女なんてどうせくだらないやつらさ
このテキストを読まれているということは、あなたは焚き火という人を知っているという前提でお話させてもらうが、先日、テキスポの中でぼくは、浮きまくった行動を取った。詳しいことはミクの日記に書いているので、足跡を辿られてぼくに訪問されてもいいと思われる方は覗いてみてください(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=736456379&owner_id=4668746)。
もしくはモリタポで2ちゃんねるの過去ログを買ってください(http://love6.2ch.net/test/read.cgi/bookall/1197897726/)。
で、なんとなくテキスポの空気に馴染めないなあなんて思っていたら、1モリタポで買えるテキスポの「テスト用の有料本」というものを読んで合点がいったのである。この本についての内容を無断で転載する気はさらさらないが、まあ、これから書くことのぼくの信念を読んでいただければ、納得していただけると思う。
とにかく小学生の頃から、女子という生き物はぼくにとって敵以外の何者でもなかった。だいたいみんな、小学生のときは「女はいや」とか「男はきらい」とゆう気持ちを抱えたまま生きていたようだけど、ぼくのその感情は普通の男の子よりもずっと強かった。女子トイレに、隠し持ってきた花火を投げ込むほど女子がきらいだった(花火で思い出したけどぼくは花火密輸の常習犯だった。五年生のとき、ウサギ小屋に花火を投げ込んでいたら藁に火が点いて消防車を出動させたことがある。あのときはそのあと、用務員さんに一升瓶で頭を殴られた。あの日からぼくはバカになったのかもしれない)。
たとえば、小学校には「道徳」とゆう科目がある。子供相手に人の道を説いてどうするんだと思うけど、とにかくあるのである。担任の先生の顔から三年生か四年生ぐらいだったと推測されるが、いまでもはっきり憶えているこんなことがあった。
どこの学校でもやっていることは大して変わんないと思うけど、道徳の時間は教育テレビの道徳番組、たしか「さわやか三組」あたりを十五分ぐらい視て、そのあとに感想文を書いて発表するような流れだった。
はっきり憶えているけどその日のテーマは「くずれたハンバーグ」。給食の時間にひとつだけくずれたハンバーグがあって、それがクラスでいちばんおとなしい女の子に置かれていた、とゆう子供の純真に問いかける内容だった。
そんなどうでもいいものを視させられたあとの感想文の内容は大体決まっているものだ。「自分ひとりが我慢すればいいだけのことだから、わたしだったらくずれたハンバーグを食べたと思います」、いつもは人よりも少しでも大きいおかずを探している男の子やきれいな見かけのおかずを選んで配膳の列を長くしている女の子だってそう書くのである。
ぼくはとにかくそういうキレイゴトが小学生の頃からきらいだった。だからぼくは「くずれたハンバーグなんか食い残しの残飯に見えるから、ぼくでも人に押し付けるか、もし押し付けられたときには食べないと思います」と書いた。
だけど、本当の話、ぼくは偏食児童だったからそれほど給食にこだわりがなかったのである。小学校二年生の家庭訪問で先生が「お家ではなにを食べさせていますか」と訊いてきて、うちのママさんが「ドッグフードでも食べさせているように見えますか」と答えたというエピソードがあるほど、ぼくは本当に給食がきらいだった。ぼくにとって給食は腹を満たすものでも、味わって食べるものでもなんでもなく、食べないと怒られるから食べるものだった。ので、おかずの形とかなんでもいい人だったのである。
さて、感想文の発表になる。先生は、ぼくの授業の意図に反している作文を書く癖を充分に理解していたから、いくら手を挙げようともぼくに感想文の発表はさせない。ただ、これはいま考えたら小学校ってえぐいことをやっていたなあと思うけど、人の感想文を聴いたあとにその感想を言ったり質問したりする時間があったのである。ここはあんまりだれも手を挙げないので、ぼくにも発言が許されることがあった。
活発な、先生のお気に入りの男の子も女の子も、次々に「くずれたハンバーグを自分だったら食べる」と発表している。ぼくはそのたびに質問する。
「本当にあなたは食べるんですか?」
「このあいだ、ぼーっとしてたらパンのはしっこの耳ばかりの固いところがぼくに来ました。どうしてあのときの給食当番の人は自分で食べようとしなかったのですか?」
ただしこの、あのときあなたはこうしましたよね型の質問は、水掛け論になるのであまり効果がなかった。ぼくはただ「食べるんですか?」と訊いて、みんなが「食べます」と答えるのを、こういうことをいっている人がいってることとやってることの違う大人になるんだろうなあ、と思って聞くしかなかった。最後に先生が多数決を取ったら、ぼく以外の児童全員が「自分だったら食べる」と言った。
