡の木の前に車がとまった。運転手は、助手席に転がしてある蜂蜜のビンを取り上げると、ダブダブのジーンズのポケットに無理やり押し込み、車外へ出る。金銭を受け取るやいなや、運転席に座る前に蜂蜜壺に指を突っ込み舐めようと、考えていたからだ。そして、仕事が終わった充足感に包まれながら疲れた体を休めるように運転シートを倒し、だらけた姿勢でechoを一服し、そしてエンジンをかける、その一連の動作が運転手の頭に実現可能な、もはや疑いを挟まないシュミレートとして、脳にイメージされていた。
　農夫は運転手に声をかけた、「その荷物を降ろすのを手伝いましょう」。運転手は不意に現れたこの男に狼狽し、ギョッとし、戦慄を覚えたが、農夫は続けて、
「私はこの家の主です。荷物が届くのをまだかまだかと待ちわびていました」
「い……、いえ、いいんです、お言葉はありがたいですが、荷物を降ろすのも僕の仕事ですから」
　この言葉を聞くと、農夫の表情が一変した、般若の相になった。
「こら、てめえ、おれんちの前に勝手に車とめてんじゃねえよ！」
　運転手はとっさに状況を理解できなかった。無意識に蜂蜜ビンの蓋をあけて、指を突っ込んでいた。そしてその蜜がねっとりと付いた中指を農夫の顔の前まで差し出すと、「舐めませんか？　甘くて美味しいですよ……」
　農夫はそっと運転手の腕を脇にそらすと、唇を尖らせて、耳打ちした。
「まあ、それはあとで、で、いいじゃないか、俺はお前と友達になりたいだけだよ」
　サイドブレーキを引いていなかった軽トラが田んぼの方へ後退していた。運転手が農夫に向けて立てていた中指を舐めながら、軽トラの後ろにとっさに回り、力いっぱい押し戻そうとしている中を、農夫はドアを開け、運転席に座り、エンジンをかけ、アクセルを強烈に踏み込もうと、その前に、深い深呼吸を始めだしていた。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="18975" seq_num="20" title="堕愛" letter_count="2121" updated="2009-01-26T10:56:11+09:00" published="2009-01-26T10:23:47+09:00">
		<section><![CDATA[　閑散としていた酒場が騒がしくなってきた。街の荒くれどもが集まりだしたのだ。マスターは酒をカウンターに並べていっている。誰もこの酒場の周りには近づこうとしない。誰も。まともな人は誰も。
「バーボンだ！　持ってこい！　ロックだぞ！　水で薄めやがったらしょうちしねえぞ」
　下卑た笑い声。
　神経質そうなメガネをかけた金髪の男が笑い続ける。尚吾を頭のてっぺんから足元まで見やり、「ギャハハハハハ」
「てめえ、何がおかしいんだ！」
　角ばった顎。毛は薄い。背はさほど高くはないががっしりとした体型だ。したたか酔っているようだ。
「お前が尚吾か。マジうける。何がおかしいかだって？　お前の風貌がおかしいんだよ！　鏡、見てみろよ。ギャハハハハハ」
　酒瓶が割られて投げつけられる。やせた男が蹴倒され、組み敷かれた。
　ストリートではたいした驚きもない。
「おい、おい。ケンカだぜ」
「また尚吾だろ？　何回ムショにぶち込まれたら気が済むんだあいつは」
　よくある光景だった。
　馬乗りになって殴り続ける。何度も何度も。殴る。殴る。ひたすら。やせた男はぐったりし、叫ぶことすらできない。無抵抗に殴られ続けている。
「どうした。俺がおかしいんだろ？　笑えや。犬のえさが」
　頭部から大量の血が流れ続ける。パトカーのサイレンが響き、やせた男の顔につばを吐きつけ、立ち上がる。栓の開いていない酒を一つ手に取りやせた男の頭部を蹴りつけ、裏口からとおりに出た。人ごみに紛れ、裏道で酒を飲み、眠りこける。
　朝陽がまぶしく、ふらつく足で表通りまで歩く。
　出勤する男ら女ら。尚吾をジロジロみる女がいた。長身で茶色の長い髪。目鼻立ちが整っており気高い。気取っている。
「ちくしょう。なめやがって。犯す。ぶっ殺す。糞女が。女のくせに男をバカにしやがって。地獄みせたるわ。糞が！」
　汚い獣を眺め、あざ笑い、女はビルの中に姿を消す。外資系商社だ。デスクに座るといつものセクハラ上司が近づいてくる。ハゲた猫背のさえない男。
「今日もきれいだね」
　化粧をほとんどしていない素顔に近い顔。
「そうです？　化粧もしてませんよ。もうどうでも良くて」
「いや、それがいいんだよ。そそるよ！」
　肩をもむ。何度も何度も。視線は胸のふくらみに。背中をさすりながら、
「がんばってよ！　期待してるんだから！　また励ましにくるよ！」
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。何もかも嫌だ。誰も助けてくれない」書類を持ってくるブスな同僚。「『たいへんね』だと。同情を装いやがって。お前の目が。お前の目が。私の不幸を喜んでるって言ってんだよ！　醜女が！　てめえはお茶だけ汲んでろ！　一生！」
　通りにサラリーマンの姿がではじめる。OLも連れ立ってビルから出てくる。太陽は真上で光をそそぐ。
　薄汚い男がベンチに座って見つめてくる。朝の男だ。ギスギスした眼差し。品定めするような。
「おい。昼メシか？　一緒に食わねえか？」
「汚らしい薄い毛だ！　私を誘うなんて何様のつもりだこいつ！」
「直子やめといたほうがいいよ。危ないじゃん知らない男についていったら」
「うるせえブスが！　てめえは黙ってやがれ！　いちいち嫉妬しやがって！」
「直子ねえ行こうよ。この人変よ。変な感じだわ」
　直子は考える風に立ち止まって動かない。放心状態のようだ。
「なあ行こうぜ。知ってるバーがあるんだ」
「ええ、いいわ」
「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。ぶっ放したい。銃をぶっ放して。みんな殺してしまいたい」
「直子！　行っちゃだめよ！　何があっても知らないわよ！」
　同僚の女が去りゆく二人に嫉妬交じりの言葉を吐きつける。傍から見ていてもブザマな女だ。
「醜女が！　ギャアギャア騒ぎやがって！　てめえは一人でメシ食ってろや！　小汚い虫けらが！　てめえは蛆虫以下だ！」
　裏道にある一軒のバー。まだ店は開いていないようだったが尚吾はかまわず入っていく。店内は雑然としている。床には割れたビンや血痕の跡。掃除をしていたマスターが青白い顔を尚吾に向けた。
「尚吾さんこんなとこうろついてちゃだめですよ。昨日の男死んじまいましたよ。さっきも警察が来たばっかです」
　気にせずカウンターに座る。
「死のうがどうでもいいよ。何かメシ作ってくれよ」
「はい……分かりました……」
　直子は表情を崩さずタバコをふかしている。
「何食うか？」
「何でもいいわ。ジントニックは飲むけど」
　ぺペロンチーロが二皿差し出された。
「朝、何で俺をジロジロ見てたんだ？」
　直子はフフと笑い、
「あんたが不細工すぎるからよ」
「なめてんじぇねえぞ！　糞アマが！」
　直子の頬を張りつけ、尚吾は椅子から飛び降りる。
　殴り倒し、馬乗りになり殴りつける。直子は無表情のままだ。尚吾の顔に手が届いた。眼球を抉り出す。
「うぎゃあ！　てめえ何しやがんだ！　こら！　ぶっ殺してやる！」
　直子はポケットからナイフを取り出した。
　マスターが叫ぶ、
「殺しあえ！」
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="3078" seq_num="21" title="●　○　○" letter_count="5164" updated="2009-06-08T14:57:35+09:00" published="2008-02-10T08:57:13+09:00">
		<section><![CDATA[　蝶がドブ溝にうかんでいた。可哀相に思ったが、そのまま通りすぎていくと、「助けてやれ」と声が聞こえた。また、数歩、歩くと、今度は、
「見捨てないでくれ」とつぶれた声がした。木の枝ですくいあげて土の上に置いてやったが動かない。死んでいた。一晩あれこれ考えて寝た。プレハブの横を駐車場へと歩いていくと、昨日すくいあげた蝶がまだそこにいた。すぐ近くの草むらでその蝶が飛んでいた。まったく同じ形、同じダークオレンジに黒の斑点。同じ種類の別のたましいをもった蝶々……、美しいまとわいとはとても言えない蛾のような蝶々……。
　歩道を老人や自転車がゆきかっている。じょじょに、じょじょに、ブレーキペダルを踏みしめる。「あの娘かわいいな」と、反対車線にとまっている乗用車の女性に視線を送ると、女の子はプイとそっぽを向いてしまう。こっちもおまえなんかに興味ないんだよってふりで、窓外の景色を見やると、数十のひし形、ダイヤ型の輝く窓がある。ダンスホールにおかれたカッティンググラスばりに。歯科医院の窓で、いつも目にする。ガラスの間に見え隠れし、ちらつく白衣姿の女性たち。
　あの中にあこがれる世界がある。オレンジ色の光がうす暗い歯科医院。そこでは清楚な歯科助手たちが……、ねそべりながら頭にやわらかい乳房を押しつけられ虫歯をチェックされる中年の男もいるはずで、
「はい、もう口を閉じてもいいですよ」などと言われてるのがうらやましくてしかたなく、よほど不快だったのか、栗色の髪をした歯科助手が窓辺に立ちどまりカーテンを閉めた。風に木々がゆれている。枯れ木の枝に芽がある。たくさんある。芽が出ない自分。あの芽どもはいつか必ず花を咲かせるのに、自分は芽が出ないまま……。いや、芽は出るんだ、あのたくさんある芽の一つなんだ、今が冬の時代なだけで。カーステレオから流れる絶唱している奴がおかしかった。初めは、ＣＤを流しているのかと思ったが、どうも違った。ラジオでのライブ演奏で、フロントガラスにしたたる水滴！　あらわれては消える水滴！　などと歌っていた。女の子は対向車の男がまだ見つめつづけているのにイラつく。ハンドルの下からタバコの煙がゆっくりあがっていっている。ハンドルの左右は花屋で買った造花がプラスチックケースに入れられてある。むらさき色の小さい花がたくさん。信号が青になると彼女は立体駐車場へと車をすべりこませてしまう。
　路上に猫がひかれていた。大草原を夕照りがそめあげる時刻、さっぷうけいな空き地の、ボロボロのブロック塀が影をのばす頃、おい茂る草むらを猫はのっそりのっそり歩いていた。だけど、今は、路上からたましいを天国にのぼらせて。雲の切れ端は杉の木に隠れていて、車窓からは見えなかった。鳥が６羽上空を飛んでいた。どうやって出会った６羽なのだろう。なぜ一緒にとんでいるのか。この中のオスとメスの２羽が愛しあい子供を作ってこれから育てていくのだろう。あの今は大空を独立独歩して飛んでいる鳥たちもどこかの巣で産まれたばかりの頃は、ピヨピヨと鳴いていたんだろう。成育してどこかへ行こうとこの世をさ迷っている鳥たち。まだ巣でピヨピヨ鳴いていたころのように、もう巣にいたころのようにピヨピヨ鳴いているばかりではなく、でも、その頃と比べて何がしか余計に知っているわけではないだろう。エサのありか、とりかた見つけかた眠るための安全な場所などは親ドリから教わっただろうが、それらの他には何も知らないまま、それでも何かを知ろうと飛びつづけているんだ。
　○●○　ゆくてをさえぎる○○●　だがすすんでいいとも示す。そして待っている間、考える時を与えもする。高さ制限厳守　４，２ｍなんて、もし４，３ｍの身長の人がいたらここを歩くなとでもいうのだろうか？　屈んで歩けと？　でも背骨に鉄柱が一本はしっていて屈めなかったら死ねというの。自分だって同じようなもんだ、似たようなもんだ。屈めない、屈めない、芽が出ない、芽が出ない、ドアノブをひねり、いつもの部屋、いつもの安息所、かくれが。でも何かを期待しつつ開けると、いつものようにゴミが散乱している。タバコの吸いガラの山だ。今朝、ここで吸っていたのだ。片ひじついて、昔のことを思い返しながら。飲み終えた午後の紅茶のペットボトルを左手で、気が狂ったように、ふって、電灯をつけたり消したりするためにぶら下がっているヒモを叩いて遊んでいた。
　イタクもカユクもない毎日。心が燃えたたない、心に張りがない、まったくない、意志も、意欲も、意義も、意識も、倫理も、喜びも悲しみも痛みも心地よさも。
　さびたネジが落ちていて、たぶん３、４ヶ月前に検査場でネジの通りぐあいをしらべたあとポケットに入れたまま帰って、部屋で取り出してそのへんに置いといたのだろう。月日の経過でこんなにさびついてしまったのか。
　今日、職場で、
「ねえ、これ使う？」と、おばさんが、中ポリとか呼ばれているものを指さして話しかけてきた。溶接したばかりの製品を投げ入れるから底はグシャッと変形していて、くすんでいる。油で。黒ずんでいる。黄色や青色をしており側面になんとか製作所とか、なんとか工業とかなんとか製造とか物産とか精機とか、鉄工と書かれてある。ガムテープが何度もはられてははがされたその中ポリはガムテープがはがされるたびにねばねばするんで、ほこりが付いて黒ずむ。
「ええ、使いません。どうぞ」
　おばさんは立ちつくしたまま、
「ねえ、あなた末っ子でしょ？」
「あ、はい。……あ、いえ、弟がいました……」
「お父さんもお母さんも６０ぐらいでしょ？」
「いえお父さんは４５ぐらいです。お母さんは、いたら６０近くなってたでしょうけど」と、言うと、
「そう……。お母さんのほうが年上なのね……」
　それからもう質問はせず、何と感じたのか、しくしくとすすり泣きはじめた。
　休憩所にはテーブルがあり灰皿がいくつか並んでいる。４、５分しかないしけた休憩時間にしがない男たちが集まってタバコをふかす。壁には「お客様に満足していただける製品をお届けする」との張り紙。黒い縞のある、大人の頭がすっぽり入るぐらいド太くヤバイ百足ムカデのような感じでだいだい色したホースが狭いプレハブ内に何本も天井から垂れ下がっていて、生命維持のためにそれが必要かのよう。作業時に出る有害なけむりを吸いこみ天井を通して外へと逃がす。これが取り付けられていない号機もあり、そこは窓を少し開けて、換気扇を回す。窓には白く薄いプラスチックの板が上枠と下枠にきっちりはめこまれてあってそれが遮光するおかげで、日が差す作業時にまぶしい思いをしなくてすむ。バイス近くの窓は誰かがかつていきおいあまってハンマーを投げとばしたのだろう、割れていて、ビニールテープで補強されている。床一面、グリーンのペンキで塗られ、白や黄色のラインが何本も走っている。フォークリフトがたえまなく動いており、床には車輪のあとが残っていて、ハンドリフトはおばさんや新入りでも頻繁に使う。天井には規則正しく蛍光灯が並んでおりまるで何かの生き物の内部で働いているかのようだった。
　しばらくタバコをふかし今日の出来事についてぼんやり考えていた。神さまが今の仕事を選んでくれた、働いてなけりゃ、どうせ毎日鬱で、みんな仕事していなければみんなパソコンして、掲示板にわいわい書きこんで、そう、今よりもっと疎外されて生きていかなければならないだろう。みんなわいわい娯楽施設に出かけて、仲良くやるだろう。その中で一人だけ孤立して、などと。どうしようか迷いながら、だが缶コーヒーを飲もうと、ジャケットを着て、自動販売機まで向かうと、その途中、観葉樹なのだろうバナナの葉っぱみたいな大きな葉っぱが枯れていて、歩道の片隅にレンガでわくがつくってあって砂で埋められ、その観葉植物が何かの生き物のように視界にまとわりついてはなれなかった。妖怪人間ベロのように舌がダダダダ、と、出て、長く伸びてきそうだった。
　ふらつく足取りで、なんとか部屋に帰りついたが、寝不足のためか脳みそがギューとしめつけられていって、幻覚。天井の木目が巨大化していきグロテスクな馬の顔があらわれると、釘から長い長い蜘蛛の足のような黒いイナズマが出てき、不思議の国のアリスに出てくるトランプの兵隊のような５ｃｍほどの半透明の奴らがバイオリンやアコーディオンなどの楽器を演奏しながら、どんどん音符を部屋中に、天井へと、ふわふわばらまきながら近づいてきて、不気味に青や緑の顔色のそいつらはニコやかに、
「４，３ｍも身長がある人なんていないよ」
「キミもボクたちの仲間に入りなよ」
　体がギュっとしめつけられる感じがすると、だんだん気持ちよくなっていって、彼ら奇妙な音楽隊と同じ大きさになっていた。
「じゃあ、出発だ！」
　一人だけみんなと違って体が大きい奴がいて、大きいとは言っても比較してのことで、１０ｃｍぐらいしかないが、フナみたいな奴で灰色の顔に長くくね曲がったヒゲがはえている。流木みたいなものを持っていて木の棒でコツンコツンと叩き、音を出しながら、誰ともかかわりたくないのか、おくびょうなのか、一人だけ離れたところにいたが、背後から忍びよってくると、ツンツンそいつにつつかれ、
「キミは笛を吹きなよ、ハイっ」と、たて笛を手渡された。どの角度からながめても惚れぼれする素晴らしい笛だった。黒い光沢に呪文のような、アラビア文字のような白い線がクネクネしていて。
「その笛は死んだたましいを呼びよせられるんだよ。念じて吹いてみなよ」
　ピーヒャララ、ピーピーヒャララ、と笛を鳴らすと、肩近くに黒いまだらのあるダークオレンジの蝶がまとわりつくように飛び、足元には白毛の猫がちょこんと座って音符を見上げていた。首をかしげて。
「あらら。変な奴らを呼びよせたもんだね」
　ふと、われに返って、落ち着きなくそわそわして、
「あ、ボク明日仕事に行かなくっちゃ……」
「じゃあいまからいこうか！　みんな！」
「いえ……。明日の朝、仕事なんです」
「いいさ、いいさ、いけるさ！」　ズンタッタ♪　ズンタッタ♪　「ぼくらは～」　ズンタッタ♪　ズンタッタ♪　「いつでも～」　チャカチャカチャ♪　チャカチャカチャ♪　「さびしい～」　ズンタッタ♪　ズンタッタ♪　「だれかを～」　チャカチャカチャ♪　チャカチャカチャ♪　「さがして～」　ズンタッタ♪　ズンタッタ♪　「さまよう～」
　カラフルな音符たちがぷかぷかと撒き散らされてただよい、暗いトンネル内がその明かりで照らされていった。シャンシャンシャンと、あの巨大ムカデみたいなのから抜け出ると、会話声がきこえてきた。
「あいつ今日は遅いな。いつもならとっくに来てるころだろ？　あれ？　何か変な音楽が流れてないか？」
「なんだあのちっこい奴らは！」
「仕事なんかやめて、ボクらのあとについてきなよ」
　目をギョロっと剥き、
「バカやろう。男が仕事しないでどーすんだ！　手遅れになる前に早くこっちの世界に帰ってこい！」
　あのしくしく泣いていたおばさんの体が小さくなっていって後ろのほうで服装をきちんと整えたりしていたが、いつのまにか竪琴を抱えていて、タリュラリラン、ポロロロロン、と奏ではじめていた。すると、おばさんにそっくりな顔をした３歳ぐらいの少女がずっこけそうになりながらかけてきて、おばさんに手をひかれて歩きだした。
　そしてみんなでつらなって行進していった。あのオレンジ色の窓の中の世界へと。
「キャー！　なんなのこいつらー！」
　歯科助手はとりみだしてヨロヨロして座りこみ、花柄模様のピンクのパンティーをはいていることがみんなにバレる。歯科医は手もとを狂わせ、「あいたたたた」とおっさんが呻く、口の端から血をたらして。そんな光景に音楽隊の面々は、「あははははは」
「エアーだ！　こんな奴らエアーで吹きとばせ！」
　プシューとエアーをかけられ、蜃気楼のように、水面に絵の具をたらしたみたいに、体がうすくひろがっていき、直接エアーをうけたとこは、ピューッとその部分だけ壁面まで吹きとばされたたきつけられ、しずくになって、あとかたもなく消えうせた。どこかに。
「いやー大変な目にあったなあみんな」
「でも楽しかったよ」
「そうだね」
　どこかで今も笛を吹きながら、新しい仲間を探して。つまらなそうに空っぽのペットボトルで電灯のヒモを叩いているような人を。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2891" seq_num="22" title="ダディが及ぼした功罪" letter_count="2542" updated="2008-03-24T17:57:47+09:00" published="2008-02-06T17:45:50+09:00">
		<section><![CDATA[　襤褸を纏った長髪の男が歩いていた。日差しを浴びた彼の髪の毛が金色に輝いている。髪を染めていたのですね。
　しかし、髭が黒い。
　この男本来の毛の色は黒い色で間違いないだろう。ただ、それさえも疑ってかからなければならない世界なのだ。もしかすると彼の髪の色こそ彼本来の毛の色であって、髭を黒く染めているのかもしれないのである。いや、ことによると髭と髪で色の違う遺伝子情報の狂った男かもしれないではないか。前髪が揺れてたまに顔から覗く彼の二つの目も一方は青色で一方は黒色であった。これもカラーコンタクトをつけているからという説明で納得していいものなのだろうか。
　なぜ僕がこんなに素直ではないものの見方をしているかと読者の皆さんは不審に思っているかもしれませんね。それともイライラしてもう読むのを止めてしまおうと考えているかもしれません。言い訳をさせてもらえれば、僕は免許を取って始めて車を運転しているしだいなのです。疑ってかかることは教習所で嫌というほど叩き込まれました。僕の運転の適正は驚くほど低かったです。集中力のなさ、判断力のなさ、安全運転の意識の低さなど、木っ端微塵に、それこそぼろ糞な言われようでした。
　ですから今僕はこの長大なトンネルを前にして、車を土手に停車させ、入る決心がつきかねているというわけです。
　Uターンするにはあまりにも車幅がありません。溝にタイヤをはまらせたらおしまいです。ＪＡＦを呼ぶこともできません。不注意なことに電話番号がわからないのです。携帯電話も持っていません。いやあったとしてもこんな山奥では電波が届かないのではないでしょうか？
　このトンネルは幽霊が出ることでも有名なトンネルです。僕は幽霊を信じています。何度も見ましたし、何度も戦いました。グーっと頭を押さえつけられるような感じがすると僕は夢の中に引きずり込まれているのです。僕はそのとき夢だとわかっています。だからこそ怖いんです。現実なら獣人などはいません。河童もいません。でも夢の世界ではなんでもありなのです。そしてその夢は覚めるという保証がないんだよ……
　僕はトンネルの入り口のすぐそばに三時間ほどいました。思いあぐねた末に僕がとった行動は、笑いたいなら笑え！　本を読むことでした。
　郷ひろみの『ダディ』を読んでいました。時のたつのも忘れて熱心に読んでいましたが、ダディに対する周囲の無理解、冷たい仕打ちなどのくだりを読むにつれ僕は腹立たしい思いになっていきました。この本を読んだ方なら同感だと思いますが、誰からも理解されなくとも少なくとも僕だけはダディの見方だよと、僕は何度も繰り返し呟いていたのです。腹立たしく、むしゃくしゃしていたからでしょう。僕は一気にトンネルを通り過ぎてしまおうと決心しました。アクセルを踏みかけたそのとき、僕は危うく人を轢いてしまうところでした。何だってこんなところを人が歩いているんだ……、僕は確実に心臓が縮んでいました。ですが、その人物を見ると、なあんだ、と安堵し、まさにホッと胸をなでおろしました。
　山のふもとで車を左端に寄せて、地図を見ていたときに僕の目に留まったあのキリストのような男でした。彼は車の窓に顔を近づけてきて、僕を睨みつけ始めました。そして金をくれというように手を差し出しているのです。僕は窓を開け、自分でもわけがわからないまま、『ダディ』を差し出すと、彼は仔細にそれを見て、嬉しそうにトンネルの中に入っていきます。
　僕は興奮して我を忘れてしまった。大切な『ダディ』を奪われたことと（また買えばいいという単純なことがなぜかこのとき僕の頭に浮かびませんでした。浮かばないはずはないのですが、やはり幽霊を撮影しようとするとカメラが故障してしまうような、そんな類の怪奇現象かもしれません）、贈り物を嬉しそうに受け取った彼への感謝の念があふれ出たことと、しかしどうしてもそれは返してほしい、お金ならいくらでもやるから返してほしいという後悔の念、そんな複雑な感情が一時にどっと押し寄せてきて、無我夢中で彼を追いました。
　彼は振り向きました。追われているのがわかると猿のような奇声を上げながら逃げていきます。
「返してくれ！　それがないと続きが読めないんだ！　読み終わったら貸してあげますから！」僕は走りながら叫んでいました。4㎞ぐらい走ると車で追ったほうが良かったなと気づきましたがもう戻るには距離がありすぎます。しかし、この先どこまで追えばいいのかわからないので、いったん戻ったほうがやはり早いのか、そんなことを思い始めていると、1㎞ほど先に強烈な光が見えてきました。出口か、まずそう頭に思いつきました。しかし、出口ではありませんでした。雑貨屋でした。トンネル内で商いが行われていたんです。
　僕が追っていた男も店の前で椅子に座りタバコをふかしています。
「すいません、さっきの本返してくれませんか？」
「売った」
「え？」
　それまで雑貨の影に隠れていた店主が禿頭を突き出し、
「ああ、あれあんたの本だったのか。あんな貴重本めったにないから、三百円で買い取ったよ」
「いいものもらった。それでタバコ買えた。ありがとう」
「買い取ります！　買い取ります！　いくらですか！」僕の叫び声がトンネル中に反響した。
「うるさい声出すんじゃねえよ。ここで店やってんのは俺だけじゃねえんだからよ。買い取る気があんのか？」
「あります！　いくらですか！」
「それはダディに聞いてみなくちゃわかんねえなぁ」
　店主はそういうとメガホンを口にあて、
「ヒロミ・ゴー！　ご飯の時間だよ！」
　と叫んだ。
　と、同時にバイクの爆音が聞こえてくる。男の叫び声が聞こえる。
「ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴー　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！です！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！　ゴーです！」
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2892" seq_num="23" title="貧乏人は魂を売れ！" letter_count="1880" updated="2009-01-28T16:29:41+09:00" published="2008-02-06T17:48:08+09:00">
		<section><![CDATA[　汚い暖炉の横にめがねを置いて彼は手でこめかみを押さえた。何度も激しい頭痛が彼を襲っていた。
「フォードル。目を開けろ」
　膝をつき、半目で床の上を見ていたドストエフスキーの視界に獣のような足が現れていた。青い足で衣類を何もつけていないその悪魔は三叉鉾で地面をトントン叩いている。むき出しの太もも、脛に鉄針のような長い毛がビョンビョン跳ね伸びている。ドストエフスキーが首を心持ち上に持ち上げると、胸糞が悪くなるような顔をした悪魔と目が合った。祭りの露店に売ってあるお多福のような面構えだった。黴菌らしく触角が二本出ていて、顔色は青白い。
「どうだい？　俺と契約を結ばないか？　お前さえ良ければな。mu、hyuhyuhyuhyu。お前を世界一の大作家にしてやろう、だがお前が死んだ後には地獄に連れてくぞ」
　ドストエフスキーの脳が軽くなった。鬱積していた気分が晴れやかになり、希望が灯った。今の今まで彼を苦しめていた深い憂愁がもはや消え去っていた。
　悪魔はドストエフスキーの顔が晴れやかになったのを見て取ると、勝ち誇ったかのように笑顔を見せた。
「どうするのだ？　ホメロスやゲーテなどもはや忘れ去られてしまうぞ。お前こそ人類史上最高の作家になるのだ。未来永劫お前以上の作家は出てこないのだぞ。この地上に名声を残せばそれで満足であろう。もはや何を望むのだ？　躊躇うことなどない、ただ一言俺と契約したいと言えばいいのだ」
「う……う、う……、俺は……あなたと、……」だがしかし、ドストエフスキーもなかなか理性に打ち勝てないでいた。「ああ……、なぜあなたは俺にそんなことを薦めるのだ？　……なぜ他の奴ではなく俺に……」
　悪魔はmuhuhuといやらしく微笑んだ。
「buhaha！　お前は二番目だ！　トルストイのとこに最初に行ったんだがあっさり断られてしまったんでな、情けないことだが、あいつにいくら言っても無駄だと分かったのだよ。それでNO.2のお前のところに来たというわけさ！」
「NO.2……、このおれがトルストイ以下だと言うのか」ドストエフスキーの眉間に深い皺が刻まれた。
「当たり前だろうが！　gyahahahaha、お前とトルストイでは比較にもならんわ！　本気であいつより上だと思っていたのかお前は？　gyukyukyu、とんでもない自惚れ野郎だなまったく！　さあどうするのだ？　俺と手を組めばトルストイの才能も上回れるのだぞ！　あいつに勝ちたくないのか？」
「俺は今でも、トルストイより優れている……、俺の才能がトルストイに負けていると思い込んでいるお前と契約などしようものならどんな大作家にされるか分からないな。おおかたトルストイとホメロスでも足し合わせたような味気ない大作ばかい書く男にでもするつもりなのだろう？」
「gya、gya、この男には参ったわ！　お前の書いたもののどこがトルストイに勝っているのだ？　kyakyakya、あいつのように無数の物語をうまく錯綜させるだけの天性のストーリングテリングの能力がお前にあるとでも言うのかよ？　kikiki、場面と場面を有機的につなぐ神業のようなテクニックがお前にあるとでも？　お前がしていることはただ奇妙な人物や、狂人や、新聞から切り取ったセンセーショナルな事件や、残忍な描写などして低級な読者を騙しているだけじゃないかよ、お前にできることはせいぜいそれくらいなんだよ。俺はお前を本物の作家にしてやろうというのだ。俺と契約すればいい。ただそれだけのことさ」
　それから悪魔は甲高い声でmyumyumyuとずっと呟いていた。何かの呪文なのだろうか、ドストエフスキーの頭にそんな考えがよぎり、悪魔と契約する決断できかねた。何も考えられなかった。
「どうするのだ？　myumyumyu、早く決めろ、もう消え去るぞ、そうすればもうお前は二度と俺と契約することはできないのだぞ。後で後悔しても知らんぞ！」
　ドストエフスキーはとっさに悪魔の足に縋りついた。
「待ってくれ！　わかった。契約する！　だから俺を何千年も世界に君臨できるほどの大作家にしてくれ！」
　悪魔は満足げに頷くと、「よし！　お前の魂は俺が預かっておこう！」そう叫び、三叉鉾をドストエフスキーの額に突き刺した。
　ぐはぁ、と一声残し、ドストエフスキーは血まみれになり床に倒れふした。
　この日からわずか数年の間に彼は五大長編と呼ばれる傑作を次々に書き、天才の名をほしいままにした。今は地獄にいるらしい。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2900" seq_num="24" title="脱皮" letter_count="10799" updated="2009-10-26T11:34:38+09:00" published="2008-02-06T18:07:56+09:00">
		<section><![CDATA[　　Ⅰ　 　　さなぎ篇

