mogera
タイトル 新最上記(完) (吉梨(きつり))
琵琶行(二)
 義光は律儀なので、懐妊中でもなければきっちり月の半分ごと交互に局をおとずれるようにしている。そうはいっても、新年となれば優先されるのは正室である大崎御前だ。局まで足を運びながら義光は考えていた。
(おもえばお駒懐妊がわかった頃からおとずれていなかったか。もう何ヶ月ぶりだろう。なんだか千秋もたってしまった気がする。己が彦星でなくてほんとうによかった)
 期待で頭がぼうっとして、歩きながらも雲をふむようで、我ながら少々浮かれすぎだと彼は感じていた。だが、もうどうしようもない。
 局に入ると、淡い灯りの中で大崎御前は鏡にむかっていた。ごくごくあっさりとした寝化粧のせいか、肌のきめこまやかさがいっそうきわだっている。こういう水をしっとりとふくんだような肌は、雪国の特有のものだ。この肌を見ているだけで胸がざわつくようである。
 彼女はふりむいてほほえんだ。義光は肋骨の下で心臓がはねあがるような気がした。
(やはりとしよは、いつ見てもかわいらしい)
「わが君、今年も一年かわいがってくださいね」
「それは言われるまでもない。こちらこそ、よしなに」
 隣に座って手をとると、彼女ははずかしそうにうつむいた。
「新年そうそう、今日は侍女たちがみぐるしい真似をしてしまいました」
「何のことだ」
 義光としては余計な話はもういい気分だが、ここであわてるのもみっともない。
「ええ、あの、弥生どのが琴を弾きたいと言ったときに侍女たちがはしたない口をききまして……」
「ああ、あれか。だがどうして女たちはあんな態度を?」
 大崎御前はふうっとため息をついた。
「女の弾く楽器といえば、やはり琴がいちばんで琵琶はどうしても次ではありませんか。それで正室をさしおいてあの御方が琴を弾きたいのを、僭越と思ったものがいるのです。ほんとうにばかばかしい話ですけれども」
 義光はうなずきながらも驚いていた。
 たしかにその通りで、女の弾く楽器といえばまず琴が思い浮かぶ。宇治の橋姫たちも姉である大君が琴、妹の中君が琵琶を弾いている。まあ中には男の楽器である笛をけろりとした顔でたしなむ、米沢のお義のようなものもいるがこれは例外だ。
「そんなこと、私もとしよも気にしないならどうでもいいことなのに」
 義光はそう言って妻を抱き寄せたが、彼女はかるくその腕を押し返した。
「でもね、私はあの御方の本音を聞いたような気がするのです。どんな女といえど、胸には嫉妬がわくものでしょうに、弥生どのはお若いのにしっかりとそれを表に出さずにしまっておいでです。ときおりあの御方がほんとうにいじらしく思えてしまって……」
 義光はなんとなく居心地の悪さをおぼえた。自分を間に妻ふたりが嫉妬を抱き合うのは当然でありながら、何かこうへんな気持ちもある。ふたりとも姉妹のように仲がいいのだ。
「あの御方がお駒を見る目を見ていると、私も哀しいようなさみしいような気持ちがします。あかるい顔でありながら、どこかこう暗い目になるのですよ。私も嫁いだころはなかなか子ができず、それはつらくて。あの御方もいまきっとその気持ちでしょうね」
 義光もそのあたりは気になっていた。だが機会は均等にできても、結果にそれをともなわせることができないのはつらいところだ。
 ましてや天童御前の場合、大崎御前とはちがって夫の胤に問題がないとわかっているだけにつらいだろう。
「う、うん、そのあたり医者にも相談してみたのだが、弥生はどうにも血の道がよくないとも聞いた。男にはとんとわからんがなあ」
 義光の声はどこか上の空だ。近くで話していると甘いほのかな彼女の香りがただよってきて、意馬心猿といっていいほど落ち着かない気分だった。
「ねえ、ですから今日はとしよの言うことを聞いてくださります?」
 彼女は夫の手をとってまじまじと彼をみつめた。
「私はまだお駒を産んでから月のものがありません、今夜お情けをくださるのはありがたいことですけれど、子はきっとなせぬでしょう。それにどうしても弥生どのを思い出してしまって、いろいろとつらいのです。新年という特別な日であればこそ、どうかあの御方のもとへいかれてくださいな」
(そりゃないぞ、としよ……)
 義光はそんな本音とは裏腹の言葉を口にだした。
「そうか。おまえはほんとうにやさしいな、私には過ぎた妻だ」
(としよ……一体いつ以来だと……)
 彼女は腕をぎゅっと彼の腕に巻き付けた。たまらないほどやわらかい胸の感触が腕にあたる。
「わが君こそとてもおやさしい方です、そんなところがいいところ」
(としよ、いいぞ、もっと……やめてくれ、もうだめだ)
 しかしここで煩悩に負けてはいかんのである。男にはそういう正念場があるのだ。いまがそのときである。
 もしここで彼が欲望のままにふるまうような男だったら、いつもの妄想を十分の一でも実行にうつす男だったら、彼の人生はもっとちがっていただろう。
 しかし彼はそういう男ではなかった。だから彼は唇をきゅっと噛みしめて、妻をそっとおしのけた立ちあがった。
(こういうときこそ心で般若心経を唱えるのだ! 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是……)
「では名残おしいけれども、今日のところは弥生の局でやすむとしようか。としよ、近いうちにまた」
 彼女はちょっとうるんだ目で夫をみあげてうなずいた。
「ええ、そのときを心待ちにしております」
 大崎御前もまたつらい気持ちではある。彼女がこうも寛大な態度なのは、じつのところ家柄でも子の数でも、容貌や知性、そしてなにより寵愛でも天童御前に勝っているからであるかもしれない。彼女自身、そうした優越感をどこかはずかしく思う気持ちがあり、そのつぐないとしてこんなことを言い出したような気がしている。むろん彼女だって嫉妬しないわけではないし、夫が自分以外の女とむつみあっている姿なぞ考えたくもない。
 夫は歳を取ってもふけこまず、余計な肉がつくこともなく、かえって若いころにあった軽薄さや傲慢さが消えて、今は昔よりずっと深みのある大人のいい男になった。そんな彼にしがみついてひとりじめにして、ずっとはなしたくない気持ちがだが、それを我慢するのが大人の女というものだ。
 ふたりともかすんだ目でじっと互いをほれぼれとみつめていたが、その時間が長ければ長くなるほど決意がにぶるのを感じている。
 やがてやっと妻が目を逸らし、夫が咳払いをした。彼は顔で笑って心で泣いて、そしてうなずいて妻の局を出た。

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