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十六本目 熱斜 (茶屋休石)
 まるで電子レンジの中に閉じ込められてしまったかのような酷い暑さだった。
 彼は今でもその異様な日の事を鮮明に思い出すことができた。
 己の姿を全て晒し出し、それでもなおまだ何かを曝け出そうとする太陽。そんな世界の王から逃れる術は無い。何処へ行っても光、光、光。光は世界を照らしその世界を顕にしてやるという使命を見失ったかのように全てを白色光で染め上げていく。そして白と黒のコントラストが作り出されていく。
 太陽の魔の手から逃れるために影へ影へと逃れようとしても、光は熱となってその追撃を緩めようとしない。その追撃に湿気が加勢する。水蒸気の兵隊たちはその身に熱を纏い、絶えず彼にまとわりついてくる。
拭いても拭いても汗がとめどなく流れ出、一方は水蒸気となって彼を取り囲み、一方は粘着質な物質となって熱と不快さを捉えて放そうとはしない。
 むせ返ってしまうのではないかと思うほどの熱と湿気。そして、彼を逃そうとしない陽射。
こめかみから流れ出た汗が頬を伝い、顎の先端へと行き着き、輝きを放ちながら落下する。アスファルトに落ちた神秘の雫は見る見るうちにその領土を失っていき、やがて完全に不可視な存在へと変わって行く。
 蝉の大合唱もあいまって、彼の脳みそはその思考能力の大半を失ってしまっていた。一体自分は何故こんな所にいるのか。そんなことですら見失ってしまいそうなほど、異様な暑さだった。
 その日彼は友達の家に向かうところだった。もちろん、遊ぶため。大人になった今であればあんな暑さの中でよく遊べたものだと思うのだが、その当時の彼にとっては熱い事と遊ぶか遊ばないかの問題は全くの別問題だった。嵐来ようが吹雪が吹こうが遊びが何よりの優先事項、むしろそれすら遊びの中に取り込んでしまうほどの貪欲さがあった。
 その時その場所で、彼が何故止まろうと思ったのか、それは今では定かではない。
 何を思ったか、うんざりするほど眩しい太陽を見上げ、その残像を目に焼き付ける。前後不覚になって、ぼんやりと周囲を窺うと彼より年少の少年の後姿が目に入った。近所の少年で何度か面倒を見たことがある。面倒を見たことがあるといっても結局最終的には自分の遊びに夢中になって放っておいてしまうことばかりだったのだが。少年はたった一人で遊んでいるようだった。網で小さな用水路を掬っている。彼も魚を取る事がある用水路。その時彼の脳裏に学校の先生や大人たちの言葉が過ぎる。
 危ないからあそこで遊んではいけないよ。
 それは後付の記憶だったのかもしれない。しかし、その事は今となっては重要な意味を帯び、今でも彼を支配している。
 彼は大人たちの言う事など全く気にも留めず危険な場所で遊び続けていた。そんな大人たちの言う事ばかり聞いていては遊ぶ場所は何処にも無くなってしまう。そんな事を考えていたか否か定かではないが、彼は少年に声をかけることも無く思い出したかのように再び自転車を漕ぎ出した。
 本来ならばそれは忘れ去られてしかるべきのある夏の一場面でしかなかった。
 あの事件さえ、起こる事が無ければ。