　　　　１

　恐い。隕石が落ちてくるかも知れないから恐い。恐ろしい。暖炉が燃えている。俺が燃やした。燃やせばいいやと思ったから燃やした。燃やしちまっていいやと、燃やしちまおうぜ、って感じになって、おお燃えてる燃えてるって、燃やしたから燃えてるんだけど、薪に火がつくかどうか、つくかつかないか、どっちに転がるかって時は、燃えろ燃えろとほのかに願いはしたさ。だけど、燃えようが燃えまいが本当はどうでも良かった。本心は真心は、そう本音は。隕石さえ落ちてこなければ俺は俺は、俺は俺でありうる。俺が俺でいれる。別に隕石、落ちてもいい。俺めがけて落ちてこないなら、よそに落ちるぶんにはかまわない。
　4:38
　……ああ、そろそろ宇宙と交信する時刻だ……。いやだ。もう交信したくない。いやなんだ。まずもって交信服がいやだ。今日という今日は断固として交信しないぞ。俺は交信しない。俺は交信したくないんだ。だから交信しないんだ。いやだいやだ、もういやだ、交信にまつわる全ての事がいやだ。なんでこんないやらしい服を着なければいけないんだ。だがこの、半透明のウェットスーツを着なければ宇宙の中心から輝くγ波の木霊の欠片を感受できないのだ。肌にきつめにフィットしたビニール製だ。ほぼ、全裸といっていい。この姿で高台にある交信所まで徒歩で5分歩いていかなければならないのだ。交信所といっても何もない。青色銅鉱だらけの高台で町や平野を見おろす。その先は赤い眼差し、その藍は青い瞳。３段の階段をのぼり、宇宙との交信が始まる。たしかに俺はこれまでの生活がいやだった。だから交信士の資格を取ろうと頑張った。交信士の試験会場に集まった受験者は俺一人だった。ジュピターよ、何ゆえに？　しかしそれが世間の偏見の目と戦う日々になる第一歩だとは思ってみもしてはいやしなかった。ことに土日の交信が俺の苦痛となっている。この高台のすぐそばの道をくだっていかなければ動物園にはいけないのだ。いや車ならば駐車場からならば通らなくてもいいのだが、駅から歩いてくるやつらもいるにはいて、交信中の俺を写メでとっては大笑いしている。宇宙と交信するには自分のもつ潜在能力を顕在化しなければならない。そこで大きなポゼッションを占めるのが性欲だ。人間のもつ枯れることなき盲目的な性欲のほとばしりで脳内の奥底にあるy=sin(θ＋π)の周期関数の波動、太古の昔、人々はそれをエーテルと呼んだ年老いた惑星がその生涯を終え爆発し、巨大な重力場を作るエネルギーが、俺の体内で騒ぎ出し、勃起し、睾丸が精子を作る比率と月と地球の公転差の比率が3:7になった時、∞方位の周波を受信することができ、瞬間が限りなく0に近づく。つまり無限定の静止へと近づく。そのことによってわずかな秒数での遠距離との情報交換速度が、人間が物体を認識できる理解範囲までせばまる事によって、他惑星の知的生命体とのコンタクトが可能となるのだ。俺は、俺は宇宙交信士なのだ。

　　　　２

　ああ、なのに俺は今日もやはり交信に行かなければならない宿命なんだ。たった１日であったとしても無断欠勤などすれば交信士の資格を剥奪されるのは明白だ。日々最新の交信情報を伝達し続けなければ解雇ですむならいいが、野に下った交信士が無許可で宇宙と交信しおのれの欲望に欲しがるがまま半透明のウェットスーツを着たまま違う職につき交信から得た情報でインサイダー取引する恐れがあるとされ闇において抹殺されると聞いた。そして交信に適し電波を良質に感じとれる敏感肌になっている元交信士の肉体は高値で取引されパラボナアンテナの材料にされるという。俺はふとそんな風のうわさを思い返しはだかになった。走ればまだ時間に間にあうはずだと、交信服を着だす。俺たち交信士にあたえられた余暇は１日３時間。そのうち２時間半を睡眠にあて３０分で食事を済ませる。年中無休、あたりまえ。もう俺の小さなちんこが起ちだしていた。この調子なら高台まで急ぎながら道のりを俺の精神と肉体を宇宙と交えられるよう宇宙と俺の心の絆を一つにできますよう見えるものすべてを俺色に染めることも不可能ではない。つまり可能だ。しかしもっとナチュラルハイにならなければ。一刻の猶予もない、早くに。ああ俺はもう死にたいも度を越えすぎて生きたい。生きていたい。俺に宿りし霊魂よ、俺を至福へと導け！　幸い交信所には人っ子一人いない。来るが早いか脳天を殴られるような痛みだ。これぞ交信だ。俺は手を水平に広げる。いい感じ。錯綜する電波が無数の波となって俺の体をこすりあげる。もむようにこすりあげてくる。いい感じ。見わたす山々の桜に花びらがない。ソメイヨシノの開花が少し遅れているようだ。体、痺れる。きて、くれ。電波よ、途絶えるな。きて、くれ。ああ電波押し寄せ、俺、気絶寸前。そんな俺を見守っている女の子がいるのに気づいた。しかも驚いたことに交信服を着ている。俺以外にもこの町に交信士がいたのだ。俺の孤独も今日と言うこの日で終わりだ。だが彼女は俺が気づいたと見てとると、くるりと町へおりてゆく。ああ追いかけなければ。だが電波が、電波から逃れられない。ああ彼女の姿が見えなくなってしまった。どうしてもだめだ。勢いを増す電波が強烈な磁場を作り俺の体は身動きがとれないのだ。彼女は俺と運命を共にしないのか？　違う星の下に生まれたのか？　ああ、だが、いい感じ。いい感じだ。ああもういい感じだから何事もどうでもよくなってしまう。くだらなく思えてしまう。この電波の快楽というものは交信士を色魔に変えてしまう力を持っているようだ。たまらなく気持ちがいいんだ。言葉では言い表せないほど気持ちがいい。それほど俺は身を露呈している。それほど心は胸をはだけようこそ、そうですわたしが交信士ですと自己アピールしている。許しあっている。俺は地上の新生命なのだ。

　　　　３

　エレベーターの鏡に映る前髪を数回かき上げる。久々にきたオファーだ。ベランダで交信させてもらえるという。マンション、１１階のベランダ。地表とオゾン層の狭間で大気圏を破ることを諦めもがく人々の営む夜の町明かりと、天球にばら撒かれた無数の星々との距離感を押しはかるにはこれとない、goodpositionだ。汗ばむ額の液体を整髪剤として髪を整える。これは、決して、禿隠しではない。毛並みを気にしているだけだ。恐ろしい。何が恐ろしいかわからないが、恐ろしいことが恐い。ただ、いつもすぐ、事が終われば、あるいはことの最中であってもそれが懸念に過ぎなかったと気づかされるのだが。もしこのことを幼少のときから知っていたとしたら……　そして、力と、無愛想さと、優しさがなければ、やる気がない腐ったもやしであるいまも、狂人に対する対応はgoodvibrationだ。嘲笑われて何がいけない。俺は、室内に飛びこんだ。そこは、ホテルカルフォルニアを……弾けないギターを、爪弾いている人々の一室。どのギターも雑音でしかなく、歌声もなまっている。窓際族の集会だ。この窓際族たちは自分らの歌を交信周波にのせたいのだ。交信周波にのることは、それは、全宇宙がオーディエンスになるということだ。地球では窓際に追い詰められてはいるが、広い宇宙、自分たちを輝かしい神だと信仰する知的な生命がきっといるに違いない。彼らのリーダー目をキラキラさせそう語った。このリーダーは毎日喫煙所で皆に背を向けてタバコを吸っている。皆に背を見せて、世間に背をそむけて、人類に背をそむけて、太陽をあおぎみず、ただ口から煙を出す。この性機能不全障害症患者はユックリズムを集会に浸透させていた。喋ることとてない。リーダーはナックルウォーキングで喫煙所をさるのみ、仲間のいる集会場へといくのみ。腰を痛めてからこれでしか歩けなかった。俯いて床を舐めるように見ながらでなければ。この世に生まれた者は涙を流す。愛されなければ愛してもしかたない。"人として母なる大地に足を踏みしめているというのに俺たちはなぜうかばれない？　なぜ受け入れられない？　なぜ疎外されつづける？"　片手でかかえたトウキビを左右の脇に移し返しつつ、リーダーのいらだちはつのる。"これだけが俺の歩き方なのか？　ほかにないのか？"
「呼ばれてきた岡越進ですが……」
「バカだね」
「は？」
「くるとはバカだね。俺たちはお前には興味がない。俺たちが興味があるのはいちじくとマンゴーだけさ」
　リーダはそう言うとナックルウォーキングでテーブルの上に無造作に置かれた果実をとりに歩きながら、
「どこに俺たちの歌を？」
「え？」
「何座に？」
「えーと……、どこがいいですか？」
「君に見える一番星でいいよ」
「そんな……、アバウトな、僕、困ります」
　俺にはだがあるひとつの感覚があった。太陽風の隙間を縫って迷宮ともいえる惑星間の時空のゆがみの彼方から確かな周波の回路を頭の中で築きつつあった。しかし西北１７万光年の地点にブラックホールができつつあることをこのときの俺は知らなかった。もし知っていたら、あんな悲劇はおきはしなかっただろう。窓際族たちにおきた悲劇に俺は無関係ではない。いやむしろ加害者とも言える。俺の不注意だ。だが、この悲劇がなければ俺は愛を知らないまま死んでいたに違いない。俺は後悔の念に苛まれながら、彼らの死に様を語らなければならない。

　　　　４

　だが今は言うまい。
　彼らに起こった哀歌、エーハーよりも他にもっと言わなければならないことがあるからだ。あんな奴らのことはこの先も一生語って聞かせないかも知れない。
　俺がその歯医者に初めて行ったのは小学校３、４年の頃だ。幼い俺は痛がった。そこにはうら若き歯科助手がいて、やさしそうなかわいい顔をしていた。その２年後ぐらいにまたそこへ通いだすと「痛いっていわなくなったね」とほほえんでくれた。その彼女が熟女となってまた俺の歯を診てくれたのだ！　口の中に指を突っ込まれて、俺はしゃぶりたくてしかたなかったさ！　いろいろグリグリされて、舌が痛かったが責められているようで、感じてしまった。ちんこもだんだん大きくなっていって、もうどうにもとまらなかった。勃起すると宇宙との交信が始まってしまったが、半透明のウェットスーツを未着用だったので、深く引きずり込まれることはなかったのだが、すでに、
／／……ピ、ピ、ピ、オウトウセヨ……、ピ、ピ、ピ、ゴ、ゴ……、ワガナワ、ミスター・ペポット……、ゴ、ゴ……、アンドロメダ、ニ、ムケ、コウカイチュウ、ピ、……ゴ、……ゴ／／
　と、何者からかメッセージがビシビシ脳に届いていたが、やがて途切れてしまい、気がついたときには先ばしり液でパンツがぬれていた。変態なんじゃない？　そう思うなら思え。だがはっきりと主張しておく、これは純愛なのだ。今晩も来世も俺のたましいはあの娘に首ったけ。２０年以上前から知っている人とこうして時をへて再会するのはそれだけでうれしいものだ。社会保険に入っているのを見て彼女は「良かったね」と言った。だが俺はしがない交信士でしかないことを恥じた。そんなものバイトでも入れるのだ。俺は歯をいじくられている間ずっと彼女の目を見つめていた。その歯科医院はなんとなくぼろかった。それがかえって行きやすかった。俺はキレイなところは落ち着かないのだ。どことなくさびれている所が好きだ。
　客が二人だけしかいないバーに、ドアの先にステンドグラスが色鮮やかなとうめいのチェアーが静かにおかれてあり若い男と女がカクテルを口にはこんでいる。そんなアンニュイな夕べをぶちこわすべくもう一人の客がきた。そう入ってきたのは俺、交信士３０前。半透明のビニールジャケットに手提げかばんを持って。
「何あれ？」
「交信士だろ」ガーターベルトの男が答えた。
「何それ？」
「知らないの？　宇宙と交信できるらしいぜ」
「あの人が？」
「そう」
「うそでしょ？」
「さあ」
「なんで交信してるの？」
「……それは、わからないよ。聞いてみたら？」
「え～、やだ～」
　ガーターベルトの男はとほうにくれた。交信士の目がいやらしくにやりと笑って、ながし目になったからだ。これこそ俺の目。俺はエントツがケムリを出すようにタバコのケムリを口から吐き出して、
「マスター、風邪ひいたんだよ、マスター。おさまらないんだよ」
「ここは薬局じゃないし、薬は薬局で簡単に買えますよ」
「マスター、しまってるよ。薬局もうしまってるよ」
「開いてますよ」
「しまってたんだよ」
「たたけよ！　さればひらかれるよ！」
　人はそこをアストラルと呼ぶ。アストラルはみんなに必要なんだ。愛より必要さ。アストラル界さえあれば愛はいらない。
　そのガーターベルトの男は決して笑みを誰にも見せなかった。この男にふたたび笑顔を取り戻させれるものは、いまはいない。終始この男は無言だったのである。月収は１０万円。生活が苦しくなってから、それまで暮らしてきた家賃５万５千円の借家から橋の下を拠点として仕事前に安温泉の早朝風呂に入り、帰りはコインランドリーで洗濯してまた拠点へと戻るようになっていた。
　自動販売機が近くにありなかなか便利だった。
　だが、空を見ては、ためいきばかりついていた。
　バーのカウンターに座り女と語らっているこのガーターベルトの男、彼の趣味は合コンをセッティングすることだった。それは実現を目指していない。ノートに長方形を描く、それが机だ。自分の座る席を決め周りに女の子を配置してゆき一人で楽しんでいるのだ。あの娘を僕のとなりにしようかなー、などと。昔はノートを平面とみなして円形に女性たちをはべらせていたが、それでは飽き足らなくなって分度器で３次元的に、そう自分の真上にも真下にも女たちを並べるようになった、その球体の中心点にこの男はいて、ねそべり片方のひざを立ててそのひざこぞうの上に手のひらを乗せいている。狆は寝ている。その股のあいだで。マルチーズのようにおしとやかに。つまりこのバーも架空のバーなのだ。この世に存在しておらずこの男がノートでセッティングした妄想だ。だがそこに俺があらわれたのは嘘ではない。交信士は時を越えることができるのだ。それが妄想であれリアルであれ行き来する。でなければなぜアストラルと通信できようか？　
　アストラル、アストラルに巣食う生物はキノコのように地表に生え脳内で互いとコミュニケーションをとる。遠くにいる生命体とそれぞれの好む３次元空間を作り出してそこでさまざまの知的生命体と会話を楽しんでいた。Y字型の街路灯が道の中央に等間隔で並んでいて、その先端にラグビーボールのような黄色く光る楕円球がついていて、左右交互に光る、そんな所で。テクノロジーが発展しつくした星はすべてこのようになる。誰もが、永劫に生きられる。人肌恋しく、人見知り激しく、ひとり言淋しいこともなく。しかしやはり個体差が存在しあえてこう呼ぼうキノコたちの中にグループがうまれ、それぞれの利権を主張しだしていた。
「これではなぜ俺たちの祖先が地表からはえて、一人夢想にふけり、また他者とたたずんでいたのか！」
「何言ってるんだあいつは？」
「知るかよ、ほっとけよ」
「ほっとけないよ」
「変なやつなんだよ」
「そんな、聞こえてるわよ。かわいそうじゃない」
「きこえてもいいじゃん。きこえなかったらあいつが少しでもまともになるっていうの？」
「だから老いたものが徘徊する世の中から今の楽園をきずきあげれたんじゃないか！　また暗黒時代に戻す気か！」
「あいつまだ何か言ってるよ」
「しゅみさ」
　その時、シメジの形をしたロマンス・グレーの男が口をはさんだ。
「そう言うな、ピッポ」と、激シブのハスキー・ボイスで。「俺たちはな、こうやって争ってるのも楽しいのさ」
「おれは今までどおり暮らしていたいんだ」
「じゃあおまえはそうしてろ。俺たちに強要するなよ」
「……」
「おいおい、おもしろい考えがあるんだぜ。他の星によ、思念を送ってさ、そこの知的生命体と交流するんだよ」
「どうやって？」
「なにちょっと眠らせたりしてさ」
「そいつらを苦しませて観賞して楽しもうってんだな！」
　病院で医者に近況報告をして睡眠薬をもらって帰る道すがら、俺は交信士にすぎないことを思い知らされていた。その日ぐらしの交信士。誰かに、
「お前はしょせんバイトではないか」と言われているような気がしていた。ただ、マンションの通路から景色を眺めているとしあわせだ。エントツから煙が風にあおられてたなびいている。その下で働いている人々の声が聞こえる。
「なんで俺ばかしに燃やさせるんだよ」
「男ならだまって燃やしてなさいよ」
「そうよそうよ」
　そんな会話をよそに雑談の輪に加われない内気な新入りバイトがこんなことを思っていた。
『このまま永遠に年をとらずに職を転々としていたい。このときめきに胸をときめかせて何が悪い！』
　そこからは空ばかりで海は見えなかった。近くの高台から見える海もきれいだけど。また風がなくケムリがいきおいよく真上にのぼっている日は、エントツの下の工場では、
「なんでこんなもん燃やしてんだよ」
「いいじゃない、どうせ人生なんて希望はないのよ」
「こんなもん燃やしていいのかよ」
「燃やそうが燃やすまいが私たちの人生かわりばえしないのよ、燃やしちゃおうよ」
　などと、などと。
　紅色の空。雨足が速くなっていた。

　　Ⅱ　　　ぬけがら篇

　ケイビインが２名いた。彼らは生きることに疑問をいだいていて、なぜ生まれてきたんだろう、と、立っていた。リョウシツのタンパクシツでできたカラダだ。鳩肉、ゼンマイ、ホウレンソウを摂取することによって。丸ぶちメガネのその奥に、原風景、けものとともにこの地に生まれ散っていった先祖たち。ねざしかたは半端じゃない。雑草としか呼べない男たちだ。男たちにある原始のおたけびははげしく熱く、燃えるまなざし。まわりの空気はかぐわしい無臭。
「コーヒーブラック無糖を飲むやつは立ち入り禁止だぜ」
　彼らが見つけたのは、（ブラック無糖）
「そうさ、あたりまえさ。兄弟！　さとうが入ってないなんて信じられねえ、どうかしてるぜ！　さとうのありがたみがわからないやつなんか通せるかよ！」
　そして蘭野凛は、
「すみません、面接にきたんですが……」
　朝やけが染めゆくさ中、
「こいつはね、何か俺には崇高な使命があるのに、それを忘れさせられて地球に幽閉されてるんじゃないのかなとか思ってるんじゃねえの？」
「水中で動くマンタのプラモデル、作る、面接に……」
　ケイビインの小さいほう（猫背のためか）が、
「それでね、人生の渦にのみこまれ、がんじがらめでやりたいこともできない。やりきれないことばかりなんだよ！　こいつは！」
「マンタに水が入らないようにする内職の仕事を、もらいにきたんですが……」
　乱暴な男が、
「うるせえよ！　もう死地にいるんだよキミは。消えな！」
　猫背が、
「むろんそれはありえる」
　澄みきった光がきよらかに輝いている。
「こいつあれなんだよ、ＮＯ　ＳＭＯＫＩＮＧ　ＰＬＥＡＳＥのマークをさ、グッデイで買ってきて壁に貼りつけてだよ。おもえんちの、おもえの部屋だよ、おまえの名前おもえだろ？　そんでここは禁煙なのに俺はタバコを吸っているぜとか悦に入ってるんだろ、さもしいやつだねまったく」
　わかっていなさげな蘭野に、
「おまえなんか信用できねえんだよ、無いならともかく砂糖入りが売ってるじゃねえか、なのに好きこのんで無糖を選ぶやつなんかに社会が寛容である必要があるのか、考えてみろ、出なおしてくるな。おまえはもうここでは信用ならねえ、ブラックリストだ。身分証明書をもってこようがだ、ギゾウだ！」
　そんな情景は露と消えてしまう。プレハブの窓が開くことによってだ。
「なにをごちゃごちゃわめいてるんだ貴様ら！　朝っぱらから！」
　グリーンの作業服をいなせに肩にかけて、まだ着ていない半裸体のおやじが叫んでよこした、目やにでひらかないまぶたのまま。何も見ずに。
　しなだれている茎の先に２つの求めあう魂が結びついて花が咲いている。それは現実ではさまざまな障害にあって実らなかった恋人たちの子供。それは愛、わけへだてのない。1兆年たっても、電車で隣同士乗りあわせただけの赤の他人で終わろうとも。
　猫背が気をもんで、
「ブラック無糖なんていきがってるだけだ」
　気をはいていて、
「そんなのは、できる男だと、眠らない男だと、俺には女も必要ない、仕事だけが生きがいだ、さあ仕事だって、そんな自分に酔ってるだけじゃないか。ほんとはまずくて吐き出しそうなのにな」
　もう片方も、
「アンハッピーですか？　人生つらいことばかりですか、死にたいですか？　生きていても何のいいこともありませんか？」
　と、欄野に詰め寄っていたが、プレハブ内から実権掌握者が、
「こいつらはろくにマンタも作れないからケイビさせてるのさ、気にせず腰をおろしてくれ。土の上に座ってくれ自由、きままに。ああ悪いが中へはいれてあげられないが、あるていど内職でキミの真面目さがわかってきてからだ、もしキミに適性があれば工場勤務にしてやってもいい、とにかく今は中はダメだ」
(中はダメよ子供ができちゃうから)乗田布ノ子はそう必死に訴えていた。が、客は耳をかさず、
「中はいいぞ、熟女だらけさ。キミ、作業中熟女のおっぱいが当たってしまうんだよ。わざと当てようと思わなくてもさ。それはつんと突っ張っていて硬い。弾力があって。ギュッと押しつぶされているような感触なんだ、それが熟女の胸もとファンタジーなのさ！」
　凛も耳をかさず、「それはきょうみないです」
「まあそういうなよ」……なんという美声……「気恥ずかしいだろうが、瞳孔ひらいてうれた体をなめまわすようになるさ。とくに結婚してない35歳前後の女性ときたら、まあなんてそそることか！」
　凛はおもわず手に力がはいりブラック無糖をあおり飲む、そしてこぼれてついた液体を袖口でぬぐうと、
「この仕事、僕にできるでしょうか」
　男は目を開けた、いままであけていなかったのは、あけられなかったから、まだ目やにが固まっていて、やっとあけたその瞳はキラキラと、
「心配いらないよ、できないこともできるようになるさ。もっとできるようになるさ！」
　そんなシャウトに黙り込み、欄野が見ていたのは、(古びれたマンション)
　だんだんうれしくなってくる。昔の気持ちがよみがえってくる。ガキだった頃の思いが。なつかしい感情が。雨後のたけのこのように。──雨後のたけのこ見たことあるか──楽しくなってくる、鼓動がとまることはない、彼女を思いきり笑わせたい。
(近い、ほんとうに彼女が住んでいたマンションに近いんだ)
　風景を眺めている面接者に、
「ここはいい場所さ。ごらんのとおりさ。俺は朝おきると、かけがねをぴんと指でつまはじいてね、木枠の窓をあける。日差しがすっと差し込んでくる。アルプスの少女も顔負けさ。ベッドから跳ねあがってひばりのようにつんつんと爪先だって階段をおりて」　……暖炉に薪を入れては燃やし始める。明るい陽光の木々しげる森は緑の歌う光がゆれていて、小川の水面に稲穂を映して、とまどう背を押すそよ風が一人だけの孤独な朝のポエムをそぞろ囁いている、ぶらぶらと生き所帯をもてず、夢や希望も捨てるしかなかった人生に、最高のスマイルを投げよこしてくる。奇妙にふるえる手と声帯と、干草のかさなりと、はずされた足枷の圧迫されていない開放感。
　凛は、思う。
(宇宙にとってあの女はなにか、この世界に宇宙とあの女の二者しか存在していないとしたらあんな女、汚物だ。バケモノにすぎない。虚空の宇宙空間にぽつんと漂う彼女は一人では自足することができず、意味もなくはえている四肢をもがかせ二つの眼球をもつが何も見えない。彼女の足が意味をもつのは大地の上だけだ。彼女の容姿が意味をもつのは同じ姿をした異性の性欲によってだけだ。それらがないとき彼女はバケモノにすぎない、だが俺がいる。だから彼女に意味がしょうじるのだ。俺によってだ。俺の魅力によってだ。男の体臭によってだ)
　いくらシャワーで洗い流しても客につけられた匂いはすぐにとれそうにはなかった。タオルで体を拭こうとするがマフラーだった。だが一時の錯乱が彼女を襲って、そのまま手拭タオルにしようと、生地をさすっているうちに愛着がわいてきて、本来あるべきマフラーとして首に巻こうかという考えが首をもたげてくる。だが首を吊りたくもある。どちらにしようかと心は揺れていた。心だけじゃない、肉体もボロタオルのように弄ばれ、ファッションヘルスに与えられた小部屋で次の客を待つ、どんな客が来るのか不安で、手が震えてうまく体がふけなかった。ブラッディーマリーを床にこぼしたまま……蛾のブローチで巻き髪をゆいあげて、耳が半分かくれるぐらいに留め金を差し込んで、半びらきのくちびるで、
「一生死ぬまで一緒にいるんだから一日でもそばにいないとさびしい」と、ひとりつぶやくそんな女、乗田布ノ子は。
　……凛はしばらくもぞもぞとしていたが、
(僕には彼女にアプローチする資格がない、フリーターだ、ただの、だけど僕は人生で成功する前に彼女と結ばれたい。じゃなけりゃ、彼女が僕の何に惹かれたのかわからなくなってしまう。僕自身に惹かれずに僕に付随する属性に惹かれただけにすぎないのかと、疑ってしまうから。だからそんなのは僕の破滅でしかない。僕のアイデンティティの。だから僕は３０になってもフリーターを続けてるんであって、すべて彼女のためというか彼女のせいだ、マンタを作る気になったのもそれだけの理由なんだ。いつまで僕を待たせるのか！)
　欄野はマンションをにらみつけた。
「僕を信じてくれるのは今しかないんだ」そうつぶやいて。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2901" seq_num="25" title="老人と赤ん坊" letter_count="1196" updated="2009-07-06T17:22:51+09:00" published="2008-02-06T18:08:33+09:00">
		<section><![CDATA[　爽やかな風が吹き渡る大地に齢百歳の老人が立っていた。この老人は丘の上に立っていた。胸には布でくるまれた生後、四、五ヶ月の赤ん坊。老人はいつくしみながらこの赤ん坊を育てるつもりだった。老人の腕にしっかりと抱かれて赤ん坊はすこやかに眠っていた。
「もうじき砂嵐がひどくなるな」
　照りつける太陽が容赦なく老人のあれた肌を焼く。老人は皮袋を口に運び、のどを潤した。
　見渡す限り赤茶けた大地が拡がっているさびしい所だった。老人は歩き始めた。
　二日後、ある小村に到着した。
「すみません、何か食べ物を施してもらえませんか？」
　老人は戸を叩きながら、そう呟いてまわった。ようやく、気のよさそうな太った女が藁小屋の風通し窓から顔を出して、にこにこと笑いながら、
「まあ、かわいらしい赤ちゃんですわね。よければ私がお乳を飲ませましょうか？」
「それは願ってもないことです。助かりました。感謝します」
「いえいえ、私はお乳をあげるのが好きなんですよ。ちょうど私の子供が乳離れしたとこだったんです。まだまだお乳が出ますんで、ちょうど良かったぐらいです」
　籐椅子にゆったりと女は座り、肩をはだけて乳房を出した。慣れた手つきで赤ん坊を抱くと、小さな赤子の唇に乳首を当てがって、吸うように促してやった。鍬や、弓などが壁に立てかけられてある。この家の主人は働きに出かけているのだろう。
　ゆったりとした時間が流れていた。鶏の鳴き声と子供たちの遊び声が混じりあい野外から聞こえていた。ときおり、この不意の訪問者を見に、子供たちがやってきては、立ち止まり、珍しそうに老人を眺めては駆け出していった。
　やがて、夕暮れになると囲炉裏がともった。働き疲れた主人が猟から戻り、撃ちとった三匹の鳥と、青く澄んだ魚を女房に手渡した。女房はさっそく獲ったばかりの鳥と、魚をさばき、イモ類などと共に土鍋の中に入れ、囲炉裏にかけた。味付けは塩だけを入れた。食べ終わると老人は、
「お世話になりました。では、そろそろおいとまいたします」
　と、言い、立ち上がった。
「何をおっしゃられるんです。外はもう暗いではありませんか。今晩はぜひ泊まっていってください」
「お言葉はありがたいですが、私は夜の暗闇の中を歩くのが何よりも好きなのです。心配なさらないでください」
「あなたはいったいどこからこられたんですか？」主人と女房は戸口まで老人を見送りながら尋ねた。
「遠い国からです。かつて栄華を極めたある都からです。今は見る影もありませんが」
　老人は星を見つめながらそう答えると、窓から光をもらす家々の間を通り過ぎ、星明りを頼りに荒野の中をさ迷い歩きだした。
　一体いつまで旅を続けなければならないのだろうか……　一体何度、飢えをしのがなければならないのですか……　教えてください……　神さま……
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="2857" seq_num="26" title="白鳥の湖に沈む男" letter_count="3241" updated="2010-01-25T07:24:13+09:00" published="2008-02-06T04:16:21+09:00">
		<section><![CDATA[　私はその劇の虜になっていた。いつのまにやら。ついつい見てしまうのだ。見始めたが最後、最後まで椅子に座ったまま席を立てない。立つことができないのだ。動きたくないんだ。トイレも我慢している。早くトイレに行きたいから早く劇が終わらないかななんて、微塵も思いはしない。思いつきもしない。お漏らししたほうがましだ。お漏らししてお終いまで見たほうが私にとって最善の選択のように思える。私は常々最善の選択を心がけている。トイレのドアを右手で開けたのなら左手でペーパーを巻き取る。それが最善だと思われる、インスピレーションを感じるからだ。その直感に私は素直に従う、耳を傾ける、耳をそばだてる、いつだってそうさ、アンテナを周囲に張り巡らせているのさ、そして多様な情報の中から必要だと、これはしなければいけない、これはしたくない、あれがしたい、あれはやりたくない食いたくない、これが食いたいんだ、そんな食料であれば食欲、まあその他を総じて私の衝動と言ってもいいだろう、そうだ私は私の衝動に突き動かされているのだ。突き動かされていろんなことをやっているのだ。いろんな目にあってるんだ。私は自分の欲望に支配されているだけの操り人形にすぎないのだ。いろんな地図も描いている。趣味でも描くがある家を探しているときなどにも描く、家というかある芸術館などだ。ミュージアムだ。あたりまえだ。知らない土地さ。知らない土地に降り立ついい男さ。育ちが違うんだ。地図など２秒あれば描ける。もたつかないのさ、いい男は。いい男ってのはそんなもんだ。シャっとライターを取り出しタバコの先っちょにジュポっと火をつける。缶コーヒーのふたをカシャっとあける、そういうものだ。あけるために使う指は人差し指だ。親指と中指の二本だけで缶コーヒーなど持ってしまい、そこで人差し指さ。あけたときの第二間接の角度はジャスト４５度。ぎりぎりのところだ。ポケットから地図を取り出す。道は直線で表し目指すポイントが角から何軒目かをまるで表記してあるのだ。私はいつもそうしている。あの坂道のあそこで車を停めればあの家の風呂を覗く絶好のポジションを確保できる、というようなことだ。車を停めて、すばやくPだ。パーキングにオートマ車の、とにかく、操作さ。そしてシャキっとハンドブレーキを引いて、ライトを消す。この一連の動作、流れるようさ。怪しまれてはいけないのさ。見たいものが見れなくなるからさ。まさに女体とは芸術だからだ。私はそういう典雅なことを愛する男だ。つい劇場に足が赴くのだ。確かに私は芸術がわかる男である。その感性があると言うことだ。その傾向があるのだ。傾きやすいのだ。生まれ持っての性質さ。そんな傾向と対策を胸にがっしりとこの浮世に四肢を一本一本降り立たせたわけだ。つまりそれが芸術であるのか芸術でないのか、要するに、それが芸術であるのかそうでないか、わかりやすく述べると、それが芸術だとするとどれほどのものか、それが芸術ではなく猥褻画だとするとどれほどの猥褻画なのか、それを言えるのだ。言うことができるのだ。言うだけの素養があるのだ。教養があるんだ。学があるんだ。華があるんだ。だからさ、見境なく誰でも好きになるんだ。華があるからしかたないんだ。やりたいんだ。いいものを見たいんだ。見たいだけなんだ。無理にとは言わないんだ。いいものを見て心を入れ替えたいんだ。その上リフレッシュもかねたいのだ。欲張りさ。芸術に関しては私は欲張りなほうさ。それは認めよう、それに恥とも思わない。もう慣れてしまっているのさ。こんな自分に。欲の皮が垂れ下がっているのさ。いやらしい顔つきをしているだろうよ。そんな顔は誰にも見せはしないが。見せたくないのさ、見られたくないのさ。見られるかもしれないと思っただけで足がわなわな震えてとまらないんだよ。だから私は暗闇が好きなのさ。暗いところに自分はいて明るい舞台を見るのさ。そんな私を見抜くことは不可能だ。私だと誰にも見破れないのだ。できぬ相談なのさ。私色に染まらぬものに私の何がわかると言うんだ。私色に染まらぬやつは私以外のものに染まっているのさ。そんなものが私のエリアに入ってこれると言うのか。私のエリアに入ってこれぬものが私を保護観察できるのか。できぬのだ。ならば誰にも私を見抜くことができないと言って、はばかって、歩いてみたり幅を計ったりしてもいいだろう。ババ抜きをするのもいいだろう。ババをするのもいいだろう。馬場を汚して馬主に怒られるのもいいだろう。しかしだ、私は誰をも私色に染めようとはしないのだ。誰も染まらないわけじゃない、そもそも染めようとしていないのだ。試みていないのだ。染めたくないのだ。したくないだけのことであってできないわけじゃないのだ。だが白鳥の湖、これを見ているときは別かもしれない。この劇だけは観劇中に我を忘れてしまうのだ。クライマックスが近づいてくると周りが見えなくなる。その時、そのほうけた私の姿を誰かに見られているかもしれない。一目惚れされているかもしれない。つくづく罪な男さ。幕がおりた瞬間、感激とともに私は人々を見回す。誰も私色に染まっていない、その安堵感が観劇のあとすぐさまやってくる。興奮の汗、冷や汗ともに襟首を濡らし、額から冷たいしずくとなって滴り落ちる。なぜ私はこんななのだろうか？　なぜに自分の醜い部分を出せないのか、人の目ばかり気にするのか、私がやっていることは欺瞞だ。何の情熱もない、それはその通りかもしれない。だが、そんなことはないんだ。情熱は私の中にちゃんと眠っているのだ。寝ているだけのことなのだ。私は私の情熱をその発露するままにまかせずに、まるでもう情熱などもてない年頃なのですと言わんばかりに情熱にやられないようその情熱から小出しに小出しに引きちぎってきては熱い恋などもうすまじ、傷つくのが怖いんですもの、なんて臆病風に吹かれてる癖して、冷淡に装って、私はあなた方に関心がないんです、人として最低限の接触はしますが、ふれあいますが、振舞いますが、笛も吹きますが、吹けと言われれば吹きますが、言われなければ吹きませんが、ふるいから落ちる粉をただ見つめていたそんな時代もありましたが、私は何にも興味がないんです、少々劇をたしなむぐらいでなどと、あーっ！　私はこんなことまで口走ってしまうようになってしまっていたのか！　これはもう性根から腐っているとしか思えない。私はこの性根を徹底的に鍛えなおすつもりだ。自分がいやになってしまったんだよ。そうだ、私は本物の白鳥の群れつどう湖でこの身を清めに行くべきなのだ。そうせずにはおれないんだ。だけどさ、もしもさ、彼女ができちゃったりしたらさ、それはそれとして、この話はなかったことに、今回は残念ながら見送るとの方針を打ち立てるよ、それはそうだ、それはしかたない、彼女と二人で缶カフェオレと缶レモンティーでも飲みくらべっこしながら白鳥を眺めながら静かな時を過ごすだろうよ。しかしこんな短期間ではできまい。それはありえない。私にとってガールフレンドとは一生に一人できるかできないかの大存在であって、巨大な熱を放つ小惑星なのだ。それがたかが東北北海道めぐりの旅程の間にできようものか。その確率は0,01パーセントもないのではないだろうか。やはり私は白鳥の群れに混じって何年か溶け込んでいなければいけないのだ。すっかり馴染んでしまうまで何年かかるかわかりはしない。20年はかかるような気もするが、そろそろ、湖の中へ入水しに行くしたくをしよう。これからはそこで生きるのだ。そこが私の場所なのだ。きっと生まれ変わった姿で帰ってくることだろう。それはもう妖精のような姿だろう。決して妖怪ではない。妖精そのもののような姿さ。身も心もだ。いくばくかのつき年を湖上で過ごしただろう私は、紛れもなく白鳥のような男に生まれ変わっているはずなのだ。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="4910" seq_num="27" title="白鳥の湖に沈んでってる男の湖底まぎわでの精神状態" letter_count="1789" updated="2008-11-05T16:04:35+09:00" published="2008-03-15T19:03:57+09:00">
		<section><![CDATA[　毎日、毎日オラはクワで田んぼをすくだが、オラのほこさき、ふんどのいきどおり、もはやがまんのげんかい、りんかいてん。すってもすいても田んぼかたくちひょうにこわばりついててこれが土とはオラ、思ったこと一度もねえ。これさ岩さ、かたいんだもんこれ、かたくオラのあしさきからふもとの村まで、１００ナノメートル、きっこうにしばられたままこれは辱めだ、げきりんにふれる、だがなわでしばられてクワで田をすくしかすべがねえ、春たけなわでしゅんのしゅんさいをあさめしにこさえて、田にでたはいいが、なすすべがねえ。田はもうすかれていてオラのクワがはいりこむ余地あまりねえありさま、惨状がロテイされている、ろこつに、せきららな、ささやきが、肋骨に、あからさまに、かたいんだぜこの土。いっこうにニダメのうちちょうちゃくをくりだせねえ弱腰のままファイティングポーズかまえて誰にともなく、村社会の最初の反抗者は吉幾三、にして、アフロヘヤーで、当時斬新だった、俺は、オラは、俺は、空はどしゃぶりだ。まるで僕の心をあらわしているようだ。僕は病気なんだ。薬を飲まないと再発するといわれてるんだ。でも僕は僕なりに考えがあるので自分の判断で薬を飲むことをやめている。そのせいか、このごろ、脳みそを吐きだしたくてたまらない。かゆいんだ！　脳みそがかゆいんだ！　そんなことあたりまえ、もちろんの範囲内だ！　聞くな！　だまれ！　言わすな！　黙ってきけ！　全身ふるえて脳みそ吐きだしたくてたまらないんだ！　激しく寒気して脳みそ吐きだしたくてたまらないんだ。ヒョウテンカ２℃でバナナで釘が打てるんだ！　嘔吐したい。セックスしたい。
「ちゃんと釘が打てるようになったじゃねえか」
「いや、まだまだです、おやっさんみたいにはまだまだ」
「おめえいい大工になるよ」
　だが、だけど僕はおやっさんまで血に染めたんだ。まがった鍬はエモノを求めつづけて、だが、そうだ見ろ！　いま、僕のまわりには誰もいない！　もう誰も僕をはげますこともなく、あるのはただ沈黙し、貝のように口をとざしてしまった、目に見えるものすべてが、ただ一つ残された聖書を手にとり、すがりついてはみるが聞くとこでは、７世紀のなかば聖書からスケベな言葉が、高僧たちによって一字一句にいたるまで抹消されたという。つまりいま現存している聖書は不完全なもので永久に本来あるべき啓示は聖書から得ることができなくなってしまったのだ。こ、高僧の判断は正しかったのか、たとえそれがハレンチきわまるえぐい言葉であったとしても、いやだからこそ、欲にまみれた庶民には理解しやすかったのだ。みじかに感じられたのだ。神を実感できたのだ。だから、理解できたんだ。自分だけ理解しといて、ヒントとなるエロエロなたとえを隠して、私がこの高遠なる書物の伝道者ですづらして、そりゃ自分らはエロいたとえで内容を完全把握してるから、「このへんよくわからない」つうかわい子ちゃんに朝きかれたらちょうど家にかえれない夜更けになるころ、見計らって、かわい子ちゃんが理解できないようにわざと変なことくちばしったりして混乱させてそれでも間がもたなかったら、「少し自分の頭で考えてみるがいい」とかエラソーなこといって、自分でも問題がなんだったか性欲に目がくらんでてわからなくなってて、部屋に篭り、原聖書からエロいところばかりを抜き出してる抜粋集をよみだして、「あの子はこれをききにきたんだなあ、じゃあこうこたえれば、そんけいされるぞ、やれちゃうぞ」て安心して、期待に胸ふくらみ、もう一箇所ももちろんふくらみ、もう質問の答えに役だつとこ読んじまってるのに、「まだだ、まだだ、今いっちゃったら、彼女よろこんで家にかえっちゃう」て、はやる気持ちを抑えようとして、腕立てふせ、５回ぐらいするが、すぐきつくなってやめて、なにもすることがなく、ひまで、投げ出してた抜粋集をとりあげて、なんかもういやらしい中でもなんかそそる部分だけ拾い読みしだしてて、なんとも言えない気分で空想にふけりだす、すると、世紀も地域もちがう赤の他人の想念と混じりあい、人格までもが変わってしまう、俺が農夫で、牧師がおまえで、そんなふうに意識が交換されちゃって、ただただリンネのハザマを鍬をかかげてたゆたうのみ。繰る日も、繰る日も、果てしなく、せわしなく。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34251" seq_num="29" title="サーティーン・イン・ニューヨーク・シティ" letter_count="3535" updated="2010-08-06T19:52:05+09:00" published="2010-08-06T19:51:56+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　　1