だからぼくは、その小学生の道徳心をたしかめるために、給食当番のときに白身魚のフライ(あのメルルーサのフライだ)の担当になった。そしてぼくは、フライをわざと力をいれてつかんで、ぐちゃぐちゃにしながら配膳をした。
「ごめん、なんか勘がつかめなくて……」
「また、力はいりすぎちゃった」
みんな困ったような顔をしながらも、くずれたハンバーグ食べるってゆっちゃったからなあって顔をしている。先生が「まじめにやりなさい」といいに来たけれど、ぼくの不器用さは図工の時間でおなじみだったから、苦手のことでも一生懸命やりなさいの理想によって先生はあまりぼくに強くいうことができなかった。
そうこうしているうちに、ぼくの女子への印象を決定付ける事件が起こる。
「こんなに汚いのあたし食べられない」
といって、一人の女子が泣き出したのだ。しかもその女子は、くずれたハンバーグをわたしだったら食べると思いますの感想文まで発表したクラスでも活発な女子だった(余談だが、いま彼女は看護士になったそうだ)。
このあと、ぼくがわざと白身魚のフライをくずしていたなんてことで責任追及はされなかったのだが、ぼくはこの一件以来、女子は敵だと認識した。
女子を敵にまわすと、学校生活は大変だ。女子は先生を味方につけることを知っているから。
たとえば、掃除の時間、机を運んでくれないなんてしょっちょうである。これはけっこう、小学生のピュアな心には哀しいものだ。だから、そういうときはいつも報復として、教室の掃除当番だった女子の机を一台ずつ蹴っ飛ばしていたのだが、それをやると女子は嘘泣きをしやがって五時間目はぼくが机を蹴飛ばしたことについての学級会になったりする。やられてやり返したら、政治的に決着をつける。本当に女子は汚かった。
女子は正しいことをいいたがる。そのくせ、筋を通すより、自分に得なことを優先する。
ぼくはそれ以降、こういう女子らしさをいまだにかなりきらっている。
ただし、ぼくのことを「好きだ」といって寄って来る女子だけは別である。
ぼくは身長が一六八センチで体重が五十二キロの虚弱な青白い顔をした男なのだが、ものごとがよくわかっている本質的にものを見る目が養われている素敵な女性には、そんなぼくでも、中性的な、少年でも少女でもないまるで天使のようなイメージに見えるはずだ。
そんな高尚な女性たちが束になってぼくのファンクラブを作ってくれたら、ぼくは喜んで女性達の輪の中に飛び込むだろう。
いや、飛びこまさせてください!
もしくはモリタポで2ちゃんねるの過去ログを買ってください(http://love6.2ch.net/test/read.cgi/bookall/1197897726/)。
で、なんとなくテキスポの空気に馴染めないなあなんて思っていたら、1モリタポで買えるテキスポの「テスト用の有料本」というものを読んで合点がいったのである。この本についての内容を無断で転載する気はさらさらないが、まあ、これから書くことのぼくの信念を読んでいただければ、納得していただけると思う。
とにかく小学生の頃から、女子という生き物はぼくにとって敵以外の何者でもなかった。だいたいみんな、小学生のときは「女はいや」とか「男はきらい」とゆう気持ちを抱えたまま生きていたようだけど、ぼくのその感情は普通の男の子よりもずっと強かった。女子トイレに、隠し持ってきた花火を投げ込むほど女子がきらいだった(花火で思い出したけどぼくは花火密輸の常習犯だった。五年生のとき、ウサギ小屋に花火を投げ込んでいたら藁に火が点いて消防車を出動させたことがある。あのときはそのあと、用務員さんに一升瓶で頭を殴られた。あの日からぼくはバカになったのかもしれない)。
たとえば、小学校には「道徳」とゆう科目がある。子供相手に人の道を説いてどうするんだと思うけど、とにかくあるのである。担任の先生の顔から三年生か四年生ぐらいだったと推測されるが、いまでもはっきり憶えているこんなことがあった。
どこの学校でもやっていることは大して変わんないと思うけど、道徳の時間は教育テレビの道徳番組、たしか「さわやか三組」あたりを十五分ぐらい視て、そのあとに感想文を書いて発表するような流れだった。
はっきり憶えているけどその日のテーマは「くずれたハンバーグ」。給食の時間にひとつだけくずれたハンバーグがあって、それがクラスでいちばんおとなしい女の子に置かれていた、とゆう子供の純真に問いかける内容だった。
