匿名議論の自由
――議論は本来匿名でおこなわれるべきもので、これまではその手段がなかっただけに過ぎない――
実名での文書の公開や意見の表明が一目おかれるべき、という発想は古くからある特権的メディア時代の残滓ともいうべきものであり、可能な限り自由な発言が保証されるべきネットの世界に於いては淘汰されていくものだと考える。そしてそれは既に今起きつつある現実でもある。私たちには匿名で表現する自由があり、それにはたいへんな重みがあり、そしてそのための場所がネットには存在する。それはなにも特別なことではなく、世界を繋ぐネットワークが生まれたことによって、本来あるべき姿に近づいているだけなのだ。
民主主義の根幹である「投票」は匿名で行われる。投票者(有権者)に対する圧力を防ぎ、自由な投票をおこなうためその秘密は守られなければならない。投票者は匿名だからこそ投票所で安心して自分の意見を表明できる。それがなければ、この社会自体が成り立たない。誰が投票したかによって票の重さが変わったり、投票の責任を問われるなんてこともない。今のやり方がベストだとは限らないが悪いやり方じゃないと思う。
私は投票というミニマムな意見表明のみならず、すべての意見表明に関して匿名の自由が保障されるべきだと考える。匿名で発言できる自由があってこそ圧力の心配もなく闊達な議論がおこなわれるし、それはむしろこれからの世の中にとって必要なことだ。そこで形成される世論がこれからの社会を支えていく。それが本来あるべき姿で、やっとそこに近づきつつあると言っていい。これまでそれができなかったのはその手段がなかっただけだ。
そもそも意見の表明に責任を負う必要なんてあるんだろうか?
一方は発言できて一方はできないというアンフェアな状況であれば――かつてのように特定の人しか発言する機会が与えられず、相手は反論の機会がないという状況であれば――発言できる側は思慮深くあるべきかもしれない。
しかし、今や総ての人が同じ位置に立ち、言いたいことがあれば好きに言える時代である。
相手の意見を採用するかどうかも自分で決めればいい。
ならば発言に責任などもはや必要ではない。そもそも責任などとれない。
間違ったら間違ったで、どんどん修正すればいいだけの話だ。
それを受け容れるかどうかは受け手側の責任なのだ。
よりよい発言をしようという努力は必要だが、発したものに責任を負う必要なんてないんじゃないだろうか。
彼らは特定の限られた人だけが情報発信の手段を持ち、特定の限られた人だけが情報発信を許され、受け手がそれを素直に受け取るという環境に慣らされてしまっていた。
残念なことに、それらの受け手の多くは情報を咀嚼せず、発信された情報をそのまま真に受ける人たちであり、古いタイプの発信者にとって都合のよい人たちであった。
しかしながらそんな「都合の良い」人たち、今の基準で言えばメディアリテラシーが低い人たちは着実に減ってきている。
著名人の署名や権威あるとされる媒体に掲載されるということ自体が内容を保証する時代は終わったのだ。
同じ内容の発言を匿名で発表した場合と実名で発表した場合で、その価値が変わるものだろうか?
変わるわけがない。
責任を伴わないから匿名は軽い? いやいや、そもそも発言に責任など必要ない。
実名の発言によって責任を果たしたと思っている人は何か勘違いをしている。
そして「誰が」発言したかにこだわっている人は大切な部分が見えていない。
特定の限られた発信者のみが情報を発信できるという前提の上に構築された旧来メディアのビジネスは受け手の意識の変化と共に崩壊の路を歩みつつある。今や情報源がテレビ・ラジオ・新聞だけという人はメディアリテラシーが低いといわざるを得ない。
必要な情報は自ら探し出し、自ら意見を交換してそれぞれが納得のいく答えをみつけだしていくことができる人たちがこれから増えていく。そうなったときに社会の木鐸はもはや必要ない。それは人の数だけあるさまざまな意見のうちのひとつにしか過ぎないのだから。みんながそれぞれの音色を自由に鳴らせばいいのだ。
しかし言論に権威など不要であるということに気づく人が増えた。それを認めたくないのである。
「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、たとえるなら今やあらゆる人がペンを持っているに等しい。
そして匿名はペンを持つ人の思想と言論を圧力から守る盾である。
その状況をなぜ受け容れられないのか私は理解に苦しむ。
あるいはそれでは商売が成り立たなくなるからかもしれない。
ペンを持つことで生計を立てられる人が減る可能性は確かにある。
しかし勇気を持ってペンを総ての人に譲るべき時が来ている。
旧来メディアは今まさに変化しなくてはいけない時期なのである。
このまま新しい潮流の抵抗勢力になりさがり、凋落していってもよいのだろうか。
むしろ新しい潮流に乗りその手助けし補強をするということの中に光明があるのではないだろうか。
これまで言論に関わってきたという自負があるならば一刻も早くそのことに気づいて欲しい。
匿名議論にこれまで参加してきた人も、旧来メディアにより「匿名性の悪」を喧伝されたことによって
場合によってはちょっとした後ろめたさを感じていた向きもあるかもしれない。
しかしながら、匿名に関して後ろめたさを感じる必要はもうないのではないか。
むしろ新しい表現の場所にいちはやく居るということに自負を持ってもいいぐらいだ。
新聞購読世帯数5000万。この10年で3%減少。
インターネット利用者数9000万。この10年で60%増加。
力関係は変わりつつある。
そして、誰でも自由に発言できるという本来あるべき姿が顕れつつある。
(深水英一郎)
実名での文書の公開や意見の表明が一目おかれるべき、という発想は古くからある特権的メディア時代の残滓ともいうべきものであり、可能な限り自由な発言が保証されるべきネットの世界に於いては淘汰されていくものだと考える。そしてそれは既に今起きつつある現実でもある。私たちには匿名で表現する自由があり、それにはたいへんな重みがあり、そしてそのための場所がネットには存在する。それはなにも特別なことではなく、世界を繋ぐネットワークが生まれたことによって、本来あるべき姿に近づいているだけなのだ。
民主主義の根幹である「投票」は匿名で行われる。投票者(有権者)に対する圧力を防ぎ、自由な投票をおこなうためその秘密は守られなければならない。投票者は匿名だからこそ投票所で安心して自分の意見を表明できる。それがなければ、この社会自体が成り立たない。誰が投票したかによって票の重さが変わったり、投票の責任を問われるなんてこともない。今のやり方がベストだとは限らないが悪いやり方じゃないと思う。
私は投票というミニマムな意見表明のみならず、すべての意見表明に関して匿名の自由が保障されるべきだと考える。匿名で発言できる自由があってこそ圧力の心配もなく闊達な議論がおこなわれるし、それはむしろこれからの世の中にとって必要なことだ。そこで形成される世論がこれからの社会を支えていく。それが本来あるべき姿で、やっとそこに近づきつつあると言っていい。これまでそれができなかったのはその手段がなかっただけだ。
発言に責任は必要ない
発言には責任が伴うと言っている人は、受け手が情報を鵜呑みにすると思い込んでいる。これは古い傲慢な考え方から出てくるものだ。彼らは特定の限られた人たちが発言でき、それ自体が権威を持っているという環境に慣らされているのだろう。そもそも意見の表明に責任を負う必要なんてあるんだろうか?