　俺はニューヨークの街を脳の中に再現させたい。イメージしたいんだ具体的に。頭の中にはっきりとした映像でだ。ビンビンくるようなもんビンビン。俺はもともとが九州生まれのいなかっぺでうどんはこしがあっちゃ許せねえ。やわらかいうどんが大好きだ。加ト吉食べて不味いし。東京に対して多少は憧れみたいなのがあった。だが、加ト吉倒産しろ。そもそもこしがあったら噛むのに疲れて仕様がねえだろ？　そうではないか？　ううん、どうだ？　間違ったこと言ってるか？　まあいい、ともかく大都会。そんなもんから来る喧騒の街という、まあ、左脳から入ってくる情報だのみでしか、そう、漠然としか東京についてはなにも感じるところがなかった。あえて言うなら、クリスタルキングの歌う、果てしない夢を追い続け、アァウアァウァーッ！ってイメージだったんだぜ、マジだぜ。俺いつもマジだぜ。だが今回はニューヨークシティを俺の頭の中にイメージする必要がある。なぜならば俺はニューヨークの街を脳内に持っていなければあいつとガッツリ四つに組めないからだ。相撲で言えば。おってそのわけは話そう、つーか、つーかってわかるか？　というか、とか、そんな意味あいのちょっとくだけた言い方だ。洒落ているだろう？　君達も気さくな言い回しを覚えたまえ。今、言うが俺は眉毛が太くて角刈りでスーツ着てていつもなんか、ピストル不法に所持して持ち歩いてて、眉間にしわ寄せてる無口な男に命を狙われているのだ。そいつのあだ名のまつびには13という忌まわしい数字までついていて、そんなヤクザな男に俺は付けまわされている、さっさと殺せばいい、人をそうなぶるのか！　いつまで泳がせておくのか俺を！　とにかくもう俺はニューヨークの街を頭の中に作り上げてそこに住むしか生きる道がない。なにせ俺を狙っているのはかの有名な凄腕のスナイパーだ。こんどばかりはもう俺も生き延びれないと観念している。やつはこの世界屈指の殺し屋だ。無表情で、なんのためかもわからぬ、ためらいもなく人を撃つ。冷徹だ。えぐい男だ。悪いやつなんだ。最低だ！　ちんぴらだ！　それでも男か！　まさに俺と好対照なのだが、そんな、もう、俺もう道歩いてるだけでもう、いつ狙撃されるかわかったもんじゃなく、もうはらはらしてるわけで、あんまなんも考えたくない。ニューヨークの街を再現しなくちゃいけねえが、文献、調べる気力もねえ、めんどくせえ。俺は逃げ場所がもう半端なくねえからニューヨークの街に逃げ込まなきゃいけねえ、やつがそこまで俺を追ってくる、それはわかってんだが、あいつ執拗だから、だが、どうせ死ぬならニューヨークの摩天楼のど真ん中で死にたい願望が強くある、死ぬ前に華やぎたい。もとが二枚目が売りの好男児だ。硬派だったんだぜ、女なんぞ寄せつきゃしなかったもんだ。ピンサロ行っても花びら三回転のところを二回転で、「釣りいらねえ」って帰るぐらいで、「二回まわったね」ってお世辞で店を褒めるほどで、クリスタルキングでいえばサングラスを付けてるほうだ。どっちかっつーと。これマジ。誰が見ても。
　ニューヨーク、そこは人がいっぱいいる。夜なんかぶっそうで街を歩けねえぐらいだ、地下鉄は、あれだ、黒人がマラカスかなんかもって音楽聴いてんだよ、ここもうニューヨークだ、ここもう、頭んなかで再現できつつある、この東京の街が俺の中ですでに架空のニューヨークになりつつある、そして、つまるところさっそうとニューヨークの日本料理店に入る俺といったところか。
　俺の中のニューヨーク、耀かしい。俺の脳がニューヨークなんだ。頭ん中いっぱいニューヨーク詰まってる。この、俺だけの街、ニューヨークの中にサーティーンを誘い込むつもりだ、なぜならばそこがそここそが俺のホーム、サーティーンのアウェイだ、だからだ。やつのアウェイだからとてやつが俺に負けるとはそりゃ限ってはいないが、やはりやりにくいはずだ。それに俺の胸を弾丸で貫くことだけでは俺を殺すことはできない。それは医学的なことにすぎない。俺の作り出した俺のニューヨークの存在はどこかに、たくさんの可能性の中にもはやその要素のひとつになってしまっている。俺の街ニューヨークは俺が死のうが残るのだ。やつは俺の存在を厭う誰かしらから依頼されて俺をこの世界から消そうとしているが、俺の創り上げた幻想の街ニューヨークごと俺を葬らなければサーティーンは依頼主から俺を殺した報酬を受け取る資格がねえと俺は撃たれる前に叫ぶ。お前は半端な殺し屋だと、叫ぶ。俺の作り上げた街ニューヨークを消せねえ、そんくらいの程度の小者だと、叫ぶ。サーティーン！　俺の作り上げた街ニューヨークにやってこい。そこで勝負しようじゃないか？　結構もうきてるぜ、ビンビン、俺、ニューヨークの街イメージ出来てきつつある。もう片足突っ込めるぐらいに。

　　　　2

　日差しが激しく自由の女神に降り注いでいる。俺は、女神のスカートの襞らへんに腰掛けて葉巻を吸いながら海を眺めているとこだ。渋いぜ、俺。国際人。日は眩しく目を開けられないぐらいだが、開けなくていい。うつろいゆく海が近くにあるのはいい。カモメめ。鳴いてやがる。カモメめ。……俺に非はない。殺される理由などない。普通に生きてきただけだ。なぜ殺されなければならないのだ。俺はただ日々柔道に明け暮れていただけだ。朝早くおきて道場にいって、そこのお師匠さんの娘がうぶな娘でえっさえっさ、白い息吐き出しながらお堂へ通じる階段を駆け上ってきた俺を木の陰から見つめながら、「うふうふ」笑ってくれてたものだ。俺はちらりと流し目を送りそのまま道場に殴りこんで、「たのもー」つって騒いで、畳ひっくり返して、マッチに火をつけて投げて逃げて、寺の木、蹴りまくって、「これぞ柔らの道、やわらかくなれよ乳ぶさ」つって、よく鍛えたものだ。俺もまたうぶだった。寒い冬だった。
｢好きです｣の一言が言えずに荒れていたんだ。それぐらいうぶな好青年だったのはこのエピソードでよくわかってもらえたと思う。いま、俺とお前、うん、共感、連帯感！　同じ星の仲間。
　えいやーっ、つってよくお師匠さんを投げ飛ばして苛め抜いた、すると娘が｢お父さん大丈夫｣って駆け寄ってくる、するとお師匠さんが｢大丈夫にきまっとる、女子供が道場に入ってくるな。わしは藤岡に技を覚えさせるつもりでわざと投げられとるんだ。わざとだ。ほんとはわしのほうがぜんぜん強いんだ｣つーんで、｢お師さん｣つって俺は泣きながら｢お師さん、俺強くなります｣つってガンガン投げてたらお師さん急にオシになっちまって口からもの言わなくなったんだが、最後に｢強くなれよ、ふじおか｣つって死んで、俺投げ殺しちまった、そんで俺腰に手を当てて瓶牛乳一気飲みして、「今日も元気だミルクがうまい」つった、だから、そんな悲しみを背負っているんだよ俺は。だから何だよ！　そんな簡単に暗殺されちまったらお師さんが死んだ意味なくなっちまうんだ！　だから俺ほんと強く生きる！　だけどよ！　そんなことより朝飯うめえ！　このおしんことお茶漬けうめえ！　茄子のおしんこでお茶漬け食うこの爽快感これ、これぞ俺の思い描いていたニューヨーク。これこそ俺のニューヨークシティ、っておいしく食ってたら、やっぱすげえわ、油断もすきもあったもんじゃねえ、この機を逃すような角刈りじゃねえなこいつは俺後頭部にマシンガン付けられちまってたよ、こりゃやべえわ。
「HOLD　UP」
「なに気取ってんだてめえ、日本人だろ、日本語でいえや」
｢手を上げろ｣
「オーケーわかった。しかしよく来たな。俺の創り上げたニューヨークへようこそ。歓迎するぜ。俺はお前が来ないかと思ってたところだったんだぜ。怖くなって逃げ出すんじゃねえかって思ってたんだ。だがお茶漬けの香りにふらふらと迷い込んできやがったか」
「つまらんジョークだ。心配するな。楽に逝かせてやる」
「ふんっ。……よくここがわかったな」
「なに簡単なことだ。俺にとってはな。それよりさっさと手を上げろ」
「あげたら撃たぬのか？」
「いや、あげた瞬間に撃つ」
「なんだと？　そんなこと聞いてあげるわけないだろ。警察呼んでいいか？」
「ダメだ。HOLD　UP」
　そう、これこそ俺の思い描いていたニューヨークだ。さあ、撃ちぬけ角刈り。俺の頭蓋骨を撃ち抜いて、俺の築き上げたニューヨークもろとも俺を葬り去ってしまえ、いまだ、いましかない手を上げるのは。
「さあ、撃て！　お前には撃つしか脳がねえんだから！」
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34254" seq_num="30" title="lonely heart broken" letter_count="4134" updated="2010-08-06T19:56:37+09:00" published="2010-08-06T19:55:57+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　その日も何事もなく終わろうとしていた宵の夕べ、宵の夕べ？　まあ、いい。僕は、魔法使いのババアにカエルにされてしまった女の子の物語を思いかえしたりした。『「うちのこと好きっちゃか？　激しく好きっちゃか？」目が好きだと語っていた。「うれしー、ダーリン！」』……確かそんな漫画だったと記憶している。「やさしさにゴメン」とかわけのわからない意味不明なことを主人公がささやいて、校舎の屋上から翼はためかせ飛んでいくんだが、確か、『エリスに感謝』というタイトルの漫画本だったと思う、思うが早いか、頭上から、漫画本が落っこちてきて、僕はおでこに怪我をしてしまった。何事かと、敷きっぱなしの布団の上を見れば、その『エリスに感謝』が転がっている。
「ああそうか……」僕は合点がいった。ファッションヘルスで貰った『また来てね！』などと書かれてある大量のカードをその漫画本に挟んで、親兄弟に見つからないように、うまいぐあいに電灯に隠れるようにして、ガムテープで天井に貼り付けておいたのだった。
「思い出したとたんに落ちてくるかな、しかし」僕はため息をつく。鏡を見れば額が少し血でにじんでいた。
　僕はこの漫画にはある種の感慨があった。この漫画の329ページ目に主人公が大好きな同級生の家に夜這いにいくシーンがあるのだが、僕はその影響を受けてしまって、従姉妹が泊りがけで遊びに来たときに、足音で両親を目覚めさせないように細心の注意を払って、従姉妹が寝ている部屋へと忍びこみ、彼女のパンツを脱がせ、うっすらとはえかかった恥毛をいとおしむように舐めたりしだしたんだ。従姉妹は目覚めたのか、「うーん」などと呻いて、寝返りをうつ。僕はズボンをひざまで下ろし、いきり立った陰茎を彼女のふっくらとして柔らかかった股間に押し付け、擦りつづけ、射精したんだ。最低さ、僕は。でも、最高な夜だったな。

　　　　２

　僕はしばらく憮然として、『エリスに感謝』を読みふけっていた。主人公が赤い瞳をした少女の銅像の目を覗き込むと、別世界にワープしてしまうんだが、僕は読みながら呆れてしまった。まったくくだらない、そんな銅像なんてあるわけないだろって。近頃、僕は物事を皮肉な目で見るようになっててさ、特に男女の純愛物なんて読んだ日にはへどがでちゃうな。こんなもんあんのかって、まあ、あんだろうけどさ、ただの性欲に過ぎないものを美しく、美辞麗句並べて見せかけてるだけじゃんって、そもそも、もう僕は漫画本なんてくだらないものからは卒業してるんだ。今だって、天井から久しぶりに落っこちてきたからちょっと読み返してみてはいるものの、もうこんな本、ゴミ箱行きさ。……つい勢いで感情的にどっかできいたような罵言を吐いちまったけど、実は、もう完全に忘れてしまってるストーリーの続きがちょっと気になってしまっていて、またパラパラと怠惰に、僕はページをめくりだした。
『「エリスに青春を返してやって！」「何を言う！　私はエリスのためを思ってこそ彼女を白痴にしてやったのだ！　彼女のように美しく脆いやさしさに溢れた魂で、この薄汚れた世の中を生きていけると思うのか！」』
　なんだこれは、臭いセリフだなぁ、なんてことを思いながらも、ちょっと話に引き込まれてしまって、焦るように次ページを開いた僕は、ビックリして目が点になった。白紙のページに赤黒い文字で、「お前はこの世界にやってくるべきだ。ニヤニヤしながら読みやがって。寝っころがっちゃってさあ」とだけ書かれてあったのだが、そのページを何がなんだかわけがわからずに見続けていると、文字が一文字ずつ、まるでタイプライターで文字を打っているように追加されていって、「私はお前を拉致する者だ、理由などはない、それが趣味だからだと言っておこうか」と書き加わっていった。そして、ページが七色の光を発しながら渦を巻くように輝き始め、僕の体はだんだん小さくなっていって、その本の中に吸い込まれていったのだった。まるで嘘のようだ、僕はとっさの出来事に驚くことしかできず、ただその異変の間、呆気に取られていた。動くことすらままならなかったんだ。

　　　　３

　僕はだったっぴろい、よく清掃が行き届いた、ピカピカに光り輝く大広間にいた。明かりは燈っているのかいないのか、よくわからないが、大きなシャンデリアがいくつも取り付けられてはいる。薄暗いようでいて、そのくせいろんなものがハッキリと見て取れた。薔薇が何本も突き刺さるように活けられている大きな花柄の花瓶、それを乗せているクルクルと巻貝みたいに脚立がなっている台。部屋はブルー一色といってよかった。それは壁が青色だったからだろう、くすんだようなブルーだった。でもよく見るとシャンデリアは透明のようだった、ただ、その壁の青色が反射しているのか、薄いブルーに見えていた。花柄の花瓶がやけに目に付いた。そこだけが真っ赤だったからだろう。やがて、そうだな、何分ぐらいたってからだろうか、そこらじゅうを歩き回り始めた僕の頭上から声が響いてきたのは。
「おいきみ！」太くて、低い声だった。どっかにひっかかってかすれてるんじゃないかって思わせるような、「きみはなんでここにきたかわかっているのか？」
　僕は恐怖心にかられ、無我夢中で出口を探すけれどもどこにもない。いや、窓が一つあることにはあるのだが錠がかけられていて、鉄柵で塞がれているんだ。
「どうやらわかっていないようだな。ここはきみ専用の反省室なんだよ、花瓶の上を見てみるがいい」
　僕はギョッとした。そこには『吉田文彦君専用反省室、この部屋は悪いことをした吉田君を閉じ込めるために作られたもので、他の人の入室を固く禁じます。管理者、物部陽一』と彫られていた。
「お前、悪いことしたろう？　ええ？　お前は純粋無垢なお前の従姉妹に何をしたかい？　ええ？　言えるかい？　ええ？」
　僕はとっさに床に頭を打ち付けて土下座の姿勢をとると、
「すいませんでした！　僕が悪かったです！　どうか、許してください、許してください！」と嘆願しだした。この部屋からもう一度出て自由になりたかった。それしか頭に思い浮かぶことはなかった。
「ダメだね。きみは心から反省していないらしいからね。きみはその悪事を思い出させるはずの漫画、エリスに感謝をせせら笑いながら読んでいたね、本来ならやってしまった取り返しのつかないことを嘆き、羞恥心で、もう本を読み続けられなくなるのが本当だろう。それをきみは漫然とした心で読んでいた。彼女はきみのした破廉恥な行いでどれほど苦しんだかわかっているのかい？　頭さえも狂っちゃったんだよ。知ってるだろう？　彼女が発病したのはきみが原因なんだよ。それに、私が書いた漫画、エリスに感謝は漫然とした気持ちで描かれたものじゃなかったんだよ。私は１ページごとに私の全身全霊を込めていた。まさに血で描いていたようなものだ。その私の本をきみは漫然と読んだんだよ。きみは真摯に読むべきだった。だが、もうそのことはいい。きみの腐りきった性根はいくら言ってもなおらないだろうからね、おやおや、きみはなにを首からぶら下げているんだい？」
　頭をたれるだけで、身動き一つせず、頭上の声に耳を済ませていた僕は、首にかかっているものを、手にとってみた。ピンク色した紐パンティだった。なぜ、僕の首にこんなものが……
「これは僕は知りません、僕の首に勝手にかけられてたんです」なみだ目になって、もはや逃れられないだろう刑罰のことを思い、どうして僕だけがこんな目にあわなければならないのだろうと、この世を呪っていると、
「それは違う。この部屋はきみが反省をしているのかを見る部屋だ。きみがいやらしいことを考えていれば、その対象物がきみの身の回りに現れるようになっているんだ。ついいましがた、きみの首にパンティがかかっていたようにな。もしきみが心から反省することがあるのならまたその念がある対象物に憑きまとい、それがきみの前に物体として現れるわけだよ、だがきみが今首からかけているのはピンクの紐パンティだね」

　　　　４

　その時、回廊からこの漫画の主人公と思しきものの声が響いてきた。
「そうだ、この部屋に間違いない、この窓を叩き割って中に入るぞ」
「でも、鉄柵があるし、どうやって？」
「なーに、ヨーデルセンの勾玉を使うのさ、そうすればこんな鉄柵は曲がりくねって、僕らが入れるようになる」
「そっか、そうだったわね」
　彼らの影が窓を通して、大広間の中に入ってき、その長く、不気味な影は、僕の前で伸縮し、ガタガタと煩い騒音を立てたかと思うと、窓ガラスが割られ、彼らはその姿を僕の前にさらけだしたんだ。
「きみは？　ここにはエリスが閉じ込められてるって聞いてきたんだけど？」
「ねえ、見て！　あれはエリスのパンティよ！」
「そうだ、間違いない！　あれはエリスの紐パンティだ！　なぜ、きみが持っているんだ」
　僕はまったく気が動転してしまい、漫画でよく見慣れたこの竜一という主人公のかぶるロビンフッドのような孔雀の羽を刺した山高帽、ピーターパンのような緑色のつなぎ服を前に、ついとっさに、
「やさしさにゴメン」と呟くと、
「何を言ってるんだ！　お前がエリスをどこかへ隠したんだな！　さあ言え、言わねばこのサーベルの錆びにしてくれるぞ！」
「いや、言わない、俺はもとからからこの漫画が嫌いだったんだ、キャラクターは陳腐だし、ストーリー展開はありきたりだし、作者は不細工だし、あと、ええっと」
「みなまでいうな、黙れ」竜一という馬鹿な騎士が突進してきて、サーベルを高く振り上げる、僕の首か飛んでいってしまうのも時間の問題だろう。思えばこのシーンに出てくるブルドックのような顔をした小悪党は、僕にそっくりだった。僕のカリカチュアだったんだな、最初っからこうなる予定だったんだ、そして醜い僕の頭部は床に転がって、竜一に踏みにじられるんだ。
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	</chapter>

	<chapter id="34260" seq_num="31" title="幻覚を笑い飛ばせ！(へしゃげたままはしゃげ！)" letter_count="106" updated="2010-08-06T20:25:39+09:00" published="2010-08-06T20:24:52+09:00">
		<section><![CDATA[そのうち書き直すけろ。ここで読んでけろ。

http://ana.vis.ne.jp/ali/antho_past.cgi?action=article&key=20070311000064&keyword=
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	</chapter>

	<chapter id="34250" seq_num="32" title="人の形" letter_count="20548" updated="2010-08-06T19:49:23+09:00" published="2010-08-06T19:49:16+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　美しい娘がいた。誰もがその美貌に魅了されていた。彼女には二人の姉がいて、姉たちもそれぞれ美しかったが、彼女の美しさにはとうてい及ばなかった。際立った美しさだった。彼女は憂い顔をしていて、どこを探してもいないほどの美人だった。彼女の実父はこの娘に前々から欲情していた。だが世間がそれを許さない。しかし、父親は娘への思いを頭から離すことが出来ずにいた。恋しくて、もどかしく、どうしようもなく、もはや自制心を失くし、理性は働かず、われを忘れてしまっていた。真夜中だったが、ベッドから起き上がると父親は、かがやく月の下、娘のもとまで行くことにした。性的に興奮していた。剥きだしの太ももに向って飛んでゆく蚊のように。彼女は……実父に犯された。苦痛の時間が終わると、姦通の罪は彼女に着せられ、彼女は醜い化け物の姿に変えられ、追放された。妹を愛していた二人の姉たちは嘆き悲しみ彼女の後を追った。「私たちも同じ姿にして妹といさせてください」と神々に懇願し。彼女の心は氷のようにだんだん冷たくなっていき、深い悲しみの中、鬱蒼とした森へと……、暗い時代が到来している只中、やがて魂はデパートへと。この世を恨み……

　　　　２

　窓枠の下に羽のある虫がびっしり死んでいるような部屋。ネットではうざがられ、女には相手にされない。彼は一人タバコを吸い続けていた。タバコを吸って、蛍光灯の下に頭をつっこんで目をつぶっていると脳みそが気持ちよかった。まるで脳みそがおっぱいになったような感じがした。彼は何も考えていない。おっぱいが頭の中で揺れている。彼は半年前、自殺未遂していた。その日は朝目覚めたときから激しく憂鬱で、『ああ今日、僕は、死ぬんだな』と感じていて、雨が降る中を海まで歩いていった。街の景色が生々しく見えた。淋しかった。目に映るものすべてが生々しかった。精彩があって、不思議なほどリアルに映った。海の色は赤っぽかった。肩の高さまで育った草の茂みをかきわけて歩いていった。岸壁に沿って防波堤が築かれていて、高さは1メートルぐらいだった。長く続いていたが、一部途切れている箇所があって、そこに腐りかけた木のはしごが立てかけられていて、岩礁へと、降りられるようになっていた。激しく波が打ち寄せている。彼はずっとはしごを見つめていた。吹きつけてくる潮風を浴びながら。波が激しく荒れ狂っている。降りようかとも思ったが、身がすくんだ。そのそばの崖ぎわに大きなくぼみがあって、雨水はいったんそのくぼみに流れ込み、あふれて、小さな滝みたいになって崖から落ちていっていた。彼はカバンからビンを取り出し、ふたを空けた。そのとき、水筒を持ってくるのを忘れたことに気づいた。自動販売機まではかなり引き返さないといけなかった。どうしようか迷って彼はぼんやりと水溜りをただ見ていた。蟹が気持ちよさそうにスーッと泳いでいた。蟹の甲羅が無表情だった。水だ、だが、不潔な雨水は飲みたくなかった。蟹が泳いでいる水だ。しばらく躊躇していたが、どうせ死ぬんだからどうでもよくなって、彼は錠剤を飲み込めるだけ口に入れて水溜りの水を手ですくった。その動作を機械的に何度も繰り返していると、センチメンタルな気分になって、急に昔片思いしていた女性のことが恋しくなった、彼女と永遠に離れ離れになってしまう、そう頭によぎって、そのとき初めて死ぬことを実感した。『僕のことなんかどうでもいいんだろうな。彼女は僕がこの世にいなくてもいいんだ。僕はこのまま死ねばいいんだ』水溜りの中に体をひたし横たわって、頭だけ土の上に出した。だんだん脳がしびれてきて吐き気がし、気分が悪くなっていき、思うように呼吸ができなくなり、意識がおぼろげになって、遠のいていった。それからどういうふうに時が流れたのか？　何か夢を見ていたようだった。懐かしい人がたくさん出てくる夢を。胃に入れた大量の薬剤の半分ぐらいは目覚めたとたんに吐き戻してしまい、あたりは真っ暗。どれだけの時間が経過したのか彼にはわからなかった。何箇所も蚊に刺されていた。眼鏡を探したが見つからない。雨水に流されてしまったのか。波が押し寄せてきている音がしていた。雨水のたまった溝をじゃぶじゃぶいわせて歩き、途中民家の壁に凭れかかったりして家まで帰った。薬品がまだ完全に体から抜けていなくて苦しかった。帰宅すると、チョコレートパイを食べた。が、すぐに残りの錠剤とともに吐き出してしまった。手のひらが切れていた。草を掻き分けて歩いていたからだろう。
　そして〝今″、一日中、暇で、暇で、暇で暇で、彼はしょうがなかった。彼は、また、死のうかな、とも思っていた。いや死にたかった、早く。早く死んで楽になりたかった。もう嫌だったのだ。人生が、すべてが。
『不細工な僕の顔。もう耐えられない。右側の顔と左側の顔が何でこんなに違うんだよ！　そりゃ僕の顔を、僕の為に選んでくれたのは神だ。神の人知を超えた摂理にたてつこうなんては思わないが、俺は外に出られやしない。醜貌恐怖症というか、実際、醜貌なんだよ！　他人は僕が自分で思ってるほど僕の顔になどいちいち気にしていないだろうが、カッコいいと気にして欲しいんだよ、僕は。でもその逆だろ？　好意を寄せてくれる女性も出てこないだろ？　出てこないんだろ？　でも確かに、僕の多少まともな右側の顔を気に入ってくれる女性がたまに現れることはある。だけどそこにも痘痕や傷跡があって、すぐそれに気づかれてしまうだろうという懸念から僕は挙動不審にふるまってしまうから……　すべて悪循環。鼻も曲がってるし１２～２４歳まで引き篭もって、それで人と話してこなかったから、表情も作ってこなかったから、それが顔の筋肉に影響してるだろうし、そんとき、右の奥歯とか、そのへんらの歯が無かったからずっと左側で飯を食ってたし。顔が歪んでいる。この前、姉の友達が飛び降り自殺したと聞いたが、バカ、僕という男がいるのに、なぜ死ぬ？　死にやがって、バカ、僕を一人っきりでこの世に残したまま自分だけ楽になりやがって、でも、僕なんかじゃ嫌だったのかもな彼女も。だけど彼女だって、愛が欲しかったと思うんだが。愛がない、誰からも愛されてない、そんな孤独感が自殺者全員にあると思う。僕も愛が欲しい。異性からの愛が。たとえそれが不細工同士の、互いへの互いへ対する同情心であろうが。互いの互いに対する同じ境遇からくる憐憫であろうが……　僕はそれは愛だと思う。みんなはそう思っていないのだろうか、……でも大丈夫、きっと大丈夫、何ヶ月かに一、二度くる極度の、醜貌コンプレックスの症状がまた出ただけさ。そのうち治る。あんま気にしなくなる。自分の顔について。２，３週間もすれば』
　何も見えなくていい。暗い闇を見よう、と、窓から、空を見る。黒い空。星がちらほら輝いている。悲しかった。フローリングの冷たい床、身体を毛布でくるみ、そのまま虚脱感に身をまかせて、眠りにつく。
……夜明けが訪れた。何事もなかったかのように静かに。一日がある程度はじまり、停滞的な時間がやってくると、彼は立ち上がった。立って、あがったその場所は、いつもと同じドアの真正面。彼は室内にある等身大の鏡に全身を映しながら、身支度を整え、家を出た。道々彼は、強く握りこぶしを握りながら、思う。
『僕はいくらみんなに拒否されようと、自分の存在を主張してやる。人生は一度だけなんだ。いくら拒絶されようが、何度も何度も挑戦して、自分の欲しいものは手に入れるんだ。いくら気持ち悪がられようが、くじけずに、自分にとって、自分の将来にとってしなければならないことは、堂々とやってやれ！　僕が死んだ時に、「やっとあいつが死んだか、これでちょっとは落ちつけるな、だってあんなに迷惑だったあいつがもうこの世にいないんだから」って言われるぐらい、今日から思いきって生きてやる！　僕が救われる糸口を求めて！　複雑なことから逃げようとするな。例えばごじゃごじゃした、ぐじょぐじょに絡まったコードたち。電気コードたち。何本もの。それをほどくことに嫌気などさすな。むしろそのコードをほどくことを楽しもうじゃないか、そうだ！　嫉妬と賞賛の渦の中に飛びこめ！　未開の荒野に足を踏み入れろ！　変われ！　愛してると、言え！　一段高くした声で。そうだあんなかわいい女があんな奴らに好きにされているのに僕はひとりで部屋にこもってただキモがられているだけか、それでいいのか？』
　石造りアパートの淡い橙色の壁面が、わびしげに立ち並んでいる。そして、セピア色の外壁をした団地も。ベランダに洗濯物が干されている。子供服。ブラジャー。辺りは閑散とした住宅街。森も見える。ぼろい民家が立ち並ぶ裏路地を抜けて、彼は駅へと向かった。

　　　　３

　車内の乗客はにぎやかで、ざわめいていて、『この中の誰も僕を助ちゃくれないんだ』と、そんな疎外感を彼はあじわっていた。満員電車に揺らること40分、電車を降りて、駅を出ると、すぐ目の前にバス停があって、時刻表をみた。ちょうどバスが出てしまっていて、そのバスの後ろ姿が遠ざかっていっていた。バスはすぐに赤信号で停まったが。だが追いかける気力は出ない。追いつけたとしても乗せてもらえないだろうから。彼はタバコに火をつけ歩いていった。それぞれ高さの異なる高層ビルが何個も建っていて幾何学模様のように並んでいる。マンションの前にある公園では小さな女の子たちが補助付き自転車に乗って遊んでいた。並木道に枯葉が舞い落ちている公園へと彼は入って、ベンチに座りしばらくタバコをふかしていた。何本も。１本、２本、３本、４本、５本、６本、と。ぽつんぽつんと間隔をあけてたっている木々。木陰になっている花壇にはハイビスカスの花が一輪、咲いている。颯爽と凛々しく。生気のある美しい雑草がところどころ生えていた。ダンボールハウスで生活している人たちの周りでは、薬缶がバーナーの上で沸騰し湯気が出ていて、彼らは砂場で歓声ををあげている子供たちを眺めていた。ネガティブな事ばかり彼の頭に浮かんでくる。何も考えたくなかった。散らかっているチューインガムの袋やタバコの吸殻をそのままに、彼は立ち上がった。ヨチヨチと。通行人たちに、相手をうかがうまなざしをおびえながら浴びせかけながら、貧民窟が庇を並べている裏通りを歩いていった。道沿いは、膨らんだひし形のタイルがかなりずささんに嵌められてあった。一辺10センチほどのタイルが、歩道に、かたかたに。ピンク色の……　繁華街へ通じる通りのわき道の一つに、パソコンショップがあった。彼はなんとなく入店した。１階は普通にパソコンゲームやCDが売られているが、2階へ行く階段の壁面に、2次元アニメキャラ少女たちのポスターが何枚も貼られてあって、狭いフロアーに、男どもがやってきては、群がりはせず散らばっていく。彼はそのうちの一人だけが、異様に目が大きく、そして青い瞳の奴がいるのに気づいた。それは、店員の男だ。そいつは憔悴しているようで他の人たちとは違って精算カウンターの前でじっとしていて、弱々しい視線を客に浴びせかけていた。目に涙を光らせて。弱弱しく、痛々しく。その店員の横には栗色の髪の毛がカールしていて、赤い襞が波打っているドレスを着た８０センチほどの人形が置かれてある。目がパッチリしていて、まつ毛が長いしぴんぴんはねてて、愛らしい。このパソコンショップの店員は、この人形と一緒に存在していたかったのだ。いついかなるときも傍らに。それだけで幸せだった。この人形がいつもそばにいてくれる。この人形が自分を見ていてくれているだけで幸せだった。この人形に自分が思ったことすべてを話しかけるのが喜びだった。冬にはセーターを着せてあげていた。寒い夜がずっと続くから。だから。１０年ぐらいから前……　今日まで変わることなくずっと……　店員はアルバイター。仕事場はパソコンショップ、2階。おもにアダルトなアニメが販売されている。壁一面に、そして階段にも、アニメキャラクターのポスターを貼らなければならないが、男はそれらのポスターを見ないように、目をそむけながら、貼りつけていく。そんなときどこか、高い鷲鼻が、心なしか寂しげに自己主張しているようだった。「仕事でやってるだけだ！」と。
さえない男たちがぞろぞろやってきてはじっくりと品定めしたあと４、５枚のDVDを買っていく店内。店員は心の中でたえず罵声を浴びせかけている。神経質そうに、爪を噛みながら。
『お前らは呪われてるんだ！　怠惰という名の魔物に半ば操られて、何の反抗も出来ずに生かされているだけだ！　ただ一人もお前らを愛していないとはな！　人間の半分が女なのに、お前らにとって、この世界で最も得がたいものなんだよ、女は！　魂がぬけ、やりたくないこともやらざるを得ないふぬけネズミめ！　お前らの脳みそに、一年ぐらい水を替えてない金魚の入った水槽の水でもをそそぎこんだら少しはまともになるかもな！　神経をすりきらせ、ひしひし、全身に感じてろ、なんでこんな目にあわなければいけないのですかって、いつもいつもうちひしがれてろ！　うちひしがれてうかがってろ！　ぶち殺したい蚊だ、お前らなんて。美しさを希求する純粋な魂がお前らには欠けてるからだよ、どうせ何やったって馬鹿らしく感じてるんだろう？　お前らは？　楽しいことなんてこの世にはないと思ってるんだろ？　悲しい奴らだ、喜びも感じずにただ生きているだけ、哀れな奴らだ。お前らは自分の不遇にうちひしがれているだけだ。お前らの人生の１ページ１ページがな、そればっかりなんだよ、お前らのやってることはすべてむなしいだけだ、徒労に終わることをし続けているだけさ。誰もがお前らによそよそしい態度で接する。充分、肌で感じてるだろ？　お前らは自分の将来が暗いものにしか思えないんだろ？　それでお前らは何も手につかない。怠惰な日々を送るだけ。誰かに操られてるようだな、ほんとに、お前らは。お前らはもはや、自分の意志では行動できなくなってんだよ。それで感情、性欲に支配されちまってる、ああ哀れ。哀れだな。うじゃうじゃわいてきやがって。毎日毎日、はびこりやがって……。おい、ネズミども、お前らには愛する者はいないのか？　繁殖？　おい、性欲の奴隷ども。お前らは繁殖も出来ないネズミ捕りシートに捕まった哀れなネズミだよ。相思相愛。愛し、愛され、慕われ、慕うということが、お前らにはわからないのだろう。お前らは、ただ性欲に駆られているだけだ。ただ女を支配したいだけだ！　相手をいたわり、相手につくすという精神がないんだよ！　現実逃避の術だけに長けた、それだけの奴らなんだよ。お前らは現実を受け止める勇気がないんだよ。また、それでいい。お前らは現実を見ないほうがいい、お前らが置かれている状況を、もし客観的に認識できるならば、あまりの絶望的状態にお前らはますます何も出来なくなってしまうだろう。未来がないように思えて、何のやる気もおきなくなるだろう。一刻も早く発狂しそうな苦悩から抜け出したくなってな。そうだ、ずっとずっとずっと心が晴れることがないんだ。お前らはすべてを忘れてしまいたくなるだろう。もう、じきにだ。お前らには一生、光は差し込んでこないんだよ。お前らは結局、排除されるだけだ。どこにも属せず。一匹ずつ孤独に死んでゆく哀れきわまるネズミなんだよ。孤独がお前らを蝕んでいく。魔の手がお前らに迫りきているならいい。魔手から逃げようと必死になれるからな、それだと。魔の手が明白にお前らの近くに迫りきているなら、一刻一刻が、その魔手から逃げることに、せっぱ詰まって、精一杯で、よっぽどスリル溢れる人生が送れるんだが、だけど、そんなものはない。魔手なんか迫ってきてないんだよ。お前らはじわじわと運命になぶられてんだよ。毎日毎日、退屈しのぎ暇つぶしにだらだら同じことの繰り返しでお前らは日々を送っているだけだ。何者かにコントロールされているかのように。習慣だ。毎日の惰性の結果だ。何かを成し遂げようとする不眠不休の戦いをしつづけるよりも、惰性や怠惰の手下に成り下がってしまい、楽になりたいという欲求にお前らは負けてるんだよ。性欲を何か高尚なことに昇華させられないのか？　お前らネズミどもは？　そのお前らが買っていくDVDに出てくる主人公のような人間に本当にお前らがなりたいかどうかだ。そんな人間になりたいなら、なればいい。なりたくなければ、そんなDVDは捨ててしまえ！　俺はなりたくない。刹那的に快楽だけを求める人間、性欲に支配さちまっている人間には俺はなりたくない。俺にはアンジェラがいる。アンジェラに少しでも元気を与えたい、与えられるようなそんな人間に自分を鍛えあげたい。それには俺の根本からの性質を変えていかなければならない。俺だって失敗はしたさ、幼稚園に通ってたけど、引っ越して、保育園に入った。だから２つの「朝のたより」がある。なあ、取り返しのつかないことが世の中にはあるんだよ。なくしてしまってかえらないものってのが、俺は「朝のたより」を見るたびに思う、大事なもの、でも戻ってこないもの。大切にしなければならなかったのに、ちょっとした日常の機嫌の悪さや、不注意から台無しにしちまったってものが。俺はその2冊の「朝のたより」が自分にとっていかに大事なものであるのかってことを忘れてしまっていたんだよ。置き場所さえも忘れちまってたんだよ。そんで結局水をこぼしてしまってびしょぬれにしちまった。2冊ともだ。そんてそのまま放置してたんだよ。何日も。何ヶ月も。ふと手に取ってみたときにはすでに遅かったよ、ページがすべてひっついてしまってた、毎朝、シールを貼っていくだろ？いろんな絵の。それの粘着させる成分が関係してんだろう、くっ付いてとれねーんだよ。だけどな、少しだけど、まだ開きそうなページが1枚だけ残ってた、俺は慎重に開いていった、そこには判別できる文字で、「くまぞえこうじちゃん　ぽかぽかはるになってとてもきもちがいいですね。こうじちゃんは、すこしなきむしさんだから、がんばって、つよくなりましょう。じぶんのことは、なんでもじぶんで、できるようにがんばりましょうね。はやく、おともだちをつくって、みんなでなかよくあそびましょう」って書かれてたよ。俺は嘆いたよ、ああ、もうこの時の時間はかえってこないのか！ってな、その月の俺、翌月の俺、ある一人の観察者からとらえられた俺への一つの思い。それを知ることが不可能になっちまったんだって。心が空っぽになったようだったぜ。もし、今、俺のことを好きに思ってくれている人がいるなら、その人は、俺のために、保育士が記述するように毎日俺のことを思ってくれてるんだ。もし俺が恥ずかしいからといってその人にそっけない態度をとれば、それは何事もなかったのではない。それは、その人の心のページを一生読めなくしてしまう行為なんだよ。それは恋愛じゃなくても言える。俺が学校でイジメにあっていた時、見てみぬふりをしていた俺が好きだった学級委員の女の子、俺は彼女から水をかけられつづけ、心のページが開かなくなって、だんだん人と喋れなくなっていった。だが今、俺にはアンジェラがいる……　アンジェラが俺の心の壁を弾き飛ばしてくれた……　アンジェラが……　ただ盲目に、前人未到の、人々をアッといわせ、驚かせ、楽しませ、悪をも矯正する、世の不正を糾弾する。そんな人間が、自身、自己ぐらい支配できていなくてどうする！　ああ！　アリストテレス！　ソクラテス！　ディオゲネス！　ブッダ！　レオナルド･ダ･ヴィンチ！　ドストエフスキー！　アインシュタイン！　ジョン・レノン！』そんなことを思いながら店員はカウンターに座らせてある人形の髪の毛をいとしげにつまみ、指でこする。それからこの店員は心の中で、『早く5時30分にならねーかな。早く仕事を終えたい。早く俺とアンジェラだけの時間を満喫したい。二人だけの静かな時間が欲しい。お前らを見てると虫唾が走る……』
　そして5時半になると、意気揚々と人形を抱きかかえ、一階の女性店員に、「おつかれさま、お先に失礼します」とかすれた声ではき捨てるように言うと、駆け足で、駐車場まで行き、車のキーを突っ込み、愛車のアルトの助手席に人形を乗せて男はドライブに出かけた。もちろんアンジェラの安全を考えてシートベルトもしてやった。言い知れない喜び。笑みがこぼれる。目的地の臨海自然公園につくと、アンジェラは男に抱きかかえられおろされ、山の急斜面に作られた科学的な匂いのする、モルタルで覆われた人工岩壁沿いを歩いて、駐車場を出ると、公園内の藪の中に分け入り、山道をもくもくと登っていく。行く手をさえぎる木の枝、木の葉を引きちぎり、険しい山道を進んでいく。緑色に塗り替えられたばかりの貯水塔が太陽の光に当たり輝いている。とても目映く、ほこらしげに聳え立っている。すがすがしい空気があたりにはあった。男はずんずん木々の狭い間を通り過ぎていく。木々のヴェールから抜け出たとき、麓が遠く、はるか遠方に見えた。木の葉が風に揺れて舞い落ちてきている。そして貯水塔が目の前にある。高さ30メートルほどの貯水塔だ。階段を一段一段、踏みしめながら、先のとがった革靴でのぼっていく。ゆっくりと、時間を尊ぶかのように、一歩一歩かみ締めながら、男は懸命に上を目指す。それもこれも彼女に、愛する人形に、アンジェラに、美しい景色を見せてやりたいがためにだ。朝、仕事場に行き、パソコンショップに男は赴いて、二階への階段を上がるが、今の心境とは正反対だ。今は開放感に満ち溢れてウキウキしている。仕事場への階段をのぼる時は陰鬱そのものなのに、だ。貯水塔の階段を登りきると欄干に手をかけ、アンジェラを片手で持ち上げると、男は叫んだ。
「この星に生まれてよかった！　彼女といれる！　素晴らしい陽光を浴びて！　素晴らしい！　日差しよ照りつけろ！　輝け！　僕らのために！　この星が僕とアンジェラのために素晴らしい星であり続けますように！」
遠くの空で雨が降っていた。綺麗な虹が現れていて、周縁部が紅色で次いで細い黄色、そして水色、一番内側は紫色になっている。ここは、街を見下ろすほどの高みだ。爽やかな日差しの中に呑みこまれていく鳥、一羽、二羽とやってきて、やがて大群で憑かれたように旋回してゆく。かわいさなどは微塵もない。あるのは凄みだけだ。ムカツクほどに、ある。上空の風は冷たい。弱い風が吹きつけてくる中、煮え滾りつつ漲る感情が男を襲っていた。
「ああ、涼しい風がきた。そしてこの涼しい風が誰かのもとへとまた届く」