そんなどうでもいいものを視させられたあとの感想文の内容は大体決まっているものだ。「自分ひとりが我慢すればいいだけのことだから、わたしだったらくずれたハンバーグを食べたと思います」、いつもは人よりも少しでも大きいおかずを探している男の子やきれいな見かけのおかずを選んで配膳の列を長くしている女の子だってそう書くのである。
ぼくはとにかくそういうキレイゴトが小学生の頃からきらいだった。だからぼくは「くずれたハンバーグなんか食い残しの残飯に見えるから、ぼくでも人に押し付けるか、もし押し付けられたときには食べないと思います」と書いた。
だけど、本当の話、ぼくは偏食児童だったからそれほど給食にこだわりがなかったのである。小学校二年生の家庭訪問で先生が「お家ではなにを食べさせていますか」と訊いてきて、うちのママさんが「ドッグフードでも食べさせているように見えますか」と答えたというエピソードがあるほど、ぼくは本当に給食がきらいだった。ぼくにとって給食は腹を満たすものでも、味わって食べるものでもなんでもなく、食べないと怒られるから食べるものだった。ので、おかずの形とかなんでもいい人だったのである。
さて、感想文の発表になる。先生は、ぼくの授業の意図に反している作文を書く癖を充分に理解していたから、いくら手を挙げようともぼくに感想文の発表はさせない。ただ、これはいま考えたら小学校ってえぐいことをやっていたなあと思うけど、人の感想文を聴いたあとにその感想を言ったり質問したりする時間があったのである。ここはあんまりだれも手を挙げないので、ぼくにも発言が許されることがあった。
活発な、先生のお気に入りの男の子も女の子も、次々に「くずれたハンバーグを自分だったら食べる」と発表している。ぼくはそのたびに質問する。
「本当にあなたは食べるんですか?」
「このあいだ、ぼーっとしてたらパンのはしっこの耳ばかりの固いところがぼくに来ました。どうしてあのときの給食当番の人は自分で食べようとしなかったのですか?」
ただしこの、あのときあなたはこうしましたよね型の質問は、水掛け論になるのであまり効果がなかった。ぼくはただ「食べるんですか?」と訊いて、みんなが「食べます」と答えるのを、こういうことをいっている人がいってることとやってることの違う大人になるんだろうなあ、と思って聞くしかなかった。最後に先生が多数決を取ったら、ぼく以外の児童全員が「自分だったら食べる」と言った。
だからぼくは、その小学生の道徳心をたしかめるために、給食当番のときに白身魚のフライ(あのメルルーサのフライだ)の担当になった。そしてぼくは、フライをわざと力をいれてつかんで、ぐちゃぐちゃにしながら配膳をした。
「ごめん、なんか勘がつかめなくて……」
「また、力はいりすぎちゃった」
みんな困ったような顔をしながらも、くずれたハンバーグ食べるってゆっちゃったからなあって顔をしている。先生が「まじめにやりなさい」といいに来たけれど、ぼくの不器用さは図工の時間でおなじみだったから、苦手のことでも一生懸命やりなさいの理想によって先生はあまりぼくに強くいうことができなかった。
そうこうしているうちに、ぼくの女子への印象を決定付ける事件が起こる。
「こんなに汚いのあたし食べられない」
といって、一人の女子が泣き出したのだ。しかもその女子は、くずれたハンバーグをわたしだったら食べると思いますの感想文まで発表したクラスでも活発な女子だった(余談だが、いま彼女は看護士になったそうだ)。
このあと、ぼくがわざと白身魚のフライをくずしていたなんてことで責任追及はされなかったのだが、ぼくはこの一件以来、女子は敵だと認識した。
女子を敵にまわすと、学校生活は大変だ。女子は先生を味方につけることを知っているから。
たとえば、掃除の時間、机を運んでくれないなんてしょっちょうである。これはけっこう、小学生のピュアな心には哀しいものだ。だから、そういうときはいつも報復として、教室の掃除当番だった女子の机を一台ずつ蹴っ飛ばしていたのだが、それをやると女子は嘘泣きをしやがって五時間目はぼくが机を蹴飛ばしたことについての学級会になったりする。やられてやり返したら、政治的に決着をつける。本当に女子は汚かった。
女子は正しいことをいいたがる。そのくせ、筋を通すより、自分に得なことを優先する。
ぼくはそれ以降、こういう女子らしさをいまだにかなりきらっている。
ただし、ぼくのことを「好きだ」といって寄って来る女子だけは別である。
ぼくは身長が一六八センチで体重が五十二キロの虚弱な青白い顔をした男なのだが、ものごとがよくわかっている本質的にものを見る目が養われている素敵な女性には、そんなぼくでも、中性的な、少年でも少女でもないまるで天使のようなイメージに見えるはずだ。
そんな高尚な女性たちが束になってぼくのファンクラブを作ってくれたら、ぼくは喜んで女性達の輪の中に飛び込むだろう。
いや、飛びこまさせてください!