一方は発言できて一方はできないというアンフェアな状況であれば――かつてのように特定の人しか発言する機会が与えられず、相手は反論の機会がないという状況であれば――発言できる側は思慮深くあるべきかもしれない。
しかし、今や総ての人が同じ位置に立ち、言いたいことがあれば好きに言える時代である。
相手の意見を採用するかどうかも自分で決めればいい。
ならば発言に責任などもはや必要ではない。そもそも責任などとれない。
間違ったら間違ったで、どんどん修正すればいいだけの話だ。
それを受け容れるかどうかは受け手側の責任なのだ。
よりよい発言をしようという努力は必要だが、発したものに責任を負う必要なんてないんじゃないだろうか。
社会の木鐸はもういらない
媒体に載せる議論や意見の表明に署名が必要だ、というのは古いメディアに関わる人たちが持つ幻想だと思う。しかし、時代は変わった。彼らは特定の限られた人だけが情報発信の手段を持ち、特定の限られた人だけが情報発信を許され、受け手がそれを素直に受け取るという環境に慣らされてしまっていた。
残念なことに、それらの受け手の多くは情報を咀嚼せず、発信された情報をそのまま真に受ける人たちであり、古いタイプの発信者にとって都合のよい人たちであった。
しかしながらそんな「都合の良い」人たち、今の基準で言えばメディアリテラシーが低い人たちは着実に減ってきている。
著名人の署名や権威あるとされる媒体に掲載されるということ自体が内容を保証する時代は終わったのだ。
同じ内容の発言を匿名で発表した場合と実名で発表した場合で、その価値が変わるものだろうか?
変わるわけがない。
責任を伴わないから匿名は軽い? いやいや、そもそも発言に責任など必要ない。
実名の発言によって責任を果たしたと思っている人は何か勘違いをしている。
そして「誰が」発言したかにこだわっている人は大切な部分が見えていない。
特定の限られた発信者のみが情報を発信できるという前提の上に構築された旧来メディアのビジネスは受け手の意識の変化と共に崩壊の路を歩みつつある。今や情報源がテレビ・ラジオ・新聞だけという人はメディアリテラシーが低いといわざるを得ない。
必要な情報は自ら探し出し、自ら意見を交換してそれぞれが納得のいく答えをみつけだしていくことができる人たちがこれから増えていく。そうなったときに社会の木鐸はもはや必要ない。それは人の数だけあるさまざまな意見のうちのひとつにしか過ぎないのだから。みんながそれぞれの音色を自由に鳴らせばいいのだ。
旧来メディアはなぜ「匿名性の悪」を説くのか
それは崩壊しつつある旧来メディアの悲鳴である。彼らのビジネスは権威という幻想の上に構築されている。しかし言論に権威など不要であるということに気づく人が増えた。それを認めたくないのである。
「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、たとえるなら今やあらゆる人がペンを持っているに等しい。
そして匿名はペンを持つ人の思想と言論を圧力から守る盾である。
その状況をなぜ受け容れられないのか私は理解に苦しむ。
あるいはそれでは商売が成り立たなくなるからかもしれない。
ペンを持つことで生計を立てられる人が減る可能性は確かにある。
しかし勇気を持ってペンを総ての人に譲るべき時が来ている。
旧来メディアは今まさに変化しなくてはいけない時期なのである。
このまま新しい潮流の抵抗勢力になりさがり、凋落していってもよいのだろうか。
むしろ新しい潮流に乗りその手助けし補強をするということの中に光明があるのではないだろうか。
これまで言論に関わってきたという自負があるならば一刻も早くそのことに気づいて欲しい。
匿名議論にこれまで参加してきた人も、旧来メディアにより「匿名性の悪」を喧伝されたことによって
場合によってはちょっとした後ろめたさを感じていた向きもあるかもしれない。
しかしながら、匿名に関して後ろめたさを感じる必要はもうないのではないか。
むしろ新しい表現の場所にいちはやく居るということに自負を持ってもいいぐらいだ。
新聞購読世帯数5000万。この10年で3%減少。
インターネット利用者数9000万。この10年で60%増加。
力関係は変わりつつある。
そして、誰でも自由に発言できるという本来あるべき姿が顕れつつある。
(深水英一郎)