　　　　４

　彼はパソコンショップを出て、横断歩道を渡った。灰色のコンクリートがところどころ黒ずんでいるマンションの間に入り組んで赤いレンガが見える。５，６分ほど歩き、彼はデパートにたどり着いた。しかし、いくら莫大な建築費がかけられていようとも何人の建築家、デザイナーが関わっていようとも、これほどのものを、これほど美しい外観をもっているものを作った、ということに、都市というものに対し尊敬の念がわく。そんな感情に満ち溢れてしまう。バベルの塔、だ。そんなイメージが浮かぶ。どこか古代的な荘厳さが漂っていて、建造物というより芸術作品の趣があった。人々は〝今″を楽しんでいる、そんな活気がある。〝今″は可能だ。彼らには可能性が秘められている。いや、彼も。彼もだ。彼一人だけがその可能性という希望から除外されられているわけはないだろう。彼にも幸運は、チャンスは訪れるはずだ。今はまだ彼はこの無数の客たち、店員たちから正体不明の存在者であり、であるがゆえに、彼が傾倒している種々の趣味━━その中には危険を伴うものもある━━も知られていないのであって、彼がハッカ飴を今、口の中に入れていることも知られていないのであって、わき合い合いと、エスカレーターで移動する彼らたち。彼の前に女子高生が二人いた。大きなカラフルなサングラスをしていて、パンタロンをはいている娘と、もう一人はまつ毛の生い茂るつぶらな瞳に赤いリンゴ頬っぺ。目を見張るほどの美少女。
「かわいい」━━「気持ち悪い」━━「かわいい」━━「気持ち悪い」　彼女たちは振り返っては、彼を見ながら、そんな会話を始めた。彼は恥ずかしさを隠すことができずにもじもじしていた。この場からあとかたもなく消えてしまいたかった。彼は自分の虚弱さを思う。『気持ち悪い？　そうだ僕は彼女の世界にとって、虚弱なものでしかないんだ。彼女の崇高な世界にとって異質で無価値なものでしかないんだ。いくら罵倒してもかまわない、そんなちっぽけな存在なんだ、僕なんて。冷たいよ。みんな冷たい。みんなでいつも、僕を嘲笑う。いつだって、いつだって、いつだって。人、人、人、一見憐れさを装うこともたまにあるけど、一見だけだ、ただの傍観者たち、だ。それは他者に、酷い仕打ちをして喜ぶ無抵抗な者への意味のない残忍さと同じじゃないか、そんなのは。……でも、考えてみろ、彼女たちにじっくり眺めてもらえただけで満足すべきなんじゃないか？　感謝すべきなんじゃないか？　彼女たちの話題に僕がなれるなんて思ってもみなかったことだし、まったく予想してなかったじゃんか。彼女たちにとって空気みたいな存在の僕であって、だから、相手にされないって思ってたわけじゃん、要するに。だって何事もなくそのままエスカレーターをのぼりきっちまうだろうってそんな感じでいたんだから。そんで彼女たちの後姿をため息まじりで見てたんだからさ。きっと、彼女たちは笑うべきものを見て、笑いを抑えきれなかっただけなんだよ。若い女の子なんだからしかたないじゃん、それは。だから、絶望といっていいほどの受けとめかたをしなくたって、いい』
　4階の婦人服売り場までくると、「かわいい」と連呼していた娘がやさしげな笑みを頬に浮かべながら彼を見て、「ごめんね」そう言って、足早に、サンダルの音を残して歩きさっていった。彼はそのままエスカレーターでなおのぼり、５階までいった。と、カフェがある。一歩あるくと、それまで仕切り壁で閉ざされ視界から隠されていた風景が見えた。Xが伸びたり縮んだりして蜘蛛の巣のように縦、横にいくつも並んでいる窓に透けて、カフェテリアの片隅に女性がいた。何層もの襞のある青い服を着た、レッド・チェッペリンのロバート･プラントのような女性が。彼がまた、数歩あるいていこうとすると、その女性が彼を手まねきした。彼は、いきたかった。彼女のところへ。いきたくもあったし、断るのは失礼にも思えた。そのまま立ち去るなど彼にはできなかった。いくら自分が人に無視されようと彼は人を無視することはできない。だが彼はためらった。『……どうしようか。どうすればいい』と。なかなか一歩が踏み出せなかった。彼は率直に彼女を見てみた。そして、すぐさま彼は〝行く″決心をした。彼女の目が笑っていて、親しみある柔和さというか、彼を否定していない表情だったから、だ。それに、入り口の前に立ったままだと、次に入店する人の妨げになると、気になってもいたので。彼は先行きがぜんぜんわからぬながら、ぎこちない歩みで、緊張しつつ彼女のもとへ近づいていった。彼女は余裕ありげに、
「そこにお座りなさい」と言った。
ソファの前のテーブルに、白い皿に乗ったパン。そのまわりは乾し葡萄。アルコールが入ったビンが二つ。花瓶と水差し、コーヒーカップが乗っていた。外套かけに黒いコートがかかっている。コートの中央部が手でおさえたようにへこんでいた。外套かけフックが鷲の紋章みたいになっている。彼は一礼し、彼女と対面の席に座り、やってきたウェイトレスにカプチーノを注文した。彼女はふくろうに似た顔をしていた。面ふくろうに似ていた。声もそんな感じだった。髪型も。鼻筋が通っていて横顔が美しい。透き通るような白い肌。胸にたれているサファイアのネックレスが青く澄んでいた。一方、彼は額が浮き出ている、背の高さは160センチほどだ。猿に似た顔をしている。左の頬骨が突出しているところがとくに。
「紅茶もおいしいのよ、ここ」そう言い、彼女は名刺を取り出すと、テーブルの上に置き、彼の前まで滑らした。
〝ＵＳＥＤ11階　タロット占い専門店イシカオ・ガ・マタア　占い師ンヒクサ・ルスイパッシ・ニイタッゼ″と、書かれてある。
　彼は言葉を捜しさがし、「占い師なんですか?」
「ええ、私には特別な能力があるの。だからあなたを呼んだのよ。あなたがカプチーノを注文することもわかってました。でもね、あなたにはカプチーノは似あわない。でも、あなたがカプチーノを選択するのはわかっていたのよ。あなたはカフェオレが似あうからよ。もっと適切にいうとコーヒー牛乳って感じね。あなたは家でコーヒーを飲むときいつもカフェオレにするでしょ？　あなたはそういう人なのよ。ブラックコーヒーが飲めない男なわけよ。絶対に砂糖を入れるでしょ？」
　彼は彼女の高圧的な態度に反発することができなかった。すんなり収まるというか、グラスが水にそそがれて、そのグラスはテーブルの上に置かれる、水は静かに、動くことなく、グラスの中にある。そのように、彼女がグラスで自分がグラスの中の水のように彼女の中に受け入れられてしまっているようで、そしてそれが彼には心地よかった。彼はいぶかしい思いで考え込んでしまった。彼は自分を厭世主義者だと思っていた。ふだんなら他人から高圧的な態度で接せられると、相手を、ただ威張りたいだけの奴だと嫌悪し、自分が厭世主義者であることをひそかに、内心、誇りに思っていただけに、『いや……』と、本物の厭世主義者であったならば、ちょっと彼女の人を見下したような振る舞いに我慢できなくなっていたはずだ、と、『僕は……、自惚れていたんだ、実際は厭世主義者ですらない、ニヒリストでさえなかったんだ』と、ただの視野の狭い考えの浅い愛情に飢えていただけの男でしかなかったんだ、と、気づかされる思いで、『何を僕は得意がっていたんだ』と、自身を軽蔑せずにはいられず、彼女の瞳を見たとき、なんだか彼女に心を見透かされてしまっているような気がしてしかたなかった。傾倒してしまいそうだった。彼女の言いなりになってしまいそうだった。それだけでなく、言いなりになることに喜びまで感じてしまいそうだった。彼女は相変わらずぞんざいな言葉づかいで、彼は「は、はい……」「そうですね……」などと意気の上がらないで答えつづけていた。くすぐったいような焦燥感、ふがいない自分が情けなくもあったが、そんな自分に酔いしれてもいた。彼女に犬のようになつきたく、思考力も沈滞ぎみで、自分のすべてを知悉されながらソファに身を投げ出しぐちゃっとうずくまっていたかった。ただ彼は、彼女を見つめていた。しばらくの間。
ウェイトレスがコーヒーカップを持ってきた。テーブルの上に置いた。手持ちぶたさの彼は一口啜り、「これ何ですか？」と棒を指差した。
「シナモンスティックよ、それをカプチーノの中に入れてかき混ぜると、シナモンの香りがするのよ。疲れもとれるのよ」
彼は言われたとおりにした。はじめコーヒーの表面は白い泡が渦巻いていたが、かき混ぜていると、液体は黒ずんでいった。
『占い師、占い師、魔術師……』やはり彼は彼女に自分のすべてを知られているような気がした。心の中を覗き見ようとしているのが、彼女の態度やしぐさからありありとわかったから、だ。それに、そう彼に思わせるオーラを彼女はもっていた。彼は緊張し続ける長く辛い時間を、いつ終わるとも知れず味わっているより、それより仲良くなりたかった。彼女に従順になって。彼女に身をゆだね。彼はタバコに火をつけた。彼女も吸っていたから、だ。もちろん親密度をあげる作戦だ。灰皿は小さな皿のようで、はじめそれが灰皿だとは思わなかった、が、吸い口に口紅のついたタバコの吸殻があったし、何より彼女がそこに灰を落としている。
「あら、あなた、エコーなんか吸ってるの？」

　彼は即座にタバコをもみ消し、コーヒーカップを隅に押しやると、中指と人差し指をくいくいし、ウェイトレスを引き寄せ、
「ジントニック」と、頼んだ。

　銀の盆に乗せられてジントニックがくると、盆ごとウェイトレスから奪い、一気にあおり、飲み干した。そして言った、
「シナモンスティック、……そんなもんで、本当に疲れがとれるんでしょうか」
「とれるって言われてるからとれるんじゃない？」
「誰が言ってるんですか？」
「みんなが。……あなた、占いとか信じるほうでしょ？」
　彼は今まで誰にも見せたことのない心の奥底を、曝け出してしまいたくなっていた。
「……占いですか、僕もなんかそんなのに興味あるんですよ。人間の営みというか、だっておかしいじゃないですか、今日もここに入る前に見ましたよ、労働者でしょ、労働のためでしょ、全身、日焼けしてるんですよ。過酷な人生なんだろうって思いましたよ。そんな人もいるし、よりよい幸福があることを知りながら、それでも、今の境遇にまんざらでもなく満足している人々もいる。平気であくどいことをする人もいる。なんでそんなことするのかっていったら金のためでしょ、金に目が眩んでしまってるんじゃないですか！　誰も彼もが金を欲しがってる。そして小さな命を犠牲にしている。……たとえば、群衆の中の一人の男が咳払いをすれば、その男の存在は周囲の人々に知られる。それだからといって、それだけのことで、その男が優れた素質を持っているとは絶対にわからない。でもパッと見で、みんなすぐ判断する。決めつける。おかしいでしょ、……占いとは関係ないかもしれないですけど、でも人間ってどんな規則に従って動いているのだろうかって思うし、それが、なぜなのかを知りたいですね。人生の意義とかを。……さっきですね、デパート内の案内図があるでしょ、あれを蹴り飛ばしたらどうなるだろうか？　皆が僕に注目するだろうか、それとも関わり合いになりたくなくて避けられるだろうか？　とか考えてたんですよ、もう今日、家を出るときも、ハッタリかまして町を歩け！　まざまざと見せつけるようにして！って気合いれてたんです。僕に注目しろ！　どんどん僕に注目しろ！　おおいに僕を注視してきなさい！って」
　彼女は紅茶を飲むのをやめてはかなげに微笑みながら、
「ロックスターのように？」
「いや、別にそれはなんでも……」彼は視線を落とした。皿に盛られた乾し葡萄の数が一つ、二つ……。
「あなたかなりノイローゼ気味のようね、ちょっと言動がおかしいわよ。そろそろ出ましょう。私の店にきなさいよ。占ってあげるわ」
　しかし、彼には彼女の声がよく聞き取れなかった。いや、聞こえてはいたが内容をとっさに理解できなかった。久しぶりの女性との会話で、血の巡りは良くなっていたものの、興奮しすぎていて注意力が散漫になっていたから、だ。夢心地か、あるいはただたんにもともと生まれつき馬鹿なのか。とにかく彼の精神は猛々しく荒れ狂いまくっていた。……会話が途絶えていた。何か言わなければ、と、あわてて、彼はつぶやいた。
「コーヒーばっかり飲んでたらバカにならないかな。脳が縮小して……」
「コーヒーぐらいでバカになるわけないでしょ」彼女は立ち上がった。「私についてきなさい」