 その日、友達の家から帰宅すると異様な空気が辺りを包んでいた。真っ赤に染まった夕暮れの下、蜩達の静かな輪唱の下で大人たちはいそいそと動き回り、如何にも不安そうな表情を浮かべていた。夜を告げようとする風が涼しさと共に、暗い影を引き連れてくる。漠然とした不安感だけは幼かった彼にも感じることはできた。言いようのない胸騒ぎが彼の心の中で顔を見せた。何故だかは良くわからないが、何だか良くないことが起き、そしてそれが自分と関係があるような気はしてならなかった。
 玄関を開けると心配そうな表情を浮かべた母が電話をしていた。彼は小声で「ただいま」と言うと、母は声を出さずにお帰りと口の形だけを作り直ぐに電話の方に注意を戻した。彼は静かに母の横を通り抜けると居間へと向かった。
居間では祖母が灯りもつけずにテレビを見ていた。彼は蛍光灯から垂れ下がる紐を引き灯りをつける。彼の身長でも蛍光灯をつけられるようにと本来の紐に加えて更に長い紐が結び付けられている。ずっと前からありこれからもあり続けるであろうその紐がその日に限ってはとても奇異なものに感じられて仕方が無かった。
「お帰り」
 祖母の声に我に返ると部屋の中はやたら明るいような気がした。
「ただいま」
 彼は祖母の向かい側に座ってテレビに見入る。何か面白い番組と言うわけでもない。興味を引くニュースをやっているわけでもない。ただ漠然と色とりどりの明かりが明滅する箱を見詰めていただけだった。いつもならばチャンネルを変えて良いかと祖母にせがむのだが、その日に限ってはそれすらする気が起きなかった。いつの間にいたのか、蝿が蛍光灯へと果敢の特攻を仕掛けていてその度に頭上で、かつん、かつん、と言う音が響いていた。真っ赤だった夕暮れも次第次第に墨の色が溶け込みはじめていた。外が暗くなる一方で部屋の中はより明るくなっていくような気がした。
 台所の方では母が何かを切る音が聞こえてくる。コトリ、コトリ、と時は速く時には遅い単調なリズムが家の木目の隅々まで浸透していく。台所には蝿取り用のガムテープのようなものが垂れ下がっていて、それにくっついた死んでいるのか生きているのかわからない蝿が時折ピクピクと動くのだ。生きているのか死んでいるかわからない祖母がテレビを見たまま固まっている。何か話しかけなければ祖母がこのまま死んでしまうような気がした。
「何かあったの」
 そこで初めて祖母が瞬きをしたような気がした。まるでスイッチを入れた機械人形のように祖母はゆっくりと彼の方へと顔を向ける。生気の無い、蝋人形のような仮面の口からゆったりとした音が漏れ出てくる。
 ほら、逆井さんの、何て、言ったかしらねぇ、ほら、うちにも、時々遊びに来ていた、あの、なんて言ったかしらねぇ、ほら、ねぇ、顔は思い出せるんだけどねぇ
「ひでちゃん?」
 そう、そう、その子がねぇ、まだ、帰ってきてないらしいんだよぉ、心配だねぇ、何か事件に巻き込まれたりしていないと良いんでけどねぇ夜になったら、ひょっこり帰ってくるかもしれないけどねぇ、ほら、お前も居なくなった事があったでしょ、いつだったかねぇ、夏だったのは、覚えてるんだけどねぇ
 
 ひでちゃん。その名前が直ぐに出てきたことに自分でも驚いた記憶があった。逆井さんなどと言われても、その頃の彼は近所の苗字など全く覚えてはいなかった。それにもかかわらず、とっさにその名が彼の口から飛び出していた。直感、とでも言ったら良いのだろうか。直ぐにあの後姿とその名前が浮かんできた。あの用水路で遊んでいた後姿が強烈な光と共に彼の記憶の中に蘇ってくる。けれども、まだ何かあったと決まったわけではない。きっと泣きべそをかきながら自分の家に戻ってくるに違いない。

 夜、寝ようとすると、暗い廊下の影から祖母がやって来るの見えた。ミシ、ミシ、と床板をきしませながら一歩一歩確実に祖母は歩んでいる。祖母は彼にはまるで彼には気付いていないと言った様子で俯きながら歩いてきていた。彼がすれ違いざまに祖母に道を譲ろうとしたとき突然祖母が喋りだした。
ほら、あの子、ひでちゃんって言ったっけ、見つかったんだって。でもねぇ。可哀想ににねぇ、見つかったときには、もう、

 死んじゃってたんだってさぁ

 その言葉が彼に重くのしかかってきた。その言葉だけが幾度も幾度も彼の頭の中で反響して、吸収されることも外へ逃げる事も無いまま響き続けていた。だからその後祖母が何を話していた全く覚えていない。気付けば祖母は既にはそこにはいなくなっており、何処からとも無くみし、みしという床板のきしむ音が聞こえてくるばかりであった。
 何故、一人で遊んでいたんだろう。もし、あの時一声でもひでちゃんが死ぬような事は無かったかもしれない。僕が目を離してから直ぐにひでちゃんは溺れたのかもしれない。僕がもう少しひでちゃんを見ていれば。考えれば考えるほど頭の中のもやもやしたものが膨れがって言った。記憶を呼び起こすとそのたびに悪夢のような変容を帯びていた。ひでちゃんがこっちを見ていたり、ずぶ濡れになったひでちゃんが手招きをしていたり。溶ける様な熱さ。突き刺さる熱射。鳴き止まぬセミ。白い世界。黒い影。網からこぼれる水の音。ひでちゃんの背中。
 仕方が無かったんだ。死ぬなんて思わなかったし。
 僕は。僕は。
 その瞬間、記憶の中でひでちゃんが振り向いた。生きているか死んでいるかわからない顔で、目があるはずの場所には穴が空いているだけだった。そして、口から不気味な音が漏れ出てくる。
「お前のせいだ」