　　　５

　カフェから出ると、待合室のようなところを通りすぎ、エレベーターに乗った。彼と占い師、二人きり。「エレベーターの中でタバコ吸っちゃいけないって、そこに書いてありますよ」占い師がポーチからタバコを取り出し、吸い出したので、彼が、そう言うと、
「いいじゃない。別に。大丈夫よ」と、彼女はまったく意に介さない。
エレベーターから外が見え、海が霞んでいた。上空には雲がたなびいている。ぐんぐん昇るエレベーター。空は夕焼けていて胸がいっぱいになる。街を眺めおろすと、駅もビルも小さく無力に見える。何もかもが遠のいていくような気がした。そして、『僕らはどこに行くのだろう』
１１階に彼女の占いの館はあった。まるでトンネルのような廊下は先へ進むたびに内側にどんどん丸まっていって、先が暗くて見えない。彼は黙って彼女のあとについていった。サーフィンボードのような扉を開けると、どうやらそこが彼女の仕事場のようだった。水晶玉が置かれてある。エキゾチックだった。貝殻が転がっている。豪華絢爛な部屋だ。手織りの絨毯が敷かれていて、散乱している貝殻を踏みつけながら椅子までゆく。棚に灰色と群青色の混ざった石がある。それに打ち砕かれた貝殻。黒に緑の目模様の入った石、様々な色が融け込んでいるような石、ピンクがかった透明な石。多角形で光沢のある黒い石などが、ごろごろ落ちている。クローゼットの扉が大きな鏡になっていたので、鏡に映る自身の全身、むしられたようなまばらな髪の毛。緑色のナイロンジャンパー。海イグアナのようだった。悲しかった。『僕ってこんなにかっこ悪かったのか、……まあでもこんなもんだろな』と。彼は別の世界に今、自分がいるような感じがしていた。ローズマリーの香りがする。甘美な静寂の雰囲気。部屋中に何かが漂っている。何か、具体的にはわからないが、何か、何かが支配している。うすうす感ずるようなものが、聞こえてくるようなものが、みちみちている。だが、今にもそれは跡形もなく掻き消えさってしまいそうで、それを掴み取る前にそれがするりと逃げ去ってしまいそうで、一人さびしくとり残されそうで、彼の心が淡く切ない気分で染まった。古い、チッペンデール様式の椅子に腰かけると、ぎしぎしきしみ鳴る。おどおどとしていた彼だったが、徐々に、子供のような好奇心が芽生えてきた。辺りを見回すと、観葉植物がたくさん置かれていて、木肌のところどころ、荒れて、ささくれだっていて、大きな葉がだらんと垂れている。と、何か足元をもぞもぞ這いずっている、それは蛇だった、ギョッとして椅子から跳びあがり、一、二歩退くと、占い師がグリーンスネークを摘みあげ、そっと木の枝に絡ませる。蛇はゆっくりのぼっていった。
「気づかなかったの？」彼女は目をぎらつかせ、ヒステリックに笑うと、「そんなに驚くことないでしょ。蛇、飼ってるぐらいたいして珍しくもないじゃない。メドゥーサのほうが奇妙でしょ。髪が蛇になってて」
「……あれは嘘ですから、……なんか展覧会やってるみたいですね、8階だっけ、9階か」
「9階よ」
　彼は木の枝に目をやった。もう蛇は観葉植物の葉の間に隠れてしまっていて見つけることはできなかった。そして、占いが始まった。
「あなたの受け答えかたによって、あなたの性格と今後のあり様が見えてくるでしょう。あなたはご自身についてなにが知りたいですか？」
「将来かな、未来……、僕はどうなるのか、とかが」
「わかりました、では、まずあなたの手を見せて、あら、小さいわね。本当に小さいわね、合わせてみましょう」
言われてみて彼も気づいた。彼女の手はこびりつくように冷たく、２，３センチほど彼女のほうが指が長かった。
「だいたいわかりました。はじめましょう。これは私が作ったオリジナルのタロットカードです。普通のタロットと同じで７８枚のカードを使って占います。いま、ここに、命があります。この命をあなたに一つあげます。その命を大切に使って、タロットカードが示す質問に答えていってください、あなたは何を聞かれても、正直に、答えてください」
　一枚カードを引けと言われて、彼が引くと、笛を吹いている少年が描かれたカードだった。
「あなたは笛吹きです」
「はあ……」
　もう一枚引けと言われ、引くと、竜が描かれてある。
「あなたの前に竜が現れました。　戦いますか？　助けを呼びますか？　　笛を吹きますか？　逃げますか？」
　ちょっと考えてから、彼は、
「戦います」
　彼女は小ばかにしたような笑みを浮かべ、
「笛吹きの少年では翼のある恐ろしい竜と戦うことはできません。せいぜい村娘と恋でもするだけでしょう。それでも戦うのですか？」
「はい……」
「なぜ？」
「何となく……」
「そんなことじゃあなたは殺されてしまいますよ、それでも戦うというのですか？」
「ええ……」
「ではカードをもう一枚引いてごらんなさい」
　死に神のカードだった。
「あなたは近いうちに死ぬでしょう。それは交通事故かもしれませんし、誰かに殺されるのかもしれません。あるいは自殺するのかもしれません、いいですか？　この占いは当たります。あなたに与えた命はもうありません。もう一つ命が欲しいですか？」
「別に……」
「そうですか。いいでしょう。二枚カードをお引きなさい。そしてそれをそれぞれテーブルの片隅に置きなさい」
　老婆が雨乞いをしているカードと、孕んだ子羊のカードだった。
「闇を生きるこの老婆は、何かにとりつかれていて、少し風が吹いただけでも揺れてしまう木の葉のような、もろい心で日々を過ごしています。そしてまだ産まれて間もないのに孕まされてしまった子羊。この二つの存在があなたの救いになるかもしれません。そのためにあなたがしなければならないことは彼女たちを招き入れることです、どうやって彼女たちを自己のもとへ引き込もうとしますか？」
「……きてくれと、たのみますよ。……それか何か贈り物をするか、何か、ハッピーになるようなものを」
「贈り物？　ハッピーになるようなもの？　歌や踊りで彼女らを歓待しようとあなたが欲している限り、彼女らはあなたのもとへはやってこないでしょう。彼女らが欲しがっているのはそんなうわべだけのものではないでしょうからね。あなたの返答は悪を招きます。私がカードを引きましょう」
　彼女は彼の面前にカードを突きつけた。
「これをよく見なさい、人びとが石つぶてを投げているでしょう。あなたにめがけて投げているんです！　あなたはね、自分をですね、僕なんて何の取り柄もない人間だって思ってるでしょ？　誰にとっても僕は、利用価値がないって。だからあなたには恋人もいないし、友人もいないんですよ！　世の中、利害のみで動いてる証拠じゃないですか！　あなたという人間の存在が、その証拠でしょ？」
そんなことを認めてしまうのはさすがに嫌だったので、「そんなことはないですけどね……」と否定したとたんに彼女は、「私の占いが信じられないというんですか！」と、激昂した。
「いや、そんなことは、……でも、うさんくさいですね、少し……」低い声でそう言うと、
「出て行ってください！　この空間がけがれます！　お金は、いりません！」

　　　　６

　逃げ去るように、彼は占いの館を出た。この階の中央部は四角く切りとられ、吹き抜けになっており、二階下まで見下ろせた。10階から、また11階から、展覧会場が観れるように、そのおさなごが落下したら九分九厘死ぬ空間の周りにベンチが設置されていて、手すりがある。ガラス張りに側面がなっていて。彼は手すりに凭れかかって展覧会場を眺めていた。キレイだった。色鮮やかなライトに照らされていて。ごちゃごちゃとしている薄暗闇の奥に、人々が集まっていた。彼は気持ちに一区切りをつけると、
「まあしょうがない。すべてが抜き差しならなかった事なんだ。すべてが」と、ボソッと言った。そして、彼の足はしぜんと展覧会場に向っていた。受付嬢に９００円の入場料を払う。寒気がするほど冷房が効いていた。５０平方メートルぐらいのスペースのフロアーに西洋風の絵画や彫像が、金や銀でできた様々な出土品や蝋燭立てのあいまあいまにぽつぽつと飾られてある。天井には、真っ赤に燃える犬の死骸？　そんな映像が流されている。いたるところにそんなスクリーンがあり彼はいつのまにやらそれらに取り囲まれていた。最初は平然と、見るともなしにぼんやり眺めていた、が、しだいにそれらの光景に惹きこまれていった。そこいら中に命がかがやいて駆け回っていた。原始人が猟をしていたり、船乗りが大海原を航海していたり。数羽の黒々としたカラスが、現れては消え現れては消える。地獄なのだろうか、夥しい数の人間が焼け爛れたり悲痛な表情で助けを求めているスクリーンがある。そして、スクリーンに映し出される映像は、雪崩れるように変化していく。なかば呆気にとられながら、人だかりの方へいくと、くびれた、ウィスキーのビンのような形の台があり、メドゥーサを模った精巧な人形が乗せられていた。彼は立ち止まり、チラリと一瞥した。髪が垂れ下がり、顔は青紫色で腫れあがっていて、浮き出た血管が何本も走っている。メドゥーサの目を見つめていると、心がえぐられるようだった。まるで魂が入っているかのように。入っているのか？　それほどの迫力を感じた。得体の知れない気分。そしてだんだん彼は空恐ろしくなっていった。
　
━━神様、わたしを動かしてください。わたしを見捨てた人間どもをひとり残さず殺してしまいたい、わたしを怪物扱いする人間どもを、わたしが人間どもから離れ姉たちとひっそり孤独に暮らしているのに、人間どもはわたしをひっぱり出して、わたしの醜い姿で、人びとを呼びよせ、嘲笑させる、

「許しなさい」と、メドゥーサの耳に届いた。

━━許せない、お願いします、どうかわたしを、

「私を恐れないのですか」とメドゥーサの耳に届く。

━━もう死んでしまいたいのです、これ以上わたしを苦しめないでください、神よ、いつまでいわれなき苦しみを受けなければならないのですか、

　声は届かない。メドゥーサの耳にはなにも届かない。彼女は祈りつづけた。

━━神よ、わたしを、解き放ってください、

「それが望みなら」

　メドゥーサには信じられなかった。

━━ほんとうに、

　まもなく二度目の声が聞こえた。

「それを望むのなら」

　憮然と立ち尽くしていたメドゥーサは、一歩、足を踏み出すと、金切り声をあげて歓喜し、目の前にいた彼に、
「わたしはそんなに醜いか？」と、こわばった顔で、尋ねた。
人々は何か非常に恐ろしいことが起こる前兆を感じて、互いにひそひそ話し合っている。だが、まだ余裕があった。遠目に見ている人々には人形が動いているだけのように思えた。これもアトラクションの一つだろうと高をくくっていた。だが、メドゥーサを眼前にしている彼や、その付近にいた来場客は思考停止状態。彼の隣にいる女性は絶叫しつづけている。彼は動けなかった。何度も動こうとしてあらん限りの力を振り絞ってはみるのだが、指一つ動かせない。ただ足がピクピクみじめに痙攣しているだけで、どうしても声が出なかった。だが、何処からかひんやりした風が吹きだすと、その風がささやき声に変わった、｢彼女もお前と同じなんだ、みなから気味悪がれていて｣と、彼の鼓膜に響く、小さな小さな声が。彼はへなへなと腰をぬかして倒れこんでいたが、半身を起こした。身構えもせずに。そして彼は悲哀感に包みこまれ、
「いえ……」と震える唇であえぐようにつぶやいた。
すると、メドゥーサはくるりと彼に背を見せた。メドゥーサのスカートのすそがひらりと舞う。

━━彼は殺せない、彼はわたしを受け入れている、

　メドゥーサの目が真っ赤に光ると、逃げまどう群集のほうへと、鋭い爪を振りかざして歩を進める。人々のあまりにもすさまじい慌てようと、驚き。リラックスしていた人々も、異変に気づき、一刻も早くこの場を立ち去らなければいけないと悟る。メデューサを見るものは誰も石になどなりはしない。それはただの言い伝えに過ぎない。不気味な姿に身の毛がよだち蝋人形のように身動きできなくなる奴はいたが。そしてその人を盾にしてその背後に隠れる奴。満面に、不安、心配、恐怖を表して。メドゥーサの激しい憎悪が表れたまなざしが、そこここに屍の山を築いてゆくだろうと、誰もに予感させた。彼らの蝋燭のともし火はもはや消えかかっている。悲鳴があちこちで響く。誰もが顔をひきつらせ、おののいている。不安にさいなまれて、皆、生きた心地がしていなかった。自分たちは、数分後には物言わぬ肉片に変わり果ててしまう生け贄にすぎないのではないか、と、戦慄して。そんな中、彼はメデューサのほうへ引き寄せられていった。彼は何かを伝えたかった、何か、彼女への思いを、だが、言葉にならなかった。彼はメドゥーサに近づいてゆき、彼女の腕を掴むと、振り向かせ抱きついた。同情心をとてつもなく感じながら。
　人々は騒ぎつづけている。そして一人、また一人と展覧会場から逃げ去っていく。
「お前も苦しんでいるのか？」
彼は訴えかけるような目で、彼女を見つめた。僕はあなたの味方です、とでもいうように。彼は抱擁し続けた。会場にはもう誰も残っていない、彼とメドゥーサ以外は、皆、逃げ出していた。あたりはしんと静まりかえっている。彼らはずっと抱きあっていた。そうしていたかったから。頬をこすりあわせた。そうせずにはおれなかったから。彼は胸に顔をうずめたまま上目づかいでメドゥーサを見た。メドゥーサは純朴な村娘のような目で、ずっと彼のことを見守っていくというような、かわいそうな者をいとおしむような表情で、憐れみのこもった目で見かえしてきた」。悲しい目。悲しみに溢れている目。彼の顔がほてって赤くなった。数年間感じたことのなかった再生の気分に彼はひたっていた。新しい力が内部から湧き出てくるようだった。なんだか人生観が一変してしまったような。このまま抱きしめつづけていたかった。彼女をはなしたくなかった。彼は頬をつたう涙をぬぐいもせず、泣きつづけた。
『彼女の魂が安らかでありますように……』と、祈り続けながら。

　世界は寂しい処だ。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34256" seq_num="34" title="深夜のロドリーゴ" letter_count="2106" updated="2010-08-06T20:22:38+09:00" published="2010-08-06T20:16:11+09:00">
		<section><![CDATA[　ロドリーゴは眠ってしまった。たわいもなく。夢を見た。だらしない男だ。寝ているのか寝ていないのかもわからない。寝ていないのだろう。寝ていないのだ。そして今夜も現れるなぞの老人。その老人は隠微な世界観を持ってロドリーゴの前に現れてくる。切り裂かれた乳房がたくさんあるような。だんだん現実感がなくなり、世界全体から見放されている感覚がしはじめる。こいつからは逃れられない。永遠に。逃れられない。青臭い目だ。イカのような白さの体、に、赤い斑点が大小……　桃割れているおさげ髪をゆいあげていた。悪さが顔全体に表れていた。もはや対決は避けられない。今夜こそ、と、ロドリーゴは老人と話してみる覚悟を決めた。
「なんですか毎晩、あなたは？」
　老人は笑いさざめき、「おまえを好きだから、今日もまた椅子にキスする」もはや変人に近い。いや変人だ。「私はおまえの死んだ魚のような目に惚れたのかも知れない」
「どういうことです？」
「好きな女は？」
「ええと……」
　老人は手を、両手を、手のひらを開いて、パントマイムのように、目の前に壁があるかのように、そしてその壁を手のひらでぴたりとあわせるようにし、そのあと、手をスライドさせながら、
「待て、言わんでもわかる。おまえは女の顔を真の意味で認識することはなかった。これまでの人生。ただ見目麗しければよかっただけだ。だが違う。おんなとはその目だ。真剣なまなざしをできる女かどうか。そしてなによりおまえに対し優しい微笑をなげかけてくれるかどうか」
「そんなひとなんているわけないよ、だって僕なんて……」『やさしい微笑を投げかけてくれるわけがないんだ、僕なんかに……』
「待て、わしがアドバイスしよう。わしは脱サラしたんだ。何の計画もなくな。若かった。あの頃わしは若かった。若さにまかせて突っ走った。勤め人らめがしなを作ってすまして電車を待っている。わしはもうそんなラメガども仲間でいたくなかった！だが宮廷の宰相まで上り詰めた。で、好きな女は？」
「あの、僕は、僕には好きな人がいました。でも愛はさめた。彼女に何年も会わないうちに。でも、彼女のことを毎日思い返してた」
　老人はおおげさに頷くと、「わかってる、わかってる。恵理ちゃんに乗り換えたんだろ？」
「乗り換えたなんて！　ただの一方的な片思いです！」
「重婚を恥じるな！　生きていくためには愛がなければ生きられない！　人、すべて、幸せを目指している！」
「あの、なにをおっしゃっているんですか？」
「グチをはくな！　何が幸いしないかもわからないのだから！」
「でもあなたの言っていることは……」
「意味に乏しい」
「そうです」
「おまえがな」
「いや、あなたがです、それに……」
　老人のシャウトがロドリーゴの話をさえぎる。
「エゴを喪失するな！　マラカンヌ宮殿、傷ついた王の首都は、氾濫。欲望を開放するんだ！　意志に教えるんだ。叩き込むんだ！　おまえの名は？」
「ロドリーゴ……」
「そんな気がした。そうじゃないなかと睨んでいた。いい名だ。幸福であることを祈る！　お前は天才だ！　数年後、道端で小さな男が死んでいるだろう。カラカラに干からびて。おまえだ」
「それが僕だと？　ハハハ」
「面白がるな。曲がり間違っても犬を捨てるな」
「捨てるわけないでしょ」
「それを聴いて安心した。そうだ。そうして皆、自分のスタイルを築いていくんだ。人それぞれ。わしは安心して帰れる」
「どこに？」
　老人は途方にくれたように目がうつろになりため息を吐き、「だが、心の高揚を持続させることができるか？　無理だ、無理だ、おまえには無理だ」老人はロドリーゴをどこかへ連れて行きたいようなそぶりを見せていた。物問いたげな笑みを頬に浮かべ。そして投げやりに、
「ついていきたいのか？」
「……」
「だがな、筋肉が盛り上がっている男でないとわしらの国には入れないのだ。だが、いきなり力もちになれるわけではない。ゆっくりがんばれ。おまえなりに。ロドリーゴ。眉さえしかめていたら自分をいい人と思えるものだ。ラメガにだけはなるな。恵理ちゃんはおまえの過去を？」
「過去？」
「べつの女に惚れてたとかいう」
「そりゃそんな過去があるよりもなかったほうがもっと良かったですけど、あったのはしょうがないんですし、それでも僕は恵理ちゃんと一緒にいたいんです」
「だが、見込みがないからつらいんだろ？　そうだ、どんな困難があろうとその恋を成就させるのだ！」
「ただの女(ひと)です」
　星がちらばっている。ロドリーゴはタバコの煙を窓に向かって吐きつけた。生々しい悲しみを。ロドリーゴは人差し指に赤いペンダントを巻きつけた。そう、ただの女（ひと）。それだけなんだそうだロドリーゴにとって。
「こんどきたときにはおまえの本音を聞きだしてやる。今夜はこれぐらいで勘弁してやろう」すべてを見透かしている目だ。
　目と目が合うと老人は消え去った。こんな言葉を残し。「きみが掃除したのは知ってるさ」と。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34257" seq_num="35" title="早朝のロドリーゴ" letter_count="1163" updated="2010-08-06T20:18:45+09:00" published="2010-08-06T20:18:33+09:00">
		<section><![CDATA[「弱い者、弱い者、僕は弱い者です。いつ終わるかぜんぜんかいもく見当もつかなくて見通しもない未来を、みんなが楽しそうにおしゃべりしたりしてるのを、自分とは無関係の世界だと、……」
　独り言は自分の心にひびかなかった。ロドリーゴは胸にグッとくる言葉を捜し求めた。だが、見つかりはしない。それでも彼は言葉をはき続けた。「弱い者、弱い者です、僕は。だって弱いんですもの。だけど人々の嘲弄の対象になったならば、ただ従順に羊みたいに、去勢されちゃってるんじゃないかって印象を周囲に与えたりはしない！　媚びるような笑みをほほに浮かべ僕を馬鹿にするのをみんなが飽きてやめるまで待っていたりなんかはしない！　僕は逃げる！　立ち去れない男じゃない！　あいつ逃げやがったなと思うなら思えば？」ロドリーゴは上目遣いで、「僕はいやな目にあっているのに、まったく気にしてませんよって感じでその場をやりすごしたりなんかはしない！」まだ上目遣いのままだ。だか彼は何も見ていなかった。「すぐ去ってやる！　逃げ去って辿りついたその場所が生きた心地のしないひっそりとさびれた孤独な世界であったとしても！」
　グラスに入れられたカフェオーレがある。セブンイレブンで買った。いい気分で買った。それを少しロドリーゴは飲む。甘くておいしい。まずいはずがなかった。ロドリーゴは最近このカフェオーレにこっていて、おいしいことを知っていたのだし、まだその味のとりこのままなのだし。“永遠に歳をとらなければいいのに。そして仕事もせず、自由な時間だけがあり、それだと、一つの事を、追求できる。一芸のある人間になれる。でも、何かを捨てなければ、普通の幸せを捨てなければ、高みには昇れないのだろう。棄てさってしまって、未練を残しながらも捨てさっちまうから、たった一度の人生を、失敗に終わるかも知れない、親が子供に「夢を見るな。堅実に生きろ。有名人なんかにはなれるわけがないんだぞ」と言う。その道は、落伍者の道で、自分は普通の人間ではない、いや、そうじゃないんだ、自分だって、みんなと一緒なんだ、何も変わらないんだ、だけど自分はみんなの様にはもう生きられないんだ、だってもう僕はみんなのように生きようとしていないし、もし僕がみんなのように生きようとし、もし成功したら、きっと誰かを不幸せにしてしまうとわかっているから。僕のゆく道に道づれはいらない。一人でゆきます。そう、みんなと同じになれるかも知れない時間をつかって、つかうから、でないと真剣になれない、みんなのことを好きだから”
「話がそれた」
　そしてロドリーゴはもぞもぞと仕事着に着替え、腕時計で時間をチェックする。
「もう一人ごと言ってるような暇ねえや」
　そして毎日、せかされるようにあわてて職場へと向かうのだった。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34258" seq_num="36" title="世間で噂のロドリーゴ" letter_count="2314" updated="2010-08-06T20:19:37+09:00" published="2010-08-06T20:19:21+09:00">
		<section><![CDATA[　背もたれのないイスに座って腰を振っている男がいた。精神を病んでいるのだ。イス。基本構造は木のイスだがその男によってケツを乗せるところにはクッションが敷かれてあり、入念なラバーがほどこされている。そして男も革ジャンを着ている。茶色なのか黒色なのか、その中間で、黒色が変色したようにも見え、かける言葉は、「安っぽいですね」しかない。もちろん心の中で思うだけだが。男はフランスじこみのシャンソンを奏でている。腰をくねらせているのは自慰をしたいのが人目をはばかりできないからで、いわゆる落ち着きなくそわそわしている。ロドリーゴが配達所に姿を見せ、
「おはようございます」
　と、挨拶しても、口髭をたくわえ短くかられた頭の所長は気にもせず、ゴキブリのまだ小さい赤ん坊のような３、４ミリぐらいの奴がひっくり返ってしまって起き上がろうと必死に足をもがかせているのを見ていた。その姿に自己を投影していたのだ。そのゴキブリ、彼の現在はせっぱつまっていて、起き上がることしか考えられないはずだ。起き上がった後の苦難などこの瞬間にはどうでもいいことで、起き上がりたい、その一心だけで、起き上がれれば死んだっていい気持ちだろう。起きあがったあとも大変なのに！　起きあがれず死んでしまったほうが楽だっただろうに！　もしゴキブリに思慮分別があれば、与えられたならば、そう思わずにいられないだろう。その短いゴキブリとして生きることに。集中治療室のベッドで意識が回復したとき似たようなことを叫んだ男がいた。「なぜ俺を治した！　死にたかったのに！」そして男はこれからまだ生きつづけねばならないのかと暗い気分に落ち込んだ。その男とはまさにこの新聞所の所長だ。それまでの人生地元では名の知れたホテルの営業課長をしていたのだが、不況のあおりを受け給料を大幅に減らされたため、以前から誘いを受けていた新聞配達の所長になる決心をした。なんでも「もし、あの時そうしていなければ、せっかく建てた家のローンが払えなかった」そうで、転職のためらいはもちろんあったのだが、案外すんなりと配達所の所長の座を引き受けた。前の所長はもう高齢に達しており便意をふんばれる力がもうすでになかった。トイレのない配達所において、は。無理な体だった。当初は所長が変わったことにより、それまで人間関係のしがらみじょう内心いやいや新聞をとっていた家がとるのをやめて部数ががた落ちしたものの、しんまい所長の前職が営業マンだったこともあってか徐々に購読者たちとなじみになっていき、いまでは所内にピアノを持ち込み鍵盤をたたき配達人を待っている有様だ。所長の上半身は前述のとおり革ジャンだが、下半身はパジャマのままでいつもずりさがっていた。あげようとする動作を見たものは朝刊を配達するメンバー5人のうち誰も見たことがなかった。革ジャンのチャックがあげ閉めされるのを見守るのみ。丘の上、鳥は飛ぶ。木々は伸びる。無慈悲に。それが自然界の営みだ！　だが新聞配りに対抗心のかけらもない。配り、配り、配り終えるのみ。ぶっきらぼうに、次から次へと。薄らいでいく人間としての誇り。敵視してくるものとていない。年老いた犬のようにカブにまたがり出発だ。カブのチェンジペダルが足の裏にしっかりとフィットしている。わらじを履いた小姓の気分だ。穏やかなる小姓。抵抗してくるものとていない。風となる存在。感情を熱き炎で燃え立たせる必要も皆無。若かった頃のようにはもうもどれはしない。ロドリーゴが若者と接したのはもう半年も前にさかのぼる。若者というよりまだ少年か。少年院あがりの子でその少年に新聞の引継ぎをしてもらった。少年は、「僕は二日で覚えたよ、なんであなたはまだ覚えられないの？　もう３日目だよ」と生意気を言い、ロドリーゴは返す言葉もなく、しかし、１、２ヵ月後所長に「あの少年は2日で覚えたらしいですね」などと軽く雑談していると所長は眉毛をキリッと上げ、睨むような目つきになりそれまで弾いていたＱｕｅｅｎのKiller Queenの演奏をメロディの盛り上がるところで突如やめ、ベートーベンの運命を弾きだし、
「それは嘘だね、あいつは半月かかった」
　と木村良男に言った。言われたベテラン配達員木村良男もなぜ自分に向かって言われたのかがわからず、タバコに火をつけ、
「俺は一週間だったな、普通だな」と誰に言うともなしにつぶやいて新聞の折り込みを始めた。少年はこうも言っていた。「新聞配達なんてやってられないよ。計算してみたんだけどね、コンビニのほうが自給いいよ。それに新聞配達は夜中だし。夜中に歩いてる奴はすべてキチガイだと思ってたほうがいい。そんな危険もあるからねこの仕事は。コンビニのほうがだよ。ロドリーゴ・ロドリゲスさんの前に引継ぎ教えてたおっさんなんかキチガイだったからなあ。結局家を覚えられないで僕にやつ当たりさ。『おまえの教え方は何だ！　年長者に対する態度かそれが！』つって」
　長者屋敷街を配り、電信柱と電信柱の間に４軒配り、団地の階段をかけのぼってはかけ降り、配る。
“あいつは今頃コンビニでバイトしてんのかな”そんな思いにかられながらロドリーゴは三池港までカブを走らせる。空は明け始め、有明海がオレンジ色に染まってゆく。“あいつも毎朝この道をとおり、日の出を見てたんだな。ああ、僕はいつまでこの日の出を見つづけなければならないのか……”
　ロドリーゴはヘルメットのあご紐をはずすと、
「僕は幸せになりたい！」
と消えゆきつつある星に向かって叫んだ。ロドリーゴの叫びが夜空を完全に照らすのだった。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="34259" seq_num="37" title="ロドリーゴの死" letter_count="849" updated="2010-08-06T20:20:54+09:00" published="2010-08-06T20:20:42+09:00">
		<section><![CDATA[　いくぶんここ数日より風は吹きあがっていない。雲だらけの空。雨が降ると、涼しくなるだろう。海の底、蛸は岩陰から岩のわれ目へといとも簡単に体をくねらせ跳びうつる。エイの群れが空を飛んでいるようだ。かげりゆく黒また黒へと。アレクサンドロス大王が女たちのはべる夕餉を終えると宮廷楽師たちを呼び寄せ竪琴の音色に耳をすませていた。黄金の玉座に座しながら。ロドリーゴは便座に腰かけ、トイレットペーパーをつまんでははなしクソ紙をまきとってゆく。海は荒れに荒れ大雨のさ中だ、漁師らは足腰に力をこめふんだんにエモノあれと願いつつ漁船に網を引きづりこむ。ホタルイカ漁だ。明滅する網。イルミネーションで装われた杉の木のつづく道べにそってロドリーゴの家のトイレはある。電燈は丸い円盤で電球が覆われている。頭上に小さな円盤。確認できる停止している物体。KTB。危険はない。キッズキーボードでbeatlesのrainを弾きに戻ろうと立ち上がるロドリーゴ。すると、見たこともない動く生物。MUS。ムスが、トイレの窓からしのびこみロドリーゴの喉もとをしめつける。ロドリーゴの四肢がぐったりしていった。ヘリウムガスの抜けてゆく風船のように。精液を出し終えたあとのチンポのように。ムスはゴム状星雲ゲムの唯一の脱出者で、DNAレベルで刻みこまれた他人を傷つけることでしか喜びを感じることができない生粋の殺人鬼だ。矯正不可能。全身グリーンでほぼ人型だがやや頭部が大きく、首は細い。喉ぼとけがエレベーターのように昇ってはさがり、規則正しい呼吸をしている。ムスは5人兄弟の末弟だった。だがそれはムスの理想ではなかった。ムスは誰からも愛されたことがなかった。孤独だった。ムスがいちばん結婚したい女性。それがクロヤナ・テッコだった。その人だけをいい女(ひと)だとは思わないが。その女と関係を持ちたい。唾を吐きかけられる関係でもいい。無視されるよりましだ。気持ち悪がられる存在でもいいんだ。ムスはそんなことを思いながらロドリーゴの死体を食っていた。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="25476" seq_num="38" title="思い出を思い出しながらforeverと僕はつぶやいた" letter_count="3735" updated="2009-08-23T12:38:31+09:00" published="2009-08-23T12:38:05+09:00">
		<section><![CDATA[　　　　１

　すばらしいにおいがしていた。靖子さんはいつも、「私はフェラチオしてるときが一番幸せなの」と語っていた。彼女の選んだ死という選択を前にして、僕は途方にくれながら、その言葉を思い出す。
　僕は彼女から貰ったアロマ・セラピーのお香をたいて、忘れかけていた思い出を、呼び戻そうと、目を閉じ、時間を流れるままにまかせた。
　僕らが出会ったのは、ちょうど僕が京都へ引っ越した日だった。朝早く目覚めた僕は、旅行鞄に下着やらノート・パソコンやら小説やらつめこんで新幹線で京都駅まで向かった。ついたときはまだ午前中だったと思う。それから僕はぶらぶらと鴨川の土手を歩いていた。来た早々僕は途方にくれていた。一人でこの土地で生きていける自信がなかった。とても暗い表情をしていたと思う。そんな時、彼女が声をかけてくれた。
「どうしたの？　元気ないね」
　彼女は薔薇を縫いこんだピンクのカーディガンを羽織って、僕の前に立ちはだかると、僕の手を握り締めて、
「そんな元気ないとだめよ。……私が元気にしてあげよっか？」
　そう言い、僕の目を覗き込み続けていた。僕は目をそらして、川へ小石を蹴りこみ、歩き去っていく彼女をしばらく見ていた。心にぽっかりと穴が空いたみたいになって、僕は無性に彼女がいなくなることが悲しくなって、走って彼女を追いかけた。彼女は振り返って僕を見ると、にっこりと微笑んだ。彼女の微笑はまた彼女の年齢も明らかにしていた。彼女が笑うと頬にうっすらと皺がきざまれ、母性本能に狂ったその眼差しは、僕の心と体をむさぼり尽くした。
　彼女は四条河原町の古ぼけたビルの5階で暮らしていた。玄関前には花壇があって、コスモスの花が咲いていた。ひっそりと咲いていたその花は、僕の心の中でいまでも美しく、そして寂しい印象を与え続けている。雑多な人々が行きかう繁華街の中で、そこだけが時間をとめて存在しているような、寂しさと、その寂しい群像の一人と時間を共有できていた不思議さを僕は懐かしむ。
「しばらく待ってて」と彼女は言うと、ガタンとドアを閉めた。僕は体を街へ投げ出すようにして、地上を見下ろしていた。人が行き交い、車が行き交い、ビルは僕とは無関係に人々を飲み込み、吐き出す。それぞれの目的や欲望にそって歩き続ける彼らと僕との接点はどこにもない。人は一人で生きていき、死んでいくのだろうか。誰からも本当の自分を理解されることなく、誰をも理解することなく。やがて、ドアが開かれ、白いブラジャーを下ろして乳房をだしている靖子さんが、「入っていいよ」と声をかけた。パンティーはピンク色で頼りなげな紐で両脇で結ばれていた。
　玄関の壁面は内側に傾斜していて、三角形のような形になっていて、壁にいくつか穴があけられそこにローソクや写真たてが置かれていた。靴箱の上には鳥かごに入れられたオウムがいて、彼女が言うには、
「このオウム私が子供のときから飼ってるのよ、もう30年ぐらいたつかな」
「何歳なの？」
「私？　39歳よ、あとちょっとで40になるけどね」
　それから彼女はベッド・ルームに僕を招きいれ、毛布やシーツがぐちゃぐちゃと乗せられたベッドに寝るように指示し、僕が言われたとおりにすると、満足げに微笑し、僕の下半身に前かがみになると、靖子さんは僕のズボンのジッパーを、「苦しそうだから、楽にしてあげるわ」とおろし、トランクス越しに、僕の陰茎をなでさすると、「体に似合わずおっきいわね？　おっきいってよく言われるでしょ？」
「いや、女性にそんなことされたことないし、見せたことないから……」
「ほんと？　じゃあしゃぶられたこともないのね」ズズッっと僕はトランクスをずり下げられ、陰茎をむき出しにされた。靖子さんは唾液を僕の陰茎に落とし、陰茎を握り締め何度かスライドさせると、音を立てながら僕の陰茎を咥え、舌をつかいながらむしゃぼりつきはじめた。彼女は、
「ああ、私はおちんちんをしゃぶらせられているのね、私はこんな若い子に命令されておちんちんをしゃぶらせられているのね」そんなことを腰を振りながら言っていたが、パンティを脱いでしまうと、僕の顔の上に中腰になって乗り、「さあ、おまんこを舐めるのよ、舐めなさい、命令よ」僕の髪を手で握り、ひっぱりながら、腰を僕の顔に押し付けてきた。
「おまんこおいしいの？　おいしいなら舌を入れなさい、あとでアナルにいれさせてあげるからね。私、あなたのぶっといおちんちんをアナルにいれられていじめられたいの、私はおちんちんがないと生きていけない女なの」
　僕に、その日の記憶はあまりない。それから彼女は、たしか、
「乳首を思いっきり摘んで！　もっとよ！　引きちぎれるぐらい摘み上げて！」そんなことを叫んでいたと思う。それからしばらくの間、僕は彼女に『素敵なおちんちん』というあだ名で呼ばれていた。

　　　　２

　僕は指にchrome heartsの指輪をはめて、長い時間、それに見入っていた。この指輪は靖子さんが僕にくれたものだ。とてもきれいな輝きをしていて、リング全体に蔓草を象ったデザインが彫り刻まれていた。ただ、この指輪は彼女の人差し指にはちょうど良くはまったが、僕の指にはあわず、唯一入るのが小指だったが、少々ぶかぶかしていた。普段生活していて外れることはなかったが、だが多少激しい運動をすると、抜け落ちてしまう。僕は何度かこの指輪を失くしそうになったことがあった。そのことを彼女に言ったことがある、すると、
「ほかの指にはどうしても入らないの？」
「左手の薬指になら無理したら入るけど、とれなくなるんだ」
「別にいいじゃない、ずっと嵌めてたらいいんだから」
「でも左手の薬指だからねぇ……」
　靖子さんは不思議そうに僕を見て、「別にいいじゃない」そう言った。
　僕はタバコを吸い終わってしまうと、暮れないに染まる夕焼けの空を眺めながら、彼女が僕にこの指輪をプレゼントしてくれた日のことを漠然と思い返し始めた。そう、コンビニで買ったワインをあけ、glassに注ぎながら……、僕は遠い目をして、過ぎ去った過去の忘却の狭間から記憶の断片を手探りする。
　蒸し暑い日だった。確かその日は月曜日だったと思う、仕事にでかけようと、僕はバス・ルームで歯を磨いていた。携帯の着信音がなり、誰からだろうと思い見ると、靖子さんからだ。なぜ、こんな時刻に彼女から電話があるのだろう、そう思いながら、
「もしもし」──だが、彼女は何もしゃべらない。ずっと押し黙ったままだ。
「もしもし、どうしたの靖子さん、これから仕事に行かないといけないんだけど」
　受話器の向こうから彼女のすすり泣く声が聞こえ始め、
「ねえ、今から家に来てくれない、お願い、無理な頼みだってことはわかってる、でも来てほしいの、お願い……」
「どうしたの？」
「お願い、急いできて、タクシーに乗って」そう言って、彼女はすすり泣き続けるだけだ。
　僕は戸惑ったが、「わかった。いくよ」といい、電話を切ると、会社へ、熱があるので休むと電話した。
　僕は彼女の住むビルの階段をかけあがり、インターフォンを押した。ピンク色のドアの前に立ち続けていると、僕は日々の忙しく苦しい仕事から抜け出して、何かアラブのお姫様のもとに駆けさんずる若き兵士のように自分が思え、この今にも開いて、僕を招きいれようとしているドアが、そう、このドアは僕以外のものを招き入れないのだ、という感慨が僕の胸に押し寄せてきた。63億もの人々が住んでいるこの地球で、僕以外にはこの扉の奥へ突き進んでいくことは許されていない、僕だけがこのドアの奥へと入っていける唯一の人間なのだ、そう思え、誇らしかった。だが、一種の悲しみがないわけではなかった。僕は靖子さんとしか人間的なつながりを持っていない、それも深い愛情で結ばれているとはいいがたいつながりに過ぎないんだ。ただ、偶然に出会い、そして惰性のまま会い続けているだけに過ぎないのだ。そこには愛はなかったし、淋しさを癒すものもなかった。そこにあるのは一時の気晴らし、そして愛のない、だが愛に似た行為を繰り返すやむことのない性欲を解消しあうだけの関係。当時の僕は堕落しきっていただけだったのかも知れない。
　そして、ドアは開かれた。
「あっ、来てくれたのね」とそっけなく彼女は言うと、ダイニング・ルームへ歩いていった。ガラス張りのテーブルを前に僕はソファに腰をかけると、
「そこは私が座るから、もうちょっと向こうにいって」彼女はそう言いながら、ペットボトルからコップへ、午後の紅茶を注ぎ、「はい」と差し出す。
「ありがとう」
「いいえ、私のほうこそありがとう、来てくれて」
　僕は無言で流れる汗を流れるままにしていた。その日に靖子さんは、「二人の思い出に」と、chrome heartsの指輪を僕にくれたんだ。その指輪はそれまで彼女の指に嵌っていた。そして今は、思い出にふける僕の左手の小指に嵌っている。
]]></section>

	</chapter>

	<chapter id="3076" seq_num="39" title="互いの傷をなめあうようにナオコとファックしたい" letter_count="38057" updated="2009-06-24T16:05:07+09:00" published="2008-02-10T08:38:36+09:00">
		<section><![CDATA[　　　Ⅰ　　

　僕は連日の猛暑でいらいらいらいらしていた。待っている宅急便もずっとこない。朝からもう六時間も待っていた。いつ来るか分からないから外出もできない。僕はもう出かけようと何度も思った。だけど最初に鏡を見たとたん、外に出る気が消えうせた。だけどまた鏡を見た。そしてそのたびに自分の顔に納得がいかなかった。日差しが無いせいかも知れないと思い、カーテンを開けたら、部屋中タバコの煙だらけだと分かった。何だか急に脳がくらくらしてきた。それは暗い部屋にずっといて、いきなり太陽の光を浴びたからかも知れなかったけど。何だかまぶたの奥も痛くなってきた。
　僕はテレビをつけた。温泉番組がやっている。うまそうなものを食っている。やはりうまいのだろう「おいしい」を連呼している。
　何だか僕は余計に頭痛がひどくなったんで、テレビを消した。ふと、今日はもう来ないな、と感じた。僕はまた鏡を見た。やっぱり今日の僕は不細工だ。今日の僕だけなんだろうか？　ずっと僕は不細工だったんじゃないだろうか？　でもジョン・レノンだってジョージ・ハリスンだって年代によってずいぶん顔が違うから、僕の顔が不細工なときがあったっていいんじゃないか。
　僕はそう思って玄関まで行った。そこでまた迷った。目の前に無機質なドアがある。ドアを開けて歩き出せばいい、ただそれだけのことだったけど、なかなかそれができなかった。僕は自分に言い聞かせた。人がどう思おうと知ったこっちゃないだろ、好きなように思わせとけ、行くんだ、勇気を出せ。俺が不細工だって人に思われたって別に俺が死ぬわけじゃないんだ、だからいいじゃないか、気にしてない振りをしておけ。
「行くぞ！」僕は叫んだ。何度も何度も行くぞ、行くぞと叫びながら靴を履いた。だんだん僕は興奮してきて心拍数も高くなっているようだ。頭の中がスカスカになったみたいな感じで、今ならどんな不良相手でも売られた喧嘩ならいくらでもかえるだろうってそんな精神状態になった。はぁはぁ言いながら、僕はドアを開けた。廊下には誰もいなかった。鍵を無くしているので僕は鍵を閉めずに下へ降りた。マンションの二階に住んでいるので僕はエレベーターを使わないでいつも階段で下りることにしている。エレベーターを待っている時間がイライラするし、誰か知らない人と乗り合わせるのも気まずいからだ。こんなこと言ってるけど、僕は別に人と接するのが嫌いなわけじゃない。たしかに僕は人と話すときまごまごしてしまうからそれはちょっと嫌だけど、それはそんな自分をふがいないと思うだけであって、僕をそんな風にさせてしまう人が嫌いなわけじゃない。むしろ好きだ。いや僕は人とあって話をすることが大好きなんだ。見ず知らずの人とコミュニケーションする時の何ともいえない空気感が好きなんだ。でも相手も楽しんでるかなってつい思っちまうともうダメだ。早くその場を立ち去りたくなってしまう。でも僕は人に好かれたいんだ。だけど猿顔のキモい奴って女の子に思われてるんじゃないかなって悩んでるから僕は自分から女の子を避ける。それは僕の被害妄想じゃない。それは鏡を見れば明白なことだ。若い女の子ってキモい男に容赦がないだろ？　僕が何を言ったってキモいから笑ってくれないだろうからさ。キモいことを自分でネタにできるとかいうレベルじゃないんだ。女の子にヒカれながら、「でも恭一くんってそこまでひどくないよ」とかもう二度と言われたくないじゃん。そうもう二度と。もうあんなことはごめんだ。それも僕がこの世で一番好きな人に。だから僕は口を閉ざして思っていることも言わないような奴になってしまった。でもだ、猿顔が好きな女の子だっているはずさ。山口百恵の歌じゃないけど広い日本に僕を大好きだって言ってくれる子も一人ぐらいいるはずさ。その子にとって僕がジャスト・マイ・タイプなんだっていう子がね。でもやっぱり日本は広いから出会えるかが問題なんだよな。
　僕はそんなことを思いながらコンビニに歩いていった。今日はおばさんの日かな？　初田さんいるかなぁ。いないだろうな。あの子夜の八時頃いることが多いからな。でも前は昼間いたよな。僕が八時頃によくコンビニ行くようになってから、彼女もその辺の時刻にシフトしたみたいだ。……僕に会いたがってるのかな。彼女と初めて会ったときあの人僕の顔まじまじと見て顔が上気していた。でもわからない。僕のこと好きなのか。結構美人だから彼氏いてもおかしくないと思うけど、でも指輪してないしな。僕が小学生の頃ああいうタイプの人に好かれたことあるからもしかしたら僕のこと好きなのかもしれない。僕はコンビニの駐車場まで来ると窓から店員を覗いてみた。初田さんがいた。黒く長い髪。間違いない。僕は気取ったような足取りで開かれたドアまで歩み寄って、吸っていたタバコを灰皿の中に落とした。タバコの火が水で消えるときジュッっと音がした。
　僕は何食わぬ顔で本の横を通り抜けて飲み物を売ってあるところで立ち止まって思案した。僕はコンビニに入るといつもこのコースをとる。いきなしカウンターの前を素通りする勇気がないのだ。そんなことをすればかなり恥ずかしいに違いない。だがタバコだけを買うときは仕方ないから、すぐにカウンターまで行きタバコを受け取ると疾風のように去る。タバコを買うという目的があるのだ、そう主張できるのであまり恥ずかしくはないが、お金を払っているときにどうしても赤面してしまう。それに第一僕はそんなに急いで帰らなくても別にいいのだ。時間に追われてないのだし、そのことはコンビニ店員も知ってるはずだ。なぜなら僕は朝も昼も晩も夜中もコンビニに行くからだ。だけれど昼担当の人と夜中担当の人が違うから彼らの間にコミュニケーションがとられていないなら僕のその秘密を知るものは誰もいない。そうであってくれればと願うばかりだ。僕はまずコーラを手に取った。すぐにジンジャーエールのほうが良かったと後悔したがもうコーラを手に取った以上買うしかない。もし僕がコーラを戻せば、あいつ手で一回触ったのを戻しちゃったよ、かっこいい人がするならわかるけど、風呂に入ったかどうかわからないような奴が何しちゃってんのって思われるのが嫌だから僕はもう買うしかない。実際僕はオナニーしたあと手を洗わないでやってきているのだ。あまりあれこれ商品を触らないほうがいい。僕みたいな奴にもちゃんと商品を売ってくれるというだけで感謝しないといけないんだろう。
　僕はコーラ片手に何十分も何かほかに買うものがないかと店内にいた。でもそれはそういう振りをしていただけだ。あと買うものはタバコだけだった。店の外にもタバコの自動販売機があるが、そこで買うと初田さんに話しかけれない。だけどうまく発音できる気がしなかったから、僕は買う気もないお菓子をずっと選んでいる振りを続けていた。僕はあまりお金がないか