 それから二十年以上の歳月が過ぎ去っていった。それでも時折、あの事件のことが彼の頭に過ぎる事があった。あの事件は家族の中での禁忌のような存在になっているようで誰一人としてそのことを話すものはいなかった。勿論、彼自身もその事件については何も言わなかった。だがそのことが彼を罪悪感で蝕んでいく要因の一つでもあった。あの時、ひでちゃんを見た事を誰にも話さないでいるのは何か悪い事をして黙っているような心持だった。全て話してしまって何故声をかけなかったのかと責められる方がまだ幾分かましな様な気すらした。
 時が流れ、そんな罪悪感もちょっとした心にひっかかり程度のものへと変貌を遂げていた。それでも、そのひっかかりをひとたび気にし始めると気になって仕方がなくなる魚の小骨のような存在でもあった。
 その日、彼は仕事関係の都合のついでに実家に立ち寄っていた。数ヶ月ぶりにやってきた実家はやたら暗いような気がした。それはおそらく外が明るすぎるからなのだろうとそんな想像を巡らして行く。そんな静かな抵抗とは裏腹に帰ってくるたびに実家の雰囲気が寂しく、萎びれ細っていく様子がひしひしと感じられた。この家は、静かに死に向かって歩を進めている。
「麦茶でも飲む?」
 そんな中でも母の元気さだけは変わらないような気がする。そうは思うもののその顔には過ぎ去った歳月が刻まれていて、変化が無い事など有り得ないことを痛感させてくれる。
「あ、うん、有難う」
 蝉が狂ったように鳴いている。外は白昼と言う言葉が文字通りのものであるとでも言うかのように白い。あの日も確か、こんな暑さだった。
 彼は麦茶を運んできた母にあの日のことを問う。あれほど口に出しては不味い事だと思っていたものが、簡単に言えた。
「昔さ、ひでちゃんって居たよね」
 何か違和感があった。何か間違った事を言ってしまったような、そんな違和感が。
「ひでちゃん?」
 母はキョトンとした様子で彼の顔を見ている。
「ほら、あそこの用水路で亡くなった、逆井さんの所の」
 彼は慌てて付け加える。付け加えたは良いが彼の中の違和感が益々大きなものへと成長していく。
「何言ってるのよ。逆井さんの家には子供なんていなかったわよ。それにあそこに用水路なんて無かったじゃない?まさか、親より早く呆けたんじゃないでしょうね」


 額から流れ落ちる汗をハンカチで拭う。
 うだるような暑さ。
 まるで、あの日のよう。
 彼の記憶にしか存在しない、あの一日のよう。
 かつて、用水路があったはずの場所に彼は立っていた。用水路など存在しては居なかった。かつてその場所に用水路が存在していた形跡も無かった。ただ、所々禿げて土が見える草むらがあり、その奥には雑木林があるだけだった。
 何だ。
 何も無いじゃないか。
 用水路なんて、ここには無い。
 ただの勘違いだったんだ。ただの勘違いで俺は苦しんできたんだ。
 馬鹿馬鹿しい。
 ひでちゃんなんて存在しない。そもそも子供が行方不明になる事件なんて起きていない。
 何故、そんな事件が起きたと思うようになったのか。彼は記憶の中をたどっていくと祖母の顔が思い出される。そうだ、祖母が言ったんだ。ひでちゃんが居なくなって、そして、死んだって。そんな話を聞いたから夢でも見たのだろう。いないはずのひでちゃんの後姿を見る夢を。
 何故、祖母は俺を騙そうとしたのだろう。祖母?祖母だって?あの時祖母は確か、もう・・・・

 死んじゃってたんだってさぁ

 老婆の声が聞こえてきた。
 何処からか聞こえてきたものではない。
 頭の中に、直接響いてくるものだ。
 あの時、居間にいた老婆の声だ。
 彼がずっと祖母だと思い込んでいた生きているのか死んでいるのかわからない老婆。

 あ れ は だ れ だ っ た ん だ。

 血の気がすぅっと引いていくのが良くわかった。全身で鳥肌が立ち、体温を調節する機構が壊れた。
 祖母は彼が物心つく以前に死んでいたのだ。それどころかあの老婆は遺影にあった祖母に顔とは似てもにつかぬものだった。それにもかかわらず彼はあの日の記憶でだけはあの老婆を祖母だと思い続けていた。
 突然、足に妙な圧力を感じた。ひんやりとした感覚が次第に広がっていく。
 冷たい。
 まるで、
 まるでそれは、
 死体に触れられているかのようだった。
 彼が恐る恐るそこへ目を向けると、雪のように白く小さな手が彼の足を掴んでいた。
 死体のように冷たく、死体のように血の気の失せた、子供の手。
 気絶しそうになりながらも辛うじて意識をとどめようと努力する。ぼんやりとした視界の中で先程までは無かったはずの たくさんの白いものが目に映った。
 土から生える無数の手。
 青白く綺麗な子供の手が、まるで何かの植物であるかのように地面から生えている。
 彼を取り囲むかのように、
 手
 手
 手
 手
 数本の手が彼の足を掴み、ゆっくりと地面に引き摺りこんでいく。
 地面はまるで泥沼のように軟化し、彼は足は見る見るうちに地面の中へと沈んでいった。
 彼を掴む手はどんどん数を増し、振りほどこうにも次から次へとまとわりついてくる。
 ゆっくりと、ゆっくりと、だが確実に彼は沈み続ける。
 もはや、彼にはどうしようもなかった。

 ほら、お前も居なくなった事があったでしょ、いつだったかねぇ、夏だったのは、覚えてるんだけどねぇ

